ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

« 歴史の学び方について(進化論の悪影響排除) | トップページ | 「平和」な日本の弊害 »

2018年6月14日 (木)

学問の形態について「テトラレンマ」の発想から

 昔、仏教的な論理として、テトラレンマについて書いたことがある。
 つまり、
 1 Aである
 2 Aでない
 3 Aであることもなく、Aでないこともない
 4 Aであることもあり、Aでないこともある
西洋の論理学(ロゴス)では、1,2しか認めていない。従って、排中律が成立し、背理法での推論も可能になる。1~4を認めるのがテトラレンマである。
さて、これを今の学問と照らし合わせてみたら、色々と見えてきた。
 まず、1,2だけの、狭い意味の西洋論理での議論は、数学などの
   「きちんと定義された世界で成立するもの」
である。
 次に、3は中間の存在を意味している。これは、上記の
   「きちんと定義された世界を現実と対応させると中間的なモノが出る」
という状況である。これは、理論の記号社会に外部の現実社会の意味を考えたときに起こる現象である。物理学の進歩などは、このような現象にきちんと向き合った時に起こっている。
 さて、最後の両者が成立という状況は、矛盾に見えるかもしれない。しかしよく考えてみると
   「学問の設定時に、世界の見方(切り取り方)を決める」
という状況なら、世界の見方の変化で、Aであり、しかもAでないという、両面の切り取り方が見えるかもしれない。社会科学などは、このような状況ではないかと思う。
 ミルズが言いたかった、ことはこのようなことではないか。
 
 

« 歴史の学び方について(進化論の悪影響排除) | トップページ | 「平和」な日本の弊害 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 学問の形態について「テトラレンマ」の発想から:

« 歴史の学び方について(進化論の悪影響排除) | トップページ | 「平和」な日本の弊害 »