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2019年6月30日 (日)

「歴史に学ぶ」危険性

 昨日の記事の補足として。「歴史に学ぶ」ことの危険性について、少し議論しておく。なお、この議論自身、戦前の陸軍の教育などの「歴史的事例」を使っていることを、あらかじめ断っておく。

 今回指摘したい問題点は、

「歴史的な事例は真実と思い込む危険性がある」

である。

 実際は、MBAなどで使う、ケーススタディであり、どちらかというと

「自分たちの理論に都合のよいもののセレクト品」

が多いが、それが

「歴史上の事実」

と言うと、説得力を持ってしまう。

 この危険性を考えるべきである。特に、

「我々には、XX能力の伝承がある。(DNAがある~~)」

と言う論法で、カルト的に道を誤らすことがある。一つの事例は、戦前の日本陸軍である。日露戦争までは、どちらかというと、現実主義がきちんと働いていた。しかし、その後は

「織田信長の桶狭間の奇襲を見習え」
「工夫しろ」
「精神力は物量に勝つ」

と言う展開になっていく。この理由は、明治の国力を考えれば、

「正攻法の装備をほしがる軍隊は国を滅ぼす」

と言うまともな判断だったであろう。

 しかし、織田信長も、「長篠の戦い」では、物量や野戦築城などの正攻法で勝っている。この部分を隠して、桶狭間だけ振り回す。このような、自分に都合のよい「歴史」で学ぶようになると、一部真実的なものがあるだけ、余計人を惑わすようになる。

 この危険性もきちんと評価すべきである。

 

2019年6月29日 (土)

「歴史に学ぶ」か「歴史を学ぶ」か

 先日から、歴史について書いているが、ここで歴史に対する姿勢が、大きく分けて二つあることを、もう一度考えてみたい。

  1. 歴史から学ぶ
  2. 歴史を学ぶ

この二つは、第2次大戦後の日本では、特に区別が必要である。ここで、1.の「歴史から学ぶ」という姿勢は、歴史上の出来事を教訓にしたり、歴史上の人物を模範にしたりする姿勢である。この応用として、マックス・ヴェーバーなどが行ったように、社会科学の実験用に、比較資料としての歴史を使うこともある。例えば

「プロテスタント信者の発生と、資本主義の育ちの関係を比較する」

ことは、歴史上の事件を追及しながら議論し、資本主義の精神的な推進力を探っている。

 一方、2.の歴史を学ぶ、という場合には、教科書に書いてある歴史を覚えるという段階から、昔の証拠を探しながら、色々な説を検証していく活動になる。この場合は、歴史という特性上、文献の評価が主体となり、「良い文献の読み込み」が、主要な作業となる。その後の議論展開は、

  1. 従来の学説の評価
  2. 新しい仮設の提示
  3. その証拠の提示
  4. 証拠の評価

等の『科学的』な議論法を主体として、従来の研究成果の詳細化や、新たな説の展開を行っていく。このような成果は、学会で評価される。

 さて、ここで一般人が、「歴史から学ぶ」場合について考えると、

「現在に教訓になるものなら良い」

という価値観が支配することになる。言い換えると、「フィクションでも構わない。」となる。

 このような姿勢に対して、歴史学者が反論すると、お互いの文明・価値観が違ってくるので、神学論争的な戦いになってしまう。

 この二つの姿勢を明確にし、違いを認めることが大切だと思う。

 もっとも、歴史学の歴史を見れば、中国の歴史も王朝交代の必然性を、「徳の失い」などの理由付けとするように

「目的に合わせた歴史記述」

が少なくない。ヨーロッパの歴史も、自分たちの支配の正当性を裏付けるために、

「歴史を見れば自分たちが進化している」

と言ってる感じがする。

 また、戦前日本の「皇国史観」は言わずもがなだが、織田信長の「桶狭間の奇襲」重視も陸軍の精神主義に影響しているように思う。確かに貧乏国では、長篠の戦のような正攻法の物量作戦は難しい。これを押さえる歴史教育が、桶狭間重視だったと思う。

 このような歴史の使い方をもう少し客観的に評価すべきだと思う。

2019年6月28日 (金)

就職の前に知っておいてほしいこと

 昨日は、二つの記事を書いた。一つは就職前に考えてほしいことで、もう一つは歴史についての考え方である。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-381924.html

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-e49900.html

 この二つの記事の内容は、一見かけ離れているように見えるかもしれないが、深くつながっている。もう少し言えば

『就職した後で成功する条件』

『多くの物事の本質と関連を見抜く力』

である。

 さて、今回の議論は、

『歴史から学ぶ力』

『仕事の上で活かしてほしい。』

である。

 もう少し言えば、

「人間の要求は多様であり、バランスをとり実現することは難しい」
つまり
「実現した社会というのはそれ自体奇跡」

という歴史の教訓を学んでほしい。現在の目で見れば、色々と不満や、人権上の問題もあるだろう。しかしながら、歴史的に考えると、

「その時点での解決としてはそれしかない」

というモノは多くある。

 現在の社会制度などにも、

「ようやく実現させた曲芸」

というべきモノも多くある。

 このようなことを理解しておくことも、就職時に

『学生からの切り替え』

に必要である。

2019年6月27日 (木)

