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2018年10月13日 (土)

座禅について色々と考えてみた

 先日ある縁で、臨済宗中興の祖と言われる、白隠禅師について書いてあるものを読んだ。確かに、偉大な禅僧である。しかし、皮肉な目で見ると、彼の悟りを開いていく段階で起こったことは、現在で言えばパワハラやいじめそのものである。殴る、怒鳴りつける、これが指導と、現在の学校で行えば、大変なことになる。
 しかし、よく考えてみると、どうも学校(部活を含む)の指導の中で、何も説明せずに、ダメ出しだけ行って、できなければ起こるという指導が、少なからず存在したように思う。
 この問題は、かなり深いものがあるように思う。明治の学校制度を作ったときに、西洋文明的な発想で学校を作ったことは確かである。しかし、和魂洋才という言葉が示すように、我が国の伝統的なモノが、根底に存在した。
 その一つが、禅の発想である。『不立文字』という言葉が示すように、言葉で示せないものがある。これを肯定している。一方、西洋文明は、プラトンやデカルトの流れで、できる限り言葉で説明することを大事にしている。これができなくてもよいと、安易に妥協したのが日本の教育システムである。
 もう一つ言えば、学校教師の大量育成は、本当に力がなくても、教師の権威で指導できるようになっていた。つまり、判っていなくても、生徒にやれと指導する、このようなことが行われていた。
 これが現在にも残っているように思う。
 もう一つ言えば、一昔前の、インテリは『マルクスか禅にかぶれる』という流れがあった。どちらも独断の弊害がある。このような世代の教師に、指導を受けた子供たちは、幅広い考え方を受け入れなくなるのではと心配である。

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