ご縁のあった人たち

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2019年5月31日 (金)

日本の正当防衛の範囲について 「トロッコ問題」で考える

 川崎で痛ましい事件が起こった。このような問題が起こるとき、私が歯がゆく思うのは、日本の法制度の正当防衛の厳しさである。つまり

「逃げられるなら逃げないといけない。逃げることができない条件のみ正当防衛が認められる。」

という条件である。

 しかしながら、この条件に関してはかなり厳しいものがある。今回の事件でも分かるように、多くの人を無差別の殺傷するような相手なら、

「自分一人逃げても他の弱い子供などが被害にあう」

状況になる。

 さらにもう一つの条件がある。許される反撃は最低限という条件である。つまり、できるだけ致命傷を与えないという条件である。しかし、この表現は、実情を知らない人間の発想に思える。

「加害者の精神状態が常軌を逸している場合には、普通の人間が感じる痛み程度では、行動を制することはできない。」
つまり、片手を骨折させても、別の手で刃物を振ります可能性もある。

このような異常な状態への対処が必要になる。

 さてここで、一つの思考実験をしてみよう。

貴方が、道を歩いていた時、前方から刃物を振り回した男が突進してきた。
貴方が、今来た所、つまりこの男の突進先には、小学生の集団登校の列があった。
貴方は、傘を持っていた。

さてここで貴方の行動はどうなるだろう?

まず最初に「何をしているのだ」と声をかける。
これは必要だろう

しかしそれでも突進するときどうする

私なら仕方ないから、傘の先で容赦なく彼ののどを突く

このような相手は、普通の制止法では間に合わないので、確実に戦闘力を奪う、突きの一撃に賭ける。

 さて、ここで私が、副題に上げたトロッコ問題である。私が『トロッコ問題』と言った意味は以下のとおりである。

私が、行動することで、多くの子供に被害が及ぶ可能性を少なくできる。
しかし、私は「過剰防衛」などの罪に問われ、これからの人生を棒に振る可能性がある。
行動せずに「何もできなかった」と言い訳していれば、罪に問われることはない。

このような、自己利益に関する問題として、トロッコ問題を考えることも重要だと思う。

 現実に、学生が痴漢にあったとき、犯人を追いかけても、ほとんどの人が協力しなかった。この現実を考えるべきだろう。

 このためには、法運用の正当防衛に関して、もう少し広げるべきだと思う。

2019年5月30日 (木)

この国の多くの人の精神年齢は?

 昨日、#春名風花 版の「しくじり先生」をAbemaで見た。

 https://abema.tv/video/episode/88-77_s1_p9?utm_campaign=episode_share_tw&utm_medium=social&utm_source=twitter

 名子役の #はるかぜちゃん の、若いときの失敗談だが、色々と教訓に満ち溢れている。なお、春名風花氏は、現在でも18歳なので、年寄りの回顧ではない。但し、0歳からの役者経験があり、3歳以降は、お金のことを常に意識していた生活だから、普通の大人が25歳で意識していることを、3歳から意識していることになる。つまり

25+15=40の人生経験がある

40歳と言えば、不惑である。

落ち着いて、道を考える時だろう。

 さて、彼女の5歳~9歳ぐらいの話は

銭ゲバ

ということらしい。確かに、自分の力で稼ぐことができる。しかも、ギャラという形で、評価がそのまま帰ってくる。このような体験をすれば、

「お金が全てでしょう」
「金儲けは悪いことですか」

という発想にもなるだろう。

 さて、このセリフはどこかで聞いた感じがしないだろうか。色々と世の中を騒がせた、『XXの寵児』などが言いそうな言葉である。

 そうしてこれをもてはやす社会であった。

 一方、春名風花氏は、その後もSNSでの騒動など、色々と苦労をし、現在は

「人の心に触れる演劇の世界」

で活躍しているらしい。

 しかし、日本社会の拝金的要素や、言わゆる論理的な主張を振り回す、ネット世論の状況は、

「小学生の春名風花」

のレベルにも達していないのではないかと思うってしまう。

 

 

2019年5月29日 (水)

国賓トランプ大統領夫妻に対するおもてなしについて

 令和になって、最初の国賓であるトランプ大統領夫妻が無事帰国した。とりあえず無事終わって、良かったと思う。

 トランプ大統領を令和の最初の国賓として迎えることに関しては、色々な意見があったと思う。しかしよく考えてみれば、

「他に誰がいるの!」

となるだろう。

近くの大国のC国のS主席を迎えるか?
これは政治利用されそうだ!

今まで歴史的につながりのあるE国は?
女王様はご高齢だし、政治的に大混乱中!

等々

このような状況を考えると、ペリー来航以来の友好国である、アメリカの大統領というのは、悪くない選択だと思う。

 さて、ここでアメリカ側の事情を少し考えてみよう。実は、アメリカ人は王制というものに対して、ある種のあこがれを持っている層が少なからずいる。彼らにとっては、英国の王室がまず脳裏に浮かぶだろう。しかし、今回トランプ大統領が使った言葉が意味深である。

「日本のエンペラー」

である。イギリス王室をキング・クイーンというのに比べて、一段上の称号である。確かに『天皇』の訳語だから、『エンペラー』は正しいが、色々なスピーチを見ても、

「英国王室などより伝統ある日本皇室」

というニュアンスが見えてくる。

 このような憧れの対象である、日本の皇室がトランプ大統領を受け入れる。これは、アメリカ人にとっても喜ばしいことだろう。ただしこのような人たちは、

「トランプ夫妻が失敗しないか?」

と真剣に心配している。

 実は、この問題に関して日本のマスメディアの対応が、興味深いモノであった。私は、NHKの中継を見ていたが、カメラワークに色々な工夫を感じた。

 例えば、歓迎式典でのアメリカ国歌斉唱時には、トランプ夫妻は右手を胸に当てる、米国流の作法をきちんと行っている。これをアップで写し、天皇陛下の姿勢は写さない。一方、君が代斉唱時には、天皇皇后両陛下だけを写している。日本風とアメリカ風の礼法の違いがあるが、それを見せないことで、余分な議論を逃げようとする配慮だと思う。

 また、天皇皇后両陛下と、トランプ夫妻の会見の時に、メラニア夫人が足を組んだ時、NHKは直ぐにカメラを切り替えて、それを写さないようにした。これも余計な批判を避けるためだと思う。

 もっとも、次の日の朝日新聞の一面には、メラニア夫人が足を組んでいる姿の写真が載っていた。この件に関して、どのような配慮があったか少し気になる面がある。

 しかしよく考えてみれば、儀礼というものは、ある種の寛容も必要である。両陛下は、色々な文化に対する造詣も深いので多様なものを受け入れられる大きなものがあるだろう。

「相手に恥をかかさないことが本当のおもてなし」

この原則を、我が国全体で守っていたのが、今回の対応ではないかと思う。

 もう一つ言えば、

「各国首脳たちで心の底でトランプ大統領を馬鹿にしていないのは?」

という問題もある。どうも、ドイツなどは、心の底で

「なりあがりもの・無教養」
(アメリカ人の一部にも!)

