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2017年5月 4日 (木)

手話を言語にするなら教科書はどう変化する

 前に、ひつじ書房の「手話を言語と言うのなら」に関連して、理論的なコミュニケーションと、日常的感情的なコミュニケーションを、分離することを提案した。
 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-1594.html
 私の個人的な意見では。理論的な知識の伝達は、従来の日本語の書き言葉で、読み書き型のコミュニケーションで行う.一方、日常的生活や感情面での伝達は、手話を言語として活用する。この2本立てがよいのではないかと思っている。

 しかし、ここで大きな問題がある。それは、小学校のレベルでの教科書の問題である。小学校のレベルでは、読み書きの基礎的な力がまだできていない。このような子たちに、第二言語としての「書き言葉日本語」を教える。(第一言語を「手話」とした場合)
 この準備ができているのだろうか。つまり、話し言葉を聞いていて、それを土台に読み書きの訓練をし、話し言葉の向上をするのが、今の小学校の国語教育である。その土台が崩れる、聴覚に障害のある人は、どのように教えるべきだろう?
 これを考えると、もっと丁寧な教科書の作成が必要ではないかと思う。
 確かに、すぐれた知性の人は、今の教科書でも対応できるだろう。
 ヘレンケラーが言語を習得し、津田梅子は子供のままアメリカにわたり、色々なものを日本に持ち帰った。しかし、これが全ての人にできるのではない。
 義務教育という、一般化の意味を考えると、手話を第一言語にする場合の教科書の見直しは、大きな問題ではないかと思う。

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 昨日書いた、聴覚障がい者の教育について、前に書いた記事も読み返してみた。  2 [続きを読む]

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