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2018年8月16日 (木)

仏様の拝み方

 昨日書いた、仏教の話について、もう少し考えてみたい。
 仏像を作るということは、崇拝の対象でもあるが、お経の内容を見せるためのモノでもある。例えば、仏の慈悲は多くの衆生を救うという話がある。これを仏像を見ると、手の指の間から漏れることがないように、水かきのようなものがついていて、できるだけ多くの人を救おうとしている。これが仏の誓願の一つを示している。
 さらに、法華経と日蓮宗の寺の仏像を考えてみよう。
 釈迦如来と多宝如来が一緒に座っている姿、これは法華経が説く、虚空での説法の姿である。周辺の菩薩たちも、法華経の世界である。
 これを単に崇拝の対象と見るか、それとも分別功徳品第十七に説く
寿量品の仏の寿命が長遠なることを深心に信解すれば、
いつも仏が霊鷲山で多くの菩薩や弟子たちに説法している姿を見る
を実現するための手段としてみるか、これはその人の信仰によるだろう。
 
 逆に、このような見方ができにくくなっている現在を反省する必要もある。一つの理由は、学校知識の充実で、合理的なモノしか信じられなくなっている体質がある。もう一つは、印刷、電子化メディアの発達である。我々は、しっかりした情報を与えられる環境にいる。従って想像力が働かなくなっている。
 このように考えると、お経が、見事に詩的世界を展開しても、それを見る力がなくなっている。
 このような感受性を、今日の寺施餓鬼でもう一度見直してみたい。

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