と言っていそうな気がある。そういう意味では、まともにレスペクトしているのは、日本ぐらいではないかと思う。

2019年5月28日 (火)

数値だけでしか考えないのか?本当に意味のある数値か?

 昨日ネット上で二つの興味ある記事を見た。一つは、東洋経済オンラインの

「数字の見積もりが速い人」の秘密の計算術

知っておくと役立つ「フェルミ推定」の基本

 https://toyokeizai.net/articles/-/283128

 であり、もう一つは日経BPの

F1中野信治氏に聞く 速く走るにはどうしたらいいか

レースの現場は、超高速回転している社会の縮図

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00105/00036/?n_cid=nbponb_twbn

である。

 この二つは、数値の扱いについて、良い面と危ない面を述べている。まず、「フェルミ推定」の話は、概略のモデル化による数値の見積もりを行う話であり、確かに仕事の最初に失敗可能性を排除するためには、有効な手段である。いわば

「これの常識的に考えた値はどのようなモノだろう」

と推定して、仕事に取り掛かるにあたするものか、判定するための手法としては有効である。但し、これだけでは、本当の宝の山を逃す可能性もある。例えば、この記事にあった、一時雇用の社員の有効活用の話は、データベース構築という投資数値でつぶされている。しかし実務上なら、スモールスタートととして、情報の掲示板での共有などで対応することも可能になる。このように数値だけで考えると、現場の実務に合わない空論だけに終わることが多くなって、改善に行かないことが少なくない。

 ただし、この問題に関しては、経営側としては、一時的な雇用関係が、定着化し継続雇用化することを嫌ったが、それを説得するために、数値を使ったという可能性もある。

 さて、数値がきちんと使えている世界は、レースの現場での議論にある。つまりチームが最短時間で仕事をするために、全て数値でコミュニケーションできるように、各人の技量と理解が出来上がっている世界である。部品の位置など、精密な数値で指示しそれに書耐えるチームしか、世界のチャンピオンにはなれない。これは大事な話だと思う。

 確かに、現在の日本は高学歴化して、数字や横文字での情報共有ができるようになってきている。このようなコミュニケーションの効果は、よく考えるべきである。しかし、それで落ちるものの配慮も必要になる。

 管理し経営するためには、このバランス感覚が必要になる。

2019年5月27日 (月)

「平成」時代の特徴 学校教育的世界観の過剰適応

 昨日の続きで、「平成時代」を見直してみた。私に見出した平成の特徴は、

「技術の勝利」
「学校の教科書が実現した世界」

という面が大きかったように思う。これは、昭和の時代と比べると良くわかる。例えば、昭和の40年代から50年代の初めでも、電子回路の技術者は、まず教科書通りの設計をしても、そのままでは現場では動かないという体験をしている。理由は、個別部品の製造技術と性能が現在とは、比べ物にならないほど劣っていたからである。集積回路など性能は低く、個別部品の力に依存していた。一方、抵抗やコンデンサなどの個別部品の製造工程も、現在の自動化と管理状況から比べれば、作業者に依存する部分も多く、ばらつきは多く存在した。

 このため、まず教科書通りの設計図案を描いた後、経験的なモノで外部雑音の対策や、個々の部品の軽挙妄動を防ぐための仕組みを入れていく。この部分は、先人の蓄積や現場の経験がものを言う。更に、自分で現場を体験しながら調整していく。このような経験を積みながら、技術者として成長していくのであった。

 しかし、平成の時代になれば、集積回路技術から、コンピュータ応用製品が多く生まれてくる。現場の作業に関しても、シーケンス制御を行うPLCのプログラムを書くと言う感じになってきた。このようなプログラムは

「教科書通りに作れば動く」

モノが多くなってきている。また、ノイズなどの対策に関して、

「ノイズの派生状況を理論的に教える教科書とそれを埋め込んだシミュレータがある」

という状況である。

 このようになった平成は。「言行一致の時代」というべきかもしれない。この弊害については、昔かいた。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-46cb.html

令和では、この見直しが必要だろう。

2019年5月26日 (日)

令和になったら平成が見えてくる

 「令和」になったら、何が変わるかという議論がある。私は、色々と変わると思う。その理由は、

「平成」という時代をまとめて反省することができる

からである。歴史というものを見る時、自分のいる時代は扱うことが難しい。

歴史は過去を扱う学問である

これはもう少し付け加えると

ブロック化して他の時代と比較することで議論する
今の連続の中では評価できない

という側面がある。ここで

平成ー>令和 の断絶を使って平静を反省する
改善項目を考える
もう一つ加えると昭和の反省もできる

ことで少しは良くなるのではないかと思う。

 確かに、平成の時代は、冷戦構造が崩れて、日本という国の立ち位置が難しくなった時代であった。そこでの失敗もいろいろとある。また、戦後昭和の負の遺産を何とか断ち切ろうとした時代でもあった。私の考える一番の成果は

マルクス主義の価値観からの脱却
例えば
「朝鮮民主主義人民共和国は理想の国」

なるマスメディアや一部政党が大人しくなったことが、大きな成果だったと思う。このような、

マルクス主義を闊歩させた戦後の自民党政治

についても、

冷戦構造の特異性

貧困国日本がアメリカの援助を使って立ち直った昭和

という時代を客観的に見ることで、正しい評価ができるのではないかと思う。

2019年5月25日 (土)

努力の前に必要なモノ

 世の中では

「努力をすれば報われる」

と言われているが、この言葉の前に何か抜けているように思う。

「努力の方向が大切である」

「社会の必要とするものを知っているか?」

これは、一つありそうな感じもする。もう一つ

「信頼関係が大切である」

これもあるのかな。

 この問題の根本を考えると、

『学校などの均一的価値観の世界を前提で考えている」

ことが一つの仮説で出てくる。確かの学校の勉強や、一つのスポーツなどでは、

「正しい方法での努力は報われる」

ことが多い。

 しかし現在の社会は

「多様化の時代」

である。

 このような状況では、

「本当に必要な方向を見出して努力する」

ことが大切だと思う。そのためのリーダーの役割が大切になっている。

2019年5月24日 (金)

