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2018年8月22日 (水)

どこまで実体験が必要か

 思考実験の本、

を読んだ。この中で、一つ「マリーの部屋」という思考実験が気になった。
 つまり一度も外に出たことはないが、大量の知識のある人間が、本当に知っていると言えるかという話である。
 この話を、貧困問題に絡めて、少し考えてみた。子供の夏休みの絵日記、家庭の事情でどこにも行けなかった子が、想像や親のスマホ情報を使って、山や海の体験を書いたとしよう。これを、「うそを書いた」と責めることができるだろうか。しかし、一方ではパソコンを与えられた子が、ネット上で色々な情報をつぎはぎして、夏休みの経験の作文をコピペした。これを認めることができるだろうか?
 小説家の体験に関してもいろいろな議論があるが、実体験がどこまで必要かという議論も、もう少し行うべきだと思う。
 私の評価尺度は、実体験がない場合には、仮想的な社会で自分の考えというものが、きちんと展開できていることが、一つの基準である。しっかりした論理展開があれば、実体験なしの仮想的社会というものは、ある程度は認めるべきだと思う。
 もっとも、仮想的社会の押し付けは、困ったことを起こすのも事実である。
 「朝鮮民主主義人民共和国は理想の国」
と言った人に、拉致問題の解決をどれほど邪魔されたか、歴史の教訓が物語っている。

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