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2017年11月 5日 (日)

プロテスタントについて議論するために

 昨日は、宗教改革について書いた。これに関連して、大事な話がある。
 それは、マックスヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で書いた、
プロテスタントは、神の救いを自分に納得させるために勤勉になる
という思想である。
 この思想に関して、
日本の石田心学などと共通するものがある
という議論を聞くことがある。
 しかし私はこれは根本的に違っていると思う。
 キリスト教の信仰においては、「救われる者」と「救われない者」の峻別がきちんとされている。最後の審判で、地獄行の者は永遠に地獄にいないといけない。しかもそれは
   「神のみぞ知る」
であって、人間は理解できない。そこで少しでも
   「自分は救われる者である」
と信じるために、強迫感に追い込まれて働くというのが、ヴェーバーの主張である。
 
 一方、日本の場合には、根本に法華経などによる
   「すべての人は成仏する」
という思想がある。悪人であっても、それを悔い改め地獄できちんと修行すれば、仏の世界に救われるという信仰である。
 この前提のもとに
   「口に念仏のいずる時は、神仏のご催促と考える」
という発想がある。神仏の世界と、自らが感応している、これが根底にある
   「勤勉は神仏の喜び給うところ」
という発想であり、救いの実感である。
 ヴェーバーの強迫感の世界より、救いと安心があるように思うがいかがであろうか?

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