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2019年4月26日 (金)

人を守る役割はどこにあるのか?

 近頃のニュースで、色々と気になるものがある。例えば、「子供に対する強制性交」で親が無罪判決となったり、アイドルがファンから暴行を受けても、芸能事務所運営側から、被害者が責められたりという話がある。

 これらの話について、原因となるものを考えると、以下の状況が出てくる。

  弁護士等の専門家の手に架かれば、これらの事件で
   「加害者の無罪判決を得る」
  可能性が高い。

ということである。これは、刑事司法の原則から言えば

  「疑わしきは被告人有利」

ということであるから、弁護士が力を出せば、

  「確証がなく疑わしい状況」

まで持ち込んで、

  「有罪でない判決を得る」

ことが多くなる。なお、『一事不再審』の原則にしたがい、「無罪確定を避ける」ために、検察側が不起訴で判断先送りをすることも少なくないだろう。

 確かに、刑事裁判という面で見れば、弁護士の活動は、被告人の権利を守るという原則があり、この活動を責めることはできない。

 しかし、よく考えてみると、被害者の権利というものはどうなっているのだろう。もう少し言えば、現在被害を受けている人間を、どのように保護するかという議論が抜けている。

 この問題に関して、アメリカの状況と比較して考えると、見えてくるものがある。日本人が否定的に見ている

  「アメリカ人の銃を持つ権利」

についてもう少し考えてみよう。つまり、銃を持つ権利ということは、

  「自分の身は自分で守れ」

ということである。現実にアメリカの法律の多くは

  「相手が先に殴り掛かったら、反撃する権利がある」

と認めている。この権利があるから、犯罪者側にも弁護をきちんとしないといけない。

 一方、日本の法律では、多くの場合に

  「逃げない方が悪い」

というルールで、正当防衛が認められる条件はかなり狭くなっている。
 このような状況で、被害者が保護を求めて、継続的な加害者を訴えることは十分ある。

 しかし現在の法律では、これに答えるようにはなっていない。行政・立法の面からも、この問題をきちんと解決していくべきだと思う。

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