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2018年11月10日 (土)

国語教育における感情面の伝達に関して

 国語教育において、論理的な読み書きと、情緒的な読み書きと、どちらを重視すべきかという議論は昔からある。
 この問題について、私は意見を決めかねている。
 まず論理的な文章の読み書きのスキルは、確実に身に着けて欲しい。これは間違いない。そのための訓練が現在の国語教育において、まだまだ不十分であることも認める。
 しかし、もう一方の
    「他人の感情に寄り添う読み方」
に関しての意見がまとまっていない。
 正直言って、私には人の感情に寄り添う読み方が、弱かったということを認める。その反省に立って、そのような心得、スキルの重要性は認める。
 しかし、それが教育できるかという問題は別物である。
 これは、個人的な問題も絡むが、私の経験で、一部とは思うが、国語教師には危険な面があることを指摘しておく。
 私の高校のある教師には
   「ケチな小市民を志して」
   ~~
   「社畜になれ」
等と、傷つけられたことがある。
 このような、
   「文学青年崩れ」
の辺な理想主義、浮世離れ感覚で、
   「人の心に寄り添う訓練」
をされると偏った、読み方になるように思う。
 大体、人間はそこまで生きてきた経験が色々とある。私は、子供の頃から貧窮だったため、他の人が経験できるものが多くは経験できていない。
 そのため、私が言う事は
   「実体験のない薄っぺらいものだ」
と罵倒されたことも多くある。
 このような個人的恨みもあるが、文学青年になる程度の、裕福な生活をした人や、家族の食ベルに苦しむ姿に平気だった人間に対して、共感を覚えない自分を思って、国語教育の感性的側面重視には、疑問を感じてしまう。

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