現在の社会に生きていること

 貨幣経済について考える時、現代社会は色々な『信用』によって成立していることが解る。私達は、この中で生きていることを意識していない。しかし、

  「水と安全はタダ」

等の議論があるが、私たちの生活の前提を見直すことも大切なことだと思う。私達は、無条件で信用しているものが多くあるが、本当にこれでよいのだろうか?また逆に、色々と疑う人もいるが、その人の疑う根拠が、その人が『信じていること』であり、その前提を疑わないといけないこともある。

 私たちのように、終戦後の冷戦時代を生きてきた人間は、戦中から戦後の手のひら返しも見てきた。また、ソ連の指導を受けた共産主義の色々な動き、それに対抗したアメリカなどの動き、さらに「日本が共産化する」とアメリカを脅した、自民党の駆け引きなどは、今ならわかるが、当時はその一面だけしか見なかった。

 そこでは、学校教師の言う事を『信用』しろと言われる。

   「平和憲法は大切」
   「アメリカの帝国主義の先がある」  一部教師

等々、色々あった。

 しかし、このような権威を、『自然に信用する』躾ができているのではないかと思う。

 これは、平成の時代になって、教育がますます行き届いてきたように思う。昭和には、戦後の手のひら返しの記憶があったが、冷戦構造の崩壊後はこれが無くなってきた。

 この問題をもう一度見直すべき時が来たのではと思う。

2019年5月23日 (木)

財政の赤字について

 消費税の引き上げを行うか、凍結するかの議論は、衆議院の解散も絡んで変に具体化してきた。この裏には、財政赤字の問題がある。これに対して、危険性が高いという議論と、国内で国債購入している限りは問題が少ないという二つの立場に分かれる。

 私は、この話の前提をもう少し考えるべきではと思う。つまり、

   「日本という国の信頼性は何か?」

   これは大きく分けて

     「他の国から見て日本に対する信頼は?」
     「日本国民は日本に国の制度を信頼しているか?」

という問題になる。つまり、

  「国が発行している通貨は、国が信用されているから価値がある。」

という議論の前提を考えただけである。

 確かに、日本国債は多くは国内保有が大きいので、海外から売りをかけられて暴落の可能性は低い。しかし、海外の人間が

  「日本という国を信用しなくなった」

時には、やはり『円という通貨』は通用しなくなるだろう。

 ここで、日本が信用される理由は何だろう。一つの切り口は、マックス・ヴェーバーの『プロ倫理』が描く勤勉性である。多くの国と比べても、日本人の勤勉性は高い。もう一つは、今までの工業国としての蓄積だろう。

 さて、私はもう一つの日本の財産を考えている。

  「歴史の体験的教訓」

である。実は日本は、明治維新の時、幕府及び各藩の大量の赤字を、新政府の紙幣発行という方法で切り抜けた実績がある。これがどうしてできたか、国民の勤勉性と、天皇を中心とした政府への信頼が支えたと思う。この教訓をもう一度考えるべきではないかと思う。 

2019年5月22日 (水)

AIとの付き合い方

 近頃の囲碁将棋の世界を見ると、どうもコンピューターの影響が大きくなっているように思う。つまり、いわゆる「AIソフト」が示した戦法などを、プロが取り入れるという状況が起こっている。

 確かに、コンピュータ同士での対局が行われて、しかもコンピュータのレベルが、プロのレベルにまで達したら、蓄積される情報は従来の人間同士に比べれば、けた違いのものとなる。その中から新しい戦い方が生まれても不思議はない。また、人間の訓練としても、コンピュータ相手の対局なら、回数も多くできるし、時には試行錯誤もできる。少し発想を広げれば、野球の練習でも、バッティングマシンが使えるならば、一人の人間が多くの打ち込みを行うことも可能になる。

 このように考えると、AIの効果は以下の2面がある。

  1. 人間に新しい観点などを示すAI
  2. 人間の鍛錬に根気よくつき合うAI

但し、囲碁の世界などを見て少し不安になるのは

  1. AI的発想に取り込まれた人間

が出現しているような気がする。確かに、人間は感情があり、余計なことを考えたり、心配しすぎたりする傾向がある。その点、AIには先入観も少ないし、不安もない。これを考えると新しい発想が出る可能性もある。

 しかし、考えの基本をコンピュータに合わせるのは危険なような気がする。その点、まだ将棋の方が、人間の力を大事にしているように思う。これは、将棋の方が複雑さが以後より低いだけに、人間が到達した点が進んでいるのではないかと思う。この違いが、人間の善戦をもたらしいているように思う。

 さて、一般社会では、囲碁や将棋のような決まった盤面はない。どこから介入があるかわからない。この状況なら、本当に考える力のある人間はまだ生き残るだろう。

2019年5月21日 (火)

終身雇用制度の限界に関して

 経済界の幹部などから

  「終身雇用制の限界」

に関する話が色々と出てきている。

 この議論を今更行う必要があるのか、少し考えてみたい。私の感触では、海外への依存が高くなり、しかも非正規雇用への依存も高くなった時点で、終身雇用制度の崩壊は始まっている。もう少し言えば、就職氷河期が発生したのは、団塊世代の『終身雇用制度』という既得権を守るために、若い世代の雇用を押さえたことが一つの原因である。この時点で、終身雇用制度の見直しを行っておけば、今の企業体質はもう少し強固なものだったかもしれない。

 さて、終身雇用制度の崩壊に関連して、

  「企業内技術蓄積」

をどのようにするかという議論が必要と思う。これをもう少し具体的な事例で書いてみよう。某読売テレビの、悪名高い「そこまでいって委員会NP」の中で、スタイル抜群と言われているKアナウンサーに対して、辛口司会のS氏がボソッとつぶやいたことがある。細部は忘れたが主旨は

 「もし同一労働同一賃金の原則が適用されたら、スキルの低い子を育てることもできない。」

であった。この時のKアナウンサーのひきつった顔は見モノであった。実は、この二人は別番組で一緒に出てS氏に

 「Kアナは可愛らしさはあるが現在のスキルは低い、Nアナは新人の時から完成していた。
  キチンと尺に合わせることができた。」

と言われていた経緯があり、未完成の者が、仕事を通じて育成されるという、継続雇用のありがたさをKアナは感じていたのだろう。

 また別の事例では、1980年代にあった議論で

  アメリカのソフトウエア・プロジェクトはPASCALを使う。大学教育の結果!
  日本のソフトウエアプロジェクトはFORTRANかCOBOLを使う。社内蓄積がある!

