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2018年8月15日 (水)

仏教をメディア論の立場で考えてみた

 お盆なので、仏教について少し考えてみた。
 まず仏像の話である。お釈迦様が教えを説いた時には、仏像を作るというよな発想はなかっただろう。これは、原始仏教の教えなどからも明らかである。そして、仏像ができたのは、ギリシャ文明の影響を受けたガンダーラ美術からと言われている。
 しかし、私はお釈迦様からの直接の教えが、伝えにくくなってきて、経典などの手段で伝承しようとしたときに、人格的な形で教えの具体的なイメージを伝えるため、仏像は必然的でできてきたように思う。
 仏像には三十二相八十種好という特徴がある。これは、仏の力や働きという抽象的なモノを示している。例えば
手足指縵網相(しゅそくしまんもうそう)
手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。
という形は、
仏の慈悲でできるだけ多くの人を救うために漏れないように膜がある
という風に「慈悲の展開」を示している。
 当時は、今のような製本印刷もない時代であり、書き物で伝達するより、仏像を作り、その意味を伝えることの方が、大衆への伝搬手段としては有効であった。
 また、日想観などから始まる、阿弥陀如来の浄土を想像する修行も、紙が貴重な時代に、極楽浄土の「絵姿」などを伝え、個人がしっかり保有する手段としては、適切なものだったと思う。現在のように、テレビやインスタなどの画像情報が簡単に手に入る。本も直ぐに買えるし、カラー刷りもきちんとできている。このような恵まれた環境でなければ、自力で想像していくしかなかった。このように考えると、阿弥陀様の世界を観るための、種々の観想法は必要だったと思う。
 この発想の延長で、天台の止観業や、禅について考えてみた。天台止観は、本来法華経の描く世界を実践するための修行である。分別功徳品にあるように、法華経を深く解れば、お釈迦様が霊鷲山で説法している場に行くことができる。これを行うのが止観業である。
 しかし、現在は、学校教育により、『科学的思考』がしっかり根付いていて、それに合わないものは受け付けなくなっている。テレビなどの画像を見ないと、自力で想像できなくなっている。このような現在の不便についてももう少し考えるべきだと思う。

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