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2018年9月27日 (木)

無理なことに対する対応について

 昨日書いた、法華経の話から、思いついたことがあるので書いておく。
 法華経では
  「誰もが仏になる」
という大乗の教えを説いているが、分別功徳品では、
  「仏の寿命が永遠なることを深く信じ解すれば、仏が常に霊鷲山で説法する姿を見る」
とあり一方、法師功徳品では、
  「未だ天眼を得ずと言えども~~」
という一節がある。つまり、仏にならないが、お釈迦様が霊鷲山で説法をしている姿などは観ることができる、と説いている。
 これは、深い意味があると思う。
 仏の本当の力は、全てのモノを我が子と思って面倒を見る力である。そこには、まともなモノだけではない、地獄の世界もある。このような世界まで、今の我々が責任をとれるのだろうか?そこで仏は、慈悲の心で
 「とりあえず霊鷲山で仏の説法している姿を観る」
ぐらいにしておくことが無難と考えたのではないか?
 あまりにも大きすぎる問題に、直面し自力で解決しようとして、解けなかった時には、人はどうなるか?責任に押しつぶされそうになる。
 ただし、この問題を完全に見ないで済ますということもできない。従って、地獄があるということは観る。それを見た上で自分の立場を考える。このような修行になるのかと思う。
 この辺りを誤解して、問題がなかったことにしようとする動き、これが今の我が国には多くあるように思う。
 少し古くは、北朝鮮の拉致問題に対する、動きもそのような面があった.確かに、カルトに近い『熱心な』社会主義崇拝者は、
  「拉致はアメリカ帝国主義の捏造」
と真剣に思っていただろうが、多くの人は、
  「見ないふりをしていた」
面があった。
 さらに現在のいじめ問題の、教育委員会や学校側の対応にもこれがある。
 自分たちで解決することが難しくても、問題のあることに向き合い、他人の助けも借りてでも解決すべきではないか。完全な答えでなくても、少しでも良くする動きが必要ではないか?最悪の事態を避けるにはないが必要か、常に考える必要がある。

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