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2017年8月28日 (月)

戦争に関する一考察

 先日、Facebookで、岡田真理さんが「自衛隊の戦力に関する思考実験」を試みていた。
 ここで私は、

岡田様、もうひとつの可能性です。AI等の技術を徹底化し、自衛隊自体の省人化が進む。この可能性もありますね。他国と違い専守防衛に成れば、自動装置でも宗教的、道徳的な反発は少ないでしょう。このようになると、少数のプロ集団がロボットなどを操る。この解決策もあるかもしれません。思考実験だから一つの案です。

という意見を書いてみた。今回はこの話をもう少し深堀してみた。

 まず、戦争について、2つのパターンがある。一つは、お互いの意見が合わないための、喧嘩の延長としての戦争である。そしてもう一つは、「他国や自国民に対する重大なら犯罪」に対する、懲罰としての戦争である。この二つは、裁判における民事裁判と刑事裁判と思ってもらえばよい。民事裁判の制度が確立する前には、決闘で決着をつけたこともあった。ヨーロッパ文明の戦争に関する発想には、このような決闘の発想が見える。
 このように決闘の延長の戦争なら、
 「お互いが公正な手段で戦う」
という発想になる。戦時国際法に、その思想が一部反映している。この発想なら、一方的に強い側が、相手に反撃できないような形での攻撃というのは、許されないということになる。

 さて、もう一つの懲罰としての戦争である。これにはいろいろな形があるが、最近の事例では、
 「シリアのアサド政権が化学兵器を使ったことに対して、
 アメリカが巡航ミサイルを撃ち込んだ。」
という話がある。これは国際法上、人道上の許されない「毒ガス使用」に対して、断固たる意志を示すものであり、この場合に技術差があって、相手が反撃できない状況でも、攻撃は許されるという発想である。

 さて、我が国の現状を考えてみよう。いろいろ議論はあるが、憲法9条により、まず我が国が他国に対して、「懲罰的戦争」を仕掛けることはできない。次に、相手から仕掛けられた戦争行為に対しては、これは自衛権の発動はあるだろう。正当防衛という権利まで放棄したものではない。(国民の生きる権利を保障しない憲法など作っていない)

 ここまで考えると、我が国の戦争行為は、わが国内に対する、何らかの侵略行為に対しての防衛措置となる。この場合には、正当防衛的な意味があるから、相手に対しての技術的優位も十分に使って構わない。アメリカでは、身を守るためなら、殴るなどの攻撃を受けた人間が、発砲しても構わないとなっている。(か弱い女性が暴漢と対等に戦うためにはピストルの利用も構わない)
 この発想からすれば、AIやロボットを利用した、無人化防衛システムの配備は、我が国ならほかの国より認められる要素が大きいと思う。
 実際、アメリカは無人偵察機を使って、世界中の「国際法的犯罪者」の暗殺を試みている。確かに、懲罰としては、一方的な攻撃も必要かもしれないが、これがエスカレートすると、歯止めが利かなくなる。

 また、宗教的にも、キリスト教などでは、「神の領域」に人間が踏み込むことの抵抗がある。ロボットの戦いは、この側面があると思う。
 しかし、我が国の場合には、人間にも仏性があるという、仏教の教えであり、その面からも抵抗が少ないと思う。

 憲法9条をうまく活用して、国防のAI化・ロボット化を進めるのも一つの考えではないかと思う。 

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