という事例もある。

 このように、終身雇用制度の崩壊に関連して、社内蓄積の見直しを考えているのか?これが現在の論点だと思う。

 但し、この蓄積が足を引っ張る可能性もある。例えば、自動車業界では、電気の利用に大きく舵を切っている。電気の技術者、特にモーターなどの機電系と、それを制御するエレクトロニクスの両面の解る技術者が必要になっている。このように、人財構造の変化時に、既得権益的な従来技術者は、どれほど残すべきかという議論は当然起こってくるだろう。

 昔、マイコン導入期などでは、社内の教育で技術者の転換などを行って、この危機を乗り切った会社もある。しかし現在の状況でこれが許されるか、総合的な議論が必要になってくると思う。

 政府は、70歳まで働けと言うが、職種転換をどのように考えているのだろう?少なくとも学校教育にこれを期待できそうにない?どこが受けざれになるのだろうか?

2019年5月20日 (月)

学問における広さと深さの関係

 2013年の6月に何件か「すべてのアメリカ人のための科学」について、このブログで書いた。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/3-1c91.html

これは、1989年頃にアメリカが『科学的知識不足による敗北』を恐れて、学問的な底上げを狙ったプロジェクトである。しかしながら、このプロジェクトは、あまりにも多くのものを求めすぎて失敗した。

 しかし、この失敗原因は、多くを求めすぎたからだろうか?

 私も、前にこのブログを書いた時には、何か手を広げすぎだなと言う感じはしていた。しかしながら、今にして思うと

  「突っ込みが浅すぎたのではないか?」

と言う感じがしてきている。もう少し言うと、数学については、

  「形式体系だけの力でできることについて、深く検討し理解させる。
   その上で、形式体系が力学系などの物理現象を説明できる、
    『一般性』を持っている。」

ということまで、納得させる努力が必要だったのではないかと思う。

 つまり数学と物理学、そして自然現象という、抽象段階の異なる体系を貫くものを見出す力、これが育つまで、深く教える。

 そのあと一般化した知識ということで広く教える。

 このような深みと広さの関係が整理できていなかったことが、本当の失敗原因ではないかと思う。   

2019年5月19日 (日)

日本人の『清潔』信仰について

 先日、井沢元彦の逆説の日本史シリーズを読んでいたら、高杉晋作が上海に密航したときに、その土地があまりにも穢いので軽蔑したという話があった。井沢元彦の流儀で解釈すると

 「日本人の穢れに対する嫌悪」

ということになる。

 確かにこのような『穢れ』に対する拒絶感は、色々な作用がある。しかし、それだけだろうか?

 日本人の『清潔』信仰に関しては、私は伝教大師最澄が、大きくかかわっていると思う。 

 まず基本的に、「六根清浄」という言葉は、今では山岳信仰でよく使っているように思う人が少なくない。しかし、語源は仏教であり、法華経の中にも六根清浄の話が出てくる。最澄が法華経を重視したことは確かである。

 次に、京都に伝わる埋経伝説がある。埋経は、京都だけではないが、京都の土地には

 「伝教大師がお経を埋めた土地」

という伝説があった。そこで、京都の人たちはできるだけ土地をきれいにしようとした。

 ここで大切なことは、京都市の地下には大きな地下水源があり、その水に皆が依存していたということである。そこで土地をきれいに保つため、江戸時代には、辻担桶を置いて、小便の回収も行っていた。これは、パリの下種道整備が、ナポレオン三世の開発独裁を待たないとできなかったことと比べて、かなり進歩していた。

 このように考えると、日本人の『清潔信仰』は、水の供給ということも含めて、歴史的な意味があるのではと思う。逆に考えれば、そこまで水に恵まれた私たちの幸福を思うべきかもしれない。  

2019年5月18日 (土)

「話し合い絶対主義」を支える信仰

 日本人は『空気』に流されやすい。また『話し合い絶対主義』がある、などという議論は、山本七平、井沢元彦のラインがよく主張している話である。

 私はこの問題は、宗教的に考えると、かなり説明のつくものがあると思う。まず、『話し合い絶対主義』の根拠になっているのは、聖徳太子の17条の憲法である。そこでもう少し、聖徳太子に焦点を絞ると、聖徳太子には仏教への見識が深い点を考慮しないといけない。法華経の注釈書をあの時代で、中国の本山の指導なしに独自に作る。これは、渡来人たちの支援を受けたとしても、日本の独自文明ができていた証拠だろう。

 つまり、当時の日本には、法華経の理解がる程度できる『智慧ある人』が孫座したのである。

これを考慮すると、

 すべての人に仏性がある

という法華経の教えは、ある程度普及していたと思う。

 この前提では、

 「仏の力のある人たちの話し合いで真実に至る」

という発想は、至極自然なものである。

 ただし、『仏の智慧』というものはとても厳しいものである。人間の多様化と一言で言うが、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の6つの欲の世界と、声聞・縁覚・菩薩そして仏の聖なる世界、これが全ての人間の中にある。これを考えて、社会環境や他人のことも考慮して、世界を観ないといけない。更に、時間軸で考えれば、現在だけでなく将来のことも考えないといけない。このような広い立場を考慮して、皆に良いようにする答えを見いだす。これが仏の立場である。

 色々考えて、そこで何とか我慢できるものを見出す。これが、話し合いで何とか決まる条件だろう。

 このような可能性を拓くのが、大乗仏教の信仰だったと思う。この信仰が、科学という別のものにとってかわると『空気』の暴走という怖いものになっていく。

 摩訶止観が、『教を聞く』時には、よく考えるということを、しっかり書いているが、現在はこれが消えているように思う。

2019年5月17日 (金)

朝日新聞の報道姿勢について

 先日書いた、読売テレビの「かんさい情報ネットten.」の不適切放送に関連して、水曜日の同番組で反省の放送があった。ここでは前回わつぃが指摘した、若一氏の姿勢に関しても、当人から

 「言い方には不適切な面もあり反省している。」

という発言があった。この内容なら私も納得する。なお、アクセス解析を見れば、このブログを見たようには思えないから、他にも同様の指摘があったのだろう。

 さて、私が問題としたいのは、この番組に関して、昨日の朝日新聞の朝刊での取り上げ方である。確かに社会面の隅で、限られた枠だから、情報の選択があることはわかる。しかし、若一氏の、

