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2018年2月 4日 (日)

現在の常識にとらわれすぎていた(メディア論を学んで)

 近頃、マクルーハンの「メディア論」が気になって、色々と調べている。特に
メディアが人間の感覚を変えていく
という発想は、現在のインターネット時代、さらにAIの介入する時代には、きちんと議論すべきものだと思う。
 さて今回は、マクルーハンと同時期に書かれた、「プラトン序説:エリック・A・ハヴロック:村岡晋一訳:新書館」から、少し議論してみたい。
 この本の趣旨を少し乱暴にまとめると、以下のようになる。
 ギリシャの古代からの「教育」は、詩人が口誦で伝える、ホメロスなどの詩を、暗誦したい関することで行われていた。
 プラトンは、アルファベットで記述された、「書物による教育」が可能という立場で詩人を攻撃、排除しようとした。このような教育可能性の根拠として、「イデア」を提唱した。
この説は、この後の西洋文明の発達に関して、うまく説明がつく。また、それまでの前提としての。幾何学の存在も、状況を説明してくれる。さらに、口頭の伝授と、書き物での伝承の間を埋めるものとして、プラトンの一連の「対話編」が存在し、その後のアリストテレスからは、きちんとした書き物になっていくことも説明がつく。
 このように考えると、プラトンの
   「イデアによる理想化」
というアイデアの重みが分かってくる。
 一方、我が国の状況はこれと大きく変わってくる。確かに、口頭伝承の時代はあった。その時代の伝説や歌の効果はあったと思う。しかし、中華文明が近所にあり、そこではすでに律令制度までが、ある程度完成していた。それを受けた、我々の文明は、イデア的なものが入り込む余地がなかったように思う。

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