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2017年8月17日 (木)

疑似哲学の弊害

 昨日、朝日新聞が疑似科学と科学の境界の話を取り上げていた。
http://www.asahi.com/articles/DA3S13088571.html
 この内容には、ある程度同意する。科学としての再現可能性や、還元論の働き、そして反証可能性などが、科学的方法論として考えられるが、それにこだわれない状況もある。確かに、因果関係でなく、いろいろなものが絡む中での相関関係などは、ビッグデータの世界では、多く出てくるだろう。これを排除できないのが現在の状況である。
 さて、このような科学と疑似科学の教会を考えるのは、科学哲学の働きどころである。
 しかし、現在の科学哲学を、本当に身に着けている人はどれほどいるのだろう?
 大学で、哲学を教えるというが、
 「カントがxxといった。ポパーがxxといった。一方デネットはxxといった。」
ということだけ教えているのではないか。
 確かに先人の考えを知ることは重要である。しかし、哲学というものは、そこから自分の考えを生み出すものである。戦時が言ったことを鵜呑みにして、繰り返すならそれは
 「カルト宗教に近い疑似哲学」
というべきではないか。
 自分で論証過程を吟味できず、その結果だけを持ち歩く。このような人罪育成機関である一部大学は、猛省すべきではないかと思う。
 疑似哲学と哲学の違いについて、哲学界からきちんとした話が出てもよいのではないかと思う。 

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