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2018年10月 8日 (月)

どこまで厳しく反省すべきか?

 昨日書いた、経験を説明できる力に関する話に関連して、もう少し議論すべきことを思いついた。
 自らの成功理由や、失敗理由について説明する。これは大事なことではあるが、それに耐える人間がどれほどいるかという議論である。
 詳しく反省すれば、成功理由に関しても、偶然や他人の助力が大きく、自分の貢献は少ないということに気が付き、無力感に襲われる可能性がある。また失敗理由でも、他人に責任転嫁せず、冷静に見ていけば、自分の責任が大きいことに気が付く。この重みというものは、正直に向き合うと結構重い。
 もっと言えば、自分の過去を反省すると、色々な罪深さを見てしまう。子供時代のいじめ問題でも、自分が被害者と思っていたことでも、自分にも悪い面があったこと、そして多くの人を傷つけていたことを思い出す。このような痛みにどれほどの人が絶えるのだろう。
 このように考えていると、西洋文明では、カソリック教会は悪名高い
  「免罪符」
を売っていたことを思い出した。このような、いい加減さが、かえって救いになったのではと思う。一方、マックスヴェーバーが指摘したように、プロテスタントの一部は、
  「自分の救いを確信するために勤勉にならざるを得なかった」
言い換えると
  「恐怖からの逃避としての勤勉」
があった。
 確かにこの発想もあると思う。
 なお、日本の大乗仏教には、自分自身の将来の救いがある。皆が仏になるという教えの力があるから、懺悔させることもできるのではと思う。
 このような宗教的な救いを無視して、厳しく自己に当たらせることは、危険ではないかと思ってしまった。

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