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2018年2月20日 (火)

「詩」の役割について

 メディア論について、色々読んでいくとハヴロックの「プラトン序説」が指摘した、『詩人』の役割についてもう少し考えるべきだとわかった。つまり、プラトン(ソクラテス)以前のギリシャの教育は、ホメロスの詩などを伝えることで、生き方などの模範を伝える役割も担っていた。
 この話で思い出したのが、日本の国語教育の論争の一つである、
「国語教育の教材と道徳教育の教材が混同している」
という議論である。私も60年ほど前の小学校教育で、「十和田の姫鱒」や「坂出の塩田」というような、「苦労して開拓する人の話」を読み、教師からこのような人になりなさいと教えられた経験がある。このように、
「価値観が介入した国語教育が良いのか」
という主張は、近ごろよく聞くようになった。私はこれに関しては、色々と言いたいことがある。まず、歴史的な観点でもう少しこの問題を取り上げてみよう。
 明治以前の寺子屋に戻れば。読み書きの訓練は、貞永式目や論語の抜き書きを、書写することが大きな要素であった。つまり、「習字」の教材に、道徳的なものが絡んでいたのである。もう少し言えば、プラトンの時代まで遡れば、全ての学問は哲学に収束していく。このように考えると、道徳を分離することができるかという議論となる。
 この問題に関する私の意見は、言語技術として、論理的なコミュニケーションに徹するなら、道徳と国語教育の分離は可能と考える。しかしながら、心情的なものが絡むとき、どこかに倫理的なものが絡んでくる。このような感情の問題に対して、教える側の価値観によるバイアスを避けることはできないと考える。
 従って、感動に関しても、ある種の「共通感覚」的なものが前提にあるという考えで、教育すべきではないかと思う。
 このように考えると『詩』の役割は、プラトン以前まで戻って考えるべきかなと思っている。
 

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