 「自身の放送中の姿勢に対する反省」

が抜けていることは、何か恣意的なものを感じてしまう。

 つまりマスメディアの人間は、自らの姿勢に対する反省は、最低限にすべきという、自主規制や忖度があるのではと疑ってしまう。

 これは産経新聞の記者での、韓国での勾留問題でも感じたし、古くは百人斬り競争報道に関する裁判問題でも感じたことである。

 マスメディアは権力であり、自分の力には常に反省が必要だと思う。

2019年5月16日 (木)

自分で考えることと人に教えられることの違い

 先日の続きで、摩訶止観から、学びについて大事な話を書いておく。仏の道に進む動機付けの順序である。

  1. 種々の理を自ら推論する
  2. 仏の種々の姿を観て
  3. 仏の神通力の発揮を見て
  4. 種々の法を聞いて
  5. 種々の世界を見て
    ~~以下略

ここで注目してほしいのは、仏の教えを聞くの優先度が低いことである。

 つまり

  自分で考える > 実行している姿を観る > 教わる

という順序である。

 私たちは、勉強というと、本を読むことも含めて、人に教わることを考えている。

 しかし自主性を考えると、自力で考えることが大切であり、その次には実物を見ることではないかと思う。

2019年5月15日 (水)

本当の理解について 摩訶止観が教えてくれた

 私たちは、学問的な知識付与を受ければ、それで分かった気になっている。さらに、試験で合格すればそれでよい。しかし、実際に役立つ智慧は、そのようなものではないように思う。

 天台の摩訶止観に一つのヒントがある。摩訶止観では、真理を知るときに、4つの道を示している。

  1. 分別によるもの(理屈による私たちの知識)
  2. 直覚する(すべてが「空」と禅で悟る修行者の立場)
  3. 多様な実用に適応する(いろいろな人を救う菩薩の立場)
  4. 全てを究極的に知る(全てを創造する仏の立場)

この4段階は、実行することは難しいが、見方を考えればよくわかる。最初は知識として学ぶ。しかしそれで納得がいかない。しかし、ある時に、実体験とそれがつながって、直観的にわかるときがくる。そのあと人に教えるなどしていると、色々な見方ができてくる。

 最後に、これを皆ができるようにするためには、この実行を司るからくりを作ってみる。少なくとも設計してみる。教科書を書くことも一つの手段である。

 このような取り組み方が、本当にわかるということではないかと思う。

 親の立場ですべてを見る。これが大切である。

2019年5月14日 (火)

当事者意識について #YTV #かんさい情報ネット ten. の不適切放送に関して

 先週の金曜日の夕方、読売テレビが放送している、「かんさい情報ネット ten.」で、生別に関する扱いに、配慮を書いた放送があったとして、昨日は中谷アナウンサー、小島解説デスク、乾報道局長たちが謝罪していた。

 私は、金曜日の放送を見ていて

  「これはおかしい」

とは感じた。確かに不適切だと思う。

 しかし、それ以上に違和感を感じたのは、番組に対するコメンテーターの若一氏の発言である。

https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/tv/読テレ「%ef%bd%94%ef%bd%85%ef%bd%8e%ef%bc%8e」番組内で中谷しのぶアナ声震わせ謝罪「あいまいな態度を…」/ar-AABhWaD?ocid=spartandhp#page=2

 彼の発言は

「許しがたい人権感覚の欠如ですね」「こんなもんよう平気で放送できるね」と怒った

という内容であったが、テレビで言ったことに関して違和感を覚えた。この内容を、例えば、その場にいたテレビ局の幹部である、小島デスクに向けて、名指しで言うならわかる。しかし彼の言い方は、視聴者の方を向いた言い方であった。

 まるで、自分のアリバイ作りで起こって見せたという風に感じた。

 若一氏は、この番組では自分のコーナーを持っているし、中谷キャスターともコンビを組んで取材していたこともある。そのような立場で、もう少し自分たちの問題として、発言すべきではないかと思う。

 もう少し言わせてもらえれば、この「迷ってなんぼ」のコーナーは、この番組の中でも一番つまらないコーナーであった。月曜から木曜までは、それなりの力のあるゲストや、芸人がしっかり切り回して見せてくれる。しかし、金曜のこのコーナーは中谷アナが言う通り

  「無責任~」

な話であった。「かんさい情報ネットten.」は、T解説員等の問題のある発言はあっても、それなりに責任をもって、ある程度の答えを出すのがコンセプトであったと思う。その意味でも、このコーナーの企画自体が間違っていたのではないか。もう少し読売テレビとして考えて欲しい。

2019年5月13日 (月)

我が国の防衛戦略に関して

 我が国の防衛戦略は、大きく分けて

  1. 自主防衛
    1. 核まで持つ
    2. 通常兵器だけ
  2. 大国依存
    1. アメリカ依存
    2. 中国依存
  3. 防衛放棄・・・尖閣などは中国に明け渡す。国民が拉致されても「自己責任と突き放す」

という形になる。

 そこで、現状を考えると、2の1の「アメリカ依存」という形であるが、他の選択肢と比較しても、これが一番ましな道である。このことについては、他の選択肢を考えると、結構同意する人は多いと思う。

 さて、次はこの選択肢を、できるだけ少ないコストで実現する方法である。これは、逆に言えば、関係者が今の形態を、喜ぶように持って行く政治力の問題である。この話は、簡単なシミュレーションを提示することで、結構説得力のある議論ができる。

 まず、日本が自主防衛に走ったとしよう。この図式は、核の保有が最も厳しいが、通常兵器でも本質的には同じである。一言で言うと

  「世界情勢に経済力と軍事力の両者を兼ね備えた強国の出現」

である。これは中国にとっては、日本再武装という悪夢を呼びだすし、アメリカにとっても、

  「言うことを聞かない日本」

と言う厄介な問題を抱えることになる。北朝鮮の核ですら、米中が振り回されている現状を考えると、日本の自主防衛路線は、米中の悪夢である。

 また、日本が中国の傘下に入れば、アメリカにとって手に負えない相手になってしまう。

 このように考えると、アメリカは日本を

  「防衛タダ乗り」

といじめることは、危なくてできなくなる。

 一方、日本にとっても自主防衛路線は、結構負担が大きい。

 このように考えると、現状の日米安保体制は、まあまあ皆が満足できるラインではないかと思う。

 これをきちんと発信できる政治家が存在するか?これが日本の課題だと思う。

2019年5月12日 (日)

敵は徹底的にたたくべきか?

