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2017年9月29日 (金)

見たくないものに目をつぶるののが「六根清浄」か?

 日本の一部政治家やマスメディア、そしていわゆる知識人の中には、
自分が見たくないものは見ない
という性格を持っている人が少なくない。例えば
朝鮮民主主義人民共和国は理想の国、拉致は米韓のでっち上げ
と主張していて、ホームページでも主張していた、S民党は、HPを削除し今ではそのようなことはなかったように口を拭っている。
 このように、
   「穢れたもの」
は見ないようにするのは、平安時代の貴族社会から、我が国に伝わる伝統である。
 さて、このような人たちが、道徳的にどのように考えているのだろう。実は、彼らはそれなりに、キチンと仏教の戒律を守っているつもりらしい。つまり、
   「六根清浄」
で、穢いものを感覚器官に触れさせないことが大事であるという主張である。
 確かに法華経の中にも、
狩猟などをする人に近づかない(例えば安楽行品)
という教えはある。但し、その前提として、本来の仏教は、「殺生禁止=肉食禁止」である。自分が食べないから、そのような食物に近寄らないという発想はわかる。しかし、グルメと称して、
  「ビーフステーキを飽食」
している人種が、
  「牛を殺すところは残酷だから見ない」
と言っているのは困ったものである。
 
 なお、法華経の教えをきちんと読み込むと、このことに関して、しっかりした答えがある。
 法師功徳品第十九では、六根清浄について書いているが、ここでは
法華経を本当に理解すれば、六根清浄になる。その時、目は、三千大世界のあらゆる山林河海を見ること、下は地獄から上は天上までを見る。また其の中の一切衆生を見、その業の因縁・果報を悉く見て悉く知る
という力を、六根清浄と言っている。
 これを解読すると、
   「たとえ地獄にあっても、仏の力を見て、皆が救われる道を見出す。」
という、一念三千の教えがここにあると思う。清くないものを、自らの力と仏の力を合わせて、清浄にしていく。また、因果果報の教えからすれば、このような地獄にもそれなりの理由があり、そこに仏の教えという清浄なものが働くことを見るかもしれない。
 とにかく、法華経をまじめに読めば、現実に目を背けることが、仏の教えではないということが分かる。しかし、判っていない人が多いようでもある。

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