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2017年12月 6日 (水)

フィルターバブルという危険性について(与えられたものしか見ない)

 昨日、早川書房から出ている「フィルターバブル:イーライ・パリサ―著:井口耕二訳」を読んだ。ここで、言うバブルは、我々を「泡のように包むもの」という意味で使っている。つまり、
私たちは、インターネットから多くの情報を入手するが、その情報はGoogleやFacebookなどが、私たちの好みを見て、選んだ情報である。
という趣旨の本である。確かに、Googleの検索でも近頃は、求めるものがすぐに見つかることが多い。そして、かなり良質の広告が検索ページに出ていることも多い。このような検索を、個人に合わせて調整しているということは、この本を読んであらためて実感した。
 また、Facebookにも、色々なページの紹介がある。私も勉強になると思ってそのページを見ることもある。この情報がまた蓄積されていて、また次に提供されたページを見に行くことが多くなる。
 さて、このようなフィルター機能は、良いモノであろうか?確かにメリットとしては、検索時間を節約し、しかも多くあるネット情報の中から、必要そうなものを選んで提供してくれることはありがたい。しかし、ここで大切なことは、フィルターで落ちたものがあるということである。ネット上の議論が、極論に走りやすくなるというが、自分に対して、反対する意見を見なくなる。それどころか、そのような意見があることも見なくなる。もっと極端な話では、ニュース自体も
  「与えられたことしか見ない」
となってしまう。
 これでよいのかというのが、この本の主張である。
 私もうすうす感じていたが、Googleの提供するニュースのページには、絞り込みすぎている危険がある。そこで、ニュースに関してはYahooのページを見るようにしている。表題だけでも見ることで、少しは見方が広がってくる。
 しかし、この問題は、今までもあったように思う。マックス・ヴェーバーの指摘する、
  「価値などの介入危険性を意識する」
ことの重要性を、ここでもう一度考えるべきだろう。

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