 大阪の都構想に関して、自公の両政党が迷走を始めた。確かに公明党の手のひら返しは、今までの経緯からも読めていた。タレント橋下がよく指摘しているように

  「国政選挙のためには、維新の言うことを聞く体質」

は、昔からのものであり、想定内の事項である。

 しかし、自民党の大阪が、軍門に下るとは、想定外であった。

  https://www.msn.com/ja-jp/news/national/自民大阪、唐突な維新融和路線-「もう終わり」市議ら猛反発/ar-AABdJVA?ocid=spartandhp

 確かに状況的には、大阪府議会で過半数を取られ、市議会でも僅差であり、自民議員団への切り崩しも想定される事態では、速い目の降伏は、戦術としては成立する。これを選択した、大阪の自民党は、それなりの評価をされてもよいだろう。

 しかし相手の松井代表が

維新の松井一郎代表は渡嘉敷氏の発言について「自民の市議団、府議団からそんな話聞いたことない。渡嘉敷さんにどれだけのガバナンス(組織統治)力があるのか」と疑問を呈した。

と厳しく言っている。この発言に関しては、賛否両論があると思う。戦術的に見て

  1. 叩くべき時には徹底して叩く
  2. 逃げ道を開けておく

の両面がある。どちらがよいのかは状況によって、判断が分かれる。大阪の自民党を徹底的に壊し、維新に組み込むならそれは一つの戦略だし、窮鼠猫を噛むのを避けるために、平和降伏の道を選ぶ手もある。

 大阪維新の会の政治力を見るよい機会だと思う。

2019年5月11日 (土)

AKBシステムの危機管理能力は凄い

 先般から、色々と話題の出ている、NGT48のトラブルだが、AKBシステムとしては、見事な危機管理能力を発揮している。

 まずこのような場合には、悪い部分を明確にして、切り離す必要がある。端的に言うと

   「悪人探しと、その人間に全てをかぶせる」

ということである。

 しかもそれを、世間に納得させる必要がある。

 これを見事にやってのけている。

  1.「悪役は運営側であって秋元氏は関係ない」
  2.これを中立とみられる指原莉乃に言ってもらう

これは、見事な収束方法である。運営が悪いというのは誰もが認める。しかも彼らが、

   「AKBシステムのカリスマ秋元を無視して動いていた」

という図式にして、システム全体を護る。

 更にスポークスマンとして、日ごろから、少し離れた立場の

  「変わり者の指原」

にさせる。このような、切り札をあらかじめ育てていたのではないかと疑ってしまう。

 各企業は危機管理の見本として学ぶべきではないかと思う。

2019年5月10日 (金)

平成の時代に画一化が進んだのか?

 先日、東洋経済オンラインで、「日本のおかしさ映す「東京貧困女子」の問いかけ」を読んだ。このページに書いている、

国立大学医学部の現役女子大生、その現実

の話について、私自身の体験も含めて少し議論してみたい。

 まず彼女の状況は、

国立大学の医学部に進学したが、親のリストラなどで生活が苦しく、それでも部活が生きがいでやめられない。

友達付き合いなどを維持するため、風俗系の仕事などを行っている。

というものである。

 実は私は、昭和の40年代中ごろに国立大学に進学した。やはり貧困家庭の育ちだったので皆と遊ぶこともできなかった。

当時学食で一人で食べている姿を見た同級生が、

「あんなものでもうまそうに食べている」

とあきれていた。

という状況であった。それでも、学業は何とか人並みに積み、無事就職できた。但し、その後での会社生活では、人間関係の力不足というか、付き合いということのできない人格になったいたので、色々とトラブルが起こった。

 この経験から、私は彼女の

  「部活を大事に!」->「人間関係を大事に!」

という想いは、よく分かる。

  「風俗のアルバイトまでして!」

と一言で言えない。私が選んだもの/犠牲にしたものと、彼女が選んだもの/犠牲にしたもの、どちらが正解かは、答えが出ないように思う。

 しかし、ここで一つ言えることは、昭和の時代には、私を受け入れる何かがあった。私のことを

  「上手に使え!」

と言ってくれる、部長たちがいた。これが、平成の時代には、均一化に対応できない人間の排除が進んだように思う。

 平成が過去になる現在、この問題をもう少し考えるべきではないかと思う。 

2019年5月 9日 (木)

宗教などへの尊敬や寄付を強制してはいけない

 先日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で興福寺の話を取り上げていた。これを見ていて分かったが、

  「昔の仏教寺院の一部は統治機構と一体であった。
   つまり統治機構の権威を支える一部であった。」

ということであり、従って

  「強制された信仰であり、寺の維持や修理の金は強制的に取り立てていた。」

ということが、昔は行われていた。

 しかし、このような強制された状態は、徳川幕府の政治の下では、制限を加えられるようになる。具体的には、復興資金の強制的な取り立てはできなくなってしまう。

 さて、この問題を信仰の原点に返って、考えてみよう。信仰を強制することが本当に良いのだろうか?

 少なくとも、大乗仏教の教えには「感応道交」ということで、仏と信者の相互の自発的なものを求めている。権力の強制ではない。確かに間違った行動を正す、明王の力もあるが、それは極悪人に対する者であり、衆生に対しても、発心を求めるのが大乗の教えではないかと思う。

 このような観点から見れば、明治維新以降の「国家神道」は根本的に間違っている。

 一方、上皇様が昔おっしゃった

  「君が代斉唱は強制すべきものではない」

というお言葉にもとても重いものがある。天皇制度は、強制すべきものではなく、自発的に支える民衆の意思と、それにこたえる皇室の振る舞いが感応道交あって、成立しているのだと思う。

 ただし、個人意見では、最低限の躾け、国際的なマナーとしての、国歌斉唱に対する礼儀作法は、形として教えるべきだと思う。外国で、国歌国旗に対して無礼を働けば、重罪になる可能性がある。

2019年5月 8日 (水)

政治というものに何を求めるか

 昨日書いた「国に何を求めるか」という議論に関して、もう少し考えてみたい。
 今回は、交流分析の発想を用いて、

  「親の立場での政治」

という観点で見てみたい。

 交流分析では、親の立場に

  1. 規律に従わせる厳格な親(CP)
  2. 優しく受け入れる親(NP)

