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2017年7月12日 (水)

なぜ「無視」するのか、もう少し考えた

 先日から書いている、 
   「見たくないものを無視する」
姿勢について、少し別の切り口から考えてみた。よく会社の上司などにある
   「完全なものでないと見ない」
という姿勢について、今回は考えてみたい。
 私は、この話に宗教的な解釈があると思う。キリスト教文明では、神の世界は我々にとって、到達不可能な世界であり、有限なる能力の人間は、部分的なものしか理解できない。したがって、不完全なものしかできないから、それを持ち寄って、完成させるために議論する。また、判っている範囲を明確にするために契約などの明文化を行う。
 一方、大乗仏教の世界では、すべての人に仏の智慧がある。つまり完全なものを理解できるという思想がある。このように
   「正解に到達できる」
と可能性を信じることは、大切なことである。求めないと、答えを得ることはできない。
 しかし、その副作用もある。
   「完全なものを持ってこないと受け付けない。」
このような上司の姿勢に泣かされた人は少なくないだろう。
 このような上司には
   「問題点があっても、完全な解決が出るまで見ないふりをする。」
という行動をとる人間が少なくない。
 解決できないから、その問題を見ないふりをする。

 このような人たちが今多くいるように思う。確かに、下手に寝ている子を起こすよりは、触らぬ神に祟りなしかもしれないが、本当の問題解決のためには、部分的にでも解決の道を探ることも大切だと思う。未熟な解決策でも、育てる度量のある大人が、少なくなっているように思う。

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