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2018年10月16日 (火)

見えすぎることの弊害

 昨日書いた、解決できない問題への対処に関連して、もう少し思うところを書いておく。
昨日書いたのは宗教面での対応であった。確かに、法華経とその実践修行である天台の魔訶止観は、よくできたシステムである。
 法華経をすべて読めば、天眼が拓けて、地獄まで見える話も書いてある。しかし、そのような地獄を観て、自分に何ができるのだろう。そこでは仏の救いを信じることで、自らの安定を得る。これは大切な解決方法だと思う。
 または、全てが『空』と否定してしまう。これも一つの解決方法かもしれない。しかし、これは現実世界で生きていくためには、逃避になってしまう。そのために『仮』の世界の救いを考え、『中』の安定を得ることが重要であると教えている。
 しかし、今の世の中を見ると、この段階に至っていないように思う。
 まず、ネット上の情報氾濫では、色々な問題点が見えた感じになってしまう。この時、世界中の矛盾や不平等などが見えるので、色々な不満が生じる。しかし、その解決はできない。そこで誰かを悪者にして、攻撃する。解決できない問題に関して、その責任をだれかにかぶせて攻撃し、それで自分は正義を行ったと思い込む。このような風潮があるように思う。
 一方、この反対に問題に向き合うべき人間が、目を背けてしまう傾向もある。つまりなかったことにする問題先送りなどである。
 北朝鮮の拉致問題に関しても、一部の確信犯は
  「朝鮮民主主義共和国は理想の国、拉致はアメリカ帝国主義者と追従者のでっち上げ」
と本気で信じていただろう。
 しかし、一部の政治家には
  「見なかったことで済まそう」
という発想があたように思えてならない。社会党の一部の意見が通ることを見過ごした、多くの政治家の動きにこのようなものを感じるのは私だけだろうか?
 もっともこれ以外にも、金大中事件にもあるように、韓国の工作員も日本国内で活動していた。この面も、我が国の多くの人は見て見ないふりをしていたように思う。朝鮮半島への対応は、戦後の日本史をきちんと検証する時に、もっと明らかにすべきものがある。

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