の2種類を考えている。なお親以外には

  1. 論理的に考えて議論する成人(A)
  2. 親に従う子供(AC)
  3. 自由に発想する子供(FC)

がある。

 昨日書いた

  「困った行動を規制してほしい」

という発想は、上記では成人か子供が、CPの権力に要求している。一方弁護側は、

  「FCやAの権利を、CPから守る」

という発想になっている。

 しかし、ここで子供の立場が助けを求めているのは、優しいNPに対するものが多い。

 この問題をもう少し踏み込むと、国家などの政治は、

  「権力機構として抑制的に正義の実行だけにする」
    または
  「民衆保護の立場からできるだけ介入する」

立場のどちらかという問題になる。

 さらにここで支配されているものを、

  「『成人』と見るか『子供』と見るか」

という議論が出てくる。

 私の考えでは、

  1. 政治の権力は『成人』と『子供』を、ガイドラインをはみ出さないように支配する
  2. 宗教的な救いで『子供』の立場を救う

という、政治と別の形での救いがあるように思う。全て学問的政治の発想、つまり哲学者の政治というものでよいのだろうか?
 

2019年5月 7日 (火)

国に何を求めるのか

 先日から、色々な問題に、「弁護士たちの第3者委員会」という対応について、疑問を感じていた。もう少し言えば、

  「弁護士の役割は、一つの立場に立って、その利益のために行動する。」
  具体的には
  「例えば、犯罪加害者の弁護にあたるなら、加害者の利益のために行動する。」

という、片方の主張の体質で、総合的な議論ができるかという話である。一部の記者会見でも、「弁護士の助言による回答」だけで済ましているが、世間はそれで納得していない。

 特に性犯罪では顕著であるが、加害者側の弁護士の一方的な主張で、被害者側の立場が損なわれ足り、再度傷つけられることもある。

 この問題をもう少し突き詰めると、国家が裁くという問題になる。つまり、

  「(国家が)犯罪者を裁く」
  ので
  「(国家権力に対して)弱い立場の被告側に弁護が必要」
   ->疑わしきは被告有利

という図式である。そこで弁護のために主張するが、これで犯罪被害者が傷つくことに関しては、誰も考慮していなかった。

 実はこの問題に対して、アメリカならもっと明確な答えがある。つまり

  「不満があれば民事で訴える。」
  「個人対個人の対決では、どちらも平等に戦える。」 
   ー>刑事事件のように「被告有利」とは違う

という、国を頼らない解決である。

 我が国は、どうもお上を信用しすぎているようにも見える。

 国が権力でどこまで抑えるか、民衆の力がどこまで動くか、この議論が必要だと思う。

2019年5月 6日 (月)

概念の形成について半世紀前の人工知能の知見

 昨日書いた、ラベルの議論について、概念を自分なりに作る方法について、少しばかり役立つ方法を考えてみた。

 このブログで何回も書いたが、私は1970年代から人工知能について、色々と学んでいる。当時の人工知能には、「パターン認識」という分野があった。当時のコンピューターは、現在のスマホやパソコンと比べてもとても非力で、主記憶がKB単位、補助記憶でもMBあるかということで、現在の百万分の一性能というぐらいの可愛らしいモノであった。しかし、そのような限られた資源を使うから、色々とモデル作成に関しての議論は進んだように思う。

 さて今回は、現在に役立つ概念の構築に関して、当時のパターン認識の研究者が、どのように考えたか少し見てみよう。まず、手書き文字などのパターンの識別に関して、基本的な手法は、ある「典型」に対しての距離を測り、一番近いものとして識別する手法である。ここで、「典型」をどのように見いだすかで、大きく分けて二つの方法がある。

  1. 教師付き学習
  2. 教師なし学習

ここで教師付き学習は、学習段階において、Yes/Noの判定を、外部から与える方法である。こうして、Yes事例の中心を探して枠を作っていく。また、Yse/Noの境界を探していく。このような方法で学習するのが、教師付き学習である。

 一方、教師なし学習の場合には、色々ある事例が、ある距離関係でまとまってくるのを待ち、それぞれに中心を作り、境界線を引いていく作業を行っていく。

 なお、当時の計算機環境では、使える情報は限られていたので、文脈的な情報を使うことはできなかった。現在では、文脈を補助に使うことができるので、より精度の高い識別ができるようになっているだろう。

 一方、現在の学校教育では、多くの知識が付与されている。このラベルに対して、現実の事例がどれほど当てはまるかを自分で考えることになっているらしいが、これがうまくいっていない事例も多いように思う。

 上で書いた、教師あり学習のYes/No事例の提供などから、概念の構築について、もう少し考える。これは、高機能性の発達障害の人に対する支援としても使えないかと思う。 

2019年5月 5日 (日)

いわゆる「ラベル張り」に関連して、概念構成の議論を行う

 世の中というか、特にネット社会では色々なラベル張りと、それに対する批判が行われている。
   「反日」「ネット右翼」「ポピュリズム」「大衆迎合」
等である。

 しかし、このようなラベルの定義を明確にしたまま、ラベルだけが独り歩きしている。

 この問題をもう少し突っ込むと、私たちは色々な『概念』という装置を使って考えることで、色々な物事を考えている。しかし、この『概念装置』について、どのようにできたかよく考えているのだろうか?この問題は、深く考えるべきものがあると思う。

 まず『概念装置』の供給元は、学校教育である。極端な事例では、数学で使っている色々な記号、それどころか1,2,3・・という数字自体も、現実の色々なものを抽象化して作られた『概念装置』なのである。その後、理科や社会でもいろいろな『概念装置』が供給されていく。これらについて、

 「どのような物事を、まとめ上げ一般化して、抽象化して作ったか?
  その文脈はどのようなモノだったか?」

という、根本的な議論が抜けている場合が少なくない。

 私の考えでは、『概念装置』を生み出すためには、実例とそれが起こった舞台(文脈)を見る。さらに複数の文脈でも、その概念が必要になる。しかもその概念が安定している。そうして、この概念を使うと、さらに別のことでも説明に使える。このような経験を通じて、概念装置を生み出す。

 しかし現在、このような経験が少なくなって、ネット上にあふれている『言葉』を切り取って、それが使えると思い込み、深く考えずに使っている人が多いように思う。これでは、AIに仕事を奪われる言われても仕方ないように思う。

2019年5月 4日 (土)

