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2017年5月 6日 (土)

論争の意味を考えてみた

 昨日は、政治が首取りだけに終わる未成熟さ について、少し議論した。
 この話をもう少し考えてみると、本当に成熟した議論というのは何処にあるのだろう、という議論が必要に思うようになった。もう少し言うと、
   「対等な人間関係の議論がないのでは?」
という問題である。言い換えると、お互いに意見を出し合って、新しいものを作り上げるという発想がなくて、どちらかが優位に立って支配するという、上下関係の取り合いという、議論の位置づけしかないのではという疑問である。
 この原因として、一つの仮説は、儒教の科挙制度の文明がある。韓国や沖縄は、日本と違い科挙の制度を採用していた。つまり、儒教精神で、優位に立ったものの支配という発想である。これを考えると、韓国の日本に対する言い方や、翁長知事の発言などに、どうも優位に立ちたがる傾向が見える。そして一度優位に立てばすべて支配という感じが見える。
 一方、日本は科挙を入れなかったというが、明治以降の官僚制度は、まさしく学歴社会であり、科挙に代わる公務員試験である。
 このように、優位に立った人間の絶対支配が後ろにある。そのために優位に立つ手段としての論争という図式が、現在の論争の位置づけではないかと思う。
 この発想を崩すにはどうしたらよいのだろう?
 企業社会なら、全員参加の改善活動という、答えがあるのだが、これが政治に反映されないのは情けないことである。

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