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2017年3月 6日 (月)

魂が抜けた「技法導入」

 先般、思想まで理解せずに、技法だけ導入することの弊害として、「トヨタ方式」と称するものの導入に関して少し議論した。
 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-6863.html
 この話は、日本の「和魂洋才」による技術導入に一つの根があると以下で指摘した。
 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-bbbc.html
 しかし、よく考えてみると、もっと根が深いように思う。「和魂洋才」の前には「和魂漢才」がある。中国文明に飲み込まれず、上手く取捨選択して技術というか、技法だけを導入している。

 しかし、このように表面的・断片的な導入は、失うものが多いのも事実である。
 今回取り上げるのは、「念仏」という概念である。わが国では、念仏と言えば
   「南無阿弥陀仏」
と唱えることと思う人が多いだろう。
 しかし天台の「摩訶止観」では、念仏を禅定が進んだときに、仏の姿を見る根本的な行として、とらえている。たんなる言葉ではなく、仏の教えをいろいろと学びそれを実感して、一つの姿としての仏を観る、このような修行の成果としての念仏をとらえている。
 このように考えれば、天台宗のなかでも法華一乗の原点回帰を唱えた、日蓮上人が
  「念仏無限」
と言ったのは解るような気がする。つまり、摩訶止観の念仏も知らずに、阿弥陀如来の名号のみを唱えるのでは、無間地獄に落ちると教えたのである。
 もっとも、比叡山の連中には、法華経を完全に読まずに「南無妙法蓮華経」を唱えるだけの輩も、異端として厳しく排斥した。

 このような、形だけのものは、普及力には優れているが、だれかきちんと本質を理解して、指導する人間が必要だと思う。

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 先日書いた、魂の抜けた技法導入の話と、SPIなどの対策の話は、少し深く考えると [続きを読む]

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