AKBシステムについて思うこと

 NGT48のトラブルを見て、色々と考えついたことがあった。まず、AKB48に始まるグループシステムの効果である。昔のタレントは、個人の力に依存していた。従って、

  「XXさんが活動をやめる」

と言ったときには、グループであっても解散ということになる。つまり

  『個人の意志による停止」

という危険性があった。しかし、AKBにようにグループメンバーの入れ替わりなら、

  「XXさんは卒業」

と言っても、グループは存続させることができる。このようにリスク回避の仕組みとしてよくできている。
 更に、メンバーを客の選挙という仕組みにした点も巧妙である。従来の、プロの選抜という責任を、利用者に投げることで、選択の責任を負わなくてもよくなる。さらに言えば、ファンの側も

  「自分たちが推した」

という参加意識、責任感を持つのでサポートが協力になるというメリットがある。

 しかし、ここで一つの問題がある。このシステムでは、ファンとの間の障壁を作りにくくなるので、暴走するファンの危険性がある。さらに悪いことを考えると、メンバーと悪質ファンの結びつきによる、他メンバーの追い落としなども当然予測すべきである。

 このように考えると、運営側の役割は、今までの芸能プロダクションの範囲と微妙に違ってきている。確かに、一般企業でも、「困った客」への対応は、大きな問題である。これができないのは、管理者としての責任であり、しかるべき人選をしないのは経営者の問題である。

 また、一般人による選択ということは、大きく考えると選挙制度の衆愚政治への転落危険性を示している。ブレグジット問題の某国などや、大阪都構想の選挙における宣伝など見ても、この問題が現在社会に大きく影響しているように思う。

 このようなことをゆっくり考えるべき時が来ているようにおもう。

2019年5月 3日 (金)

専門家ももう少し周囲に目を向けて欲しい

 昨日、読売テレビの「かんさい情報ネットten」を見ていたら、

   「橋の上で気になる音が聞こえる」

という現象を解明するという話があった。

 そこで、橋の専門家と音響の専門家を引っ張り出して、

   「子供の耳にしか聞こえない高音域の音」

ということまで解明し、現場に向かう。

 この結論は、橋の下に設置されていた、超音波水位計の発信音が聞こえていた、ということであった。

 さて、私が突っ込みたいのは、この状況に対する二人の専門家の対応についてである。

  1. 音響の専門家なら、音のパターンを見て、ある種の計測器などで使っている周期的な、特定波形を見抜けないのだろうか?
  2. 橋梁の専門家なら、橋を護るための水位計設置などにも配慮がなかったのだろうか?

この問題は、専門家が自分の領域に閉じこもりすぎているという議論と、仮説の利用ができていないという2つの側面がある。

 どちらも、現在の理系の専門家に、多くなってきたように思う。これで、AI時代に対抗できるか、よく考えないといけない。

2019年5月 2日 (木)

昭和と平成の違い なぜ老人のトラブルが生じるか

 平成の時代を、世代間の対立という観点で考えてみた。
 現在、車の運転や、暴言問題などで、老人のトラブルが多く発生している。または報道されている。

 この問題の根底に私は世代間の怨念があると考えている。これを昭和の時代と比較してみよう。

 戦後の昭和では、若い人たちは、親の世代の苦労を見ていた。戦争体験は、軍事関係だけでなく、物不足の苦労という面では、多くの人が被害者である。その後も日本という国は貧しい国であった。その後若い世代は高度成長の恩恵を受けていく。このような原体験があるから

  「昭和の世代は、年長者に対する敬意」

がある。

 しかし、平成の時代を考えてみよう。平成の開始はバブル時期の終わりかけである。その後の経済的なトラブルもいろいろあったが、政策的には

  「既得権益を守る」
  例えば
  「既存の組合員の権利を護るために、新卒の採用を控える」

という状況が多かった。つまり、

  「年長者のために若年者が犠牲になる」

状況が多くあったのである。

 この状況を認識せずに、昭和の時代の『敬老精神』ある者が、老人になって、

  「自分も敬われる」

と思い込んでいることが、一つのトラブルの原因だと思う。今の若い世代には

  「年寄りのために犠牲になっている」

という怨念が心の底にある。実際、『正社員』という既得権で、非正規で頑張っている若い人に、威張っている中身の無い人罪が少なくなかった。このような感情面まで踏み込んで、今後の政策は考えるべきだろう。

2019年5月 1日 (水)

平成と昭和の比較

 平成の時代が昨日で終わった。そこで昭和の時代から生きてきた人間として、平成の特徴を考えてみたい。
 私が感じている平成は、

   「学校的な理想化が進んだ社会」

である。これは、私も今年に入るまで、見えていなかったが、天台の本覚思想を学び、先の天皇陛下のお言葉などを聞くうちに見えてきた。

 ここで、『理想化』と言うと聞こえがよいが、

   「都合の悪いものは見ない」

と言った方がよいかもしれない。特に政治面でこの傾向が出ている。

   「弱者切り捨て」

と色々な人が騒ぐが、その前に

   「立派な大学で勉強した知識で見えていないものがある」

ことを理解していないために発生している問題がある。例えば

   「ある地域で、老人の運転をやめさせるために、タクシーチケットを配布する代わりに免許返納を呼び掛けた。」
   「しかし、応じる人がいない。」

この理由は

   「過疎地ではタクシー自体がない。1台しかないタクシーの運転手も、高齢で通院中である。」

という話がある。

 この話を、裏側から極論すると天台の本覚思想になる。

   「仏の心に、地獄の極悪人のころもあるのか?」
   「もし極悪人の心がなければ、それを理解して救うことができない。」

この逆が現在の『理想化』である。本当は、社会学などでも、デュルケームなどは

   「逸脱の存在を認める必要がある」

と主張しているが、これをおろそかにしているように思う。

 本来制度設計を行うときには、人間の多様性に目を向けるべきであり、逸脱したものに対しても対策が必要である。

 例えば、某アイドルグループの問題にも

  「常識外れのファンの行動がある」
  「経営管理を来なう人材にもいろいろなバラつきがある」

ということに目を配って『会いに行けるアイドル』というシステムを作り運用すべきだと思う。

 なお、現在の政治において、一部の革新系にはこのような発想があるように思う。一方、保守の方は、感じているがそれを従来の仕組みに押し込めようとしている面があると思う。

 ただし、政治だけでこれができるのか、本当は宗教などの救いが必要ではないかと思う。但し、中世キリスト教や国家神道などのように、権力支配の道具の宗教ではだめで、本当の救いの宗教が必要ではないかと思う。

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