歴史を見る時にも人間に注目

 先ほど書いた記事で議論した、

「ブラックボックス化してその後ろの人間を見ない」

という状況は、我が国の歴史教育に大きく影響しているように思う。

 この問題は、昭和の戦前までの「神国日本的歴史観教育」の反動として、「客観的歴史観教育」が重視されすぎた結果ではないかと思う。

 しかし、歴史はその世界に生きている人が作り上げたものである。

「その時代環境を考えて、なぜそのような行動があったか理解する。」

この経験は、異文化理解の練習としても大切である。そのために、役に立つ本が見つかったので、紹介しておく。

小学生おもしろ学習シリーズ まんが 世界の歴史人物事典 西東社

https://www.seitosha.co.jp/book/isbn-9784791627622.html

 この本が、小学生向けというのは、もったいない感じがする。どちらかというと、歴史の年表的な概略情報が頭に入った上で読めば、

「人間が作る歴史」

を生きた形で理解できると思う。

「漫画は子供向け」

という先入観にとらわれず、

「その時代に来た人」

を、具体的な絵で見ることは、より深くその世界を味わえると思う。

 また、この本の良いところは、年表が西洋史・東洋史・日本史と全て並行して描いているので、見通しがよくなるとである。

 なお、歴史の理解で大切なことは、

「進化論的発想」

にとらわれないことである。

「現在が、過去より優れている」

という思い込みが、当時の状況の理解に邪魔になる。価値を入れずに、その時代の状況をそのまま見る。これで見えてくるものが多くあると思う。

 

 

就職の前に考えて欲しいこと

 昨日書いた、「国家公務員総合職試験の合格発表」に関する記事について、もう少し考えてみた。

 合格して、これから我が国を動かそうとする人に、もう一つ聞いてみたいことがある。それは、

「他人の喜びを自分の喜びと感じるか?」
「他人の苦しみを自分の苦しみと感じるか?」

という質問である。

 一方、

「一人だけを見るのではなく、他の人も見ることができるか?」

という問いも同時に考えて欲しい。

 この質問の裏側には、

「多くの人を救う政策などに役立てば、それが自分の喜びとなる。」

との感情が動くという発想がある。

 前にも書いたが、人間の仕事に関する動機付けは、単純な金銭欲・出世欲・支配欲などで考えるべきではない。人間は多くの感情があり、特に他人の苦しみ喜びに共感する力がある。この力を、動機づけにできれば強いものとなると思う。

 現在の社会では、いろいろと便利になりサービスが当たり前と思っている人も少なくない。しかし、少し歴史を遡る、または発展途上の国を考えると、水を自分で汲まないといけない、農耕の水は雨を待つしかない、などの厳しい環境は少なくない。現在のサービスの裏側には、多くの人の努力がある。ブラックボックスの裏側にいる、一人一人の人に思いやる。この優しが必要だと思う。

 人に優しいから感謝を受ける。このサイクルが必要だと思う。

2019年6月26日 (水)

国家公務員試験の合格発表のニュースを聞いて

 昨日のニュースを見ていたら、国家公務員総合職試験の合格に関するニュースが報じられていた。昨日書いた記事は、このタイミングを狙ったモノではないが、丁度よい時期なのでもう少しお願いを込めて議論しておく。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-a94f7c.html

昨日の議論は、政策としてどうあるべきかという観点であった。この問題の本質は、

「物事を単純化しすぎて金銭価値に捕らわれすぎている」

ということである。

 一方、立場を考えてみれば、公務員の立場では

「よりよい社会の実現」
「より幸せな生活の実現」

という

「自分の理想に近づける」

満足感について、もっと認識してほしいという願いである。

 大分古い話になるが、1980年代頭に「第五世代コンピュータプロジェクト」の発足に当たって、当時の通産省の人が

「これでアメリカのコピーと言われなくてすむ」

と説明したときの

「我が国の国益のために流れを変える」

という気概を感じた。

 確かに、当時の通産省は、業界を指導して方向を示していた。現在は単一方向は難しいかもしれないが、総合的な視野での提案は色々できるだろう。

 また国民生活のあるべき姿を考えるなら、厚労省などで、いろいろな立場の人の生活について考える、このような理想を持って、公務員になって欲しい。公務員を辞めた人に

「ブラック企業」

と言われっぱなしで終わってほしくない。

2019年6月25日 (火)

施し型の政策実行でよいのか

 先日書いた、財務省関連の記事について、もう少し考えてみた。

 財務省の権力は、予算の配分を握っていることで支えられている。この予算が、行政施策の執行を可能とする。また、いろいろな人々への支援という形で回っていく。このように「予算の配分決定権」に権力の根が生えている。

 このような「お金の配分」だけで権力が生じると言う話は、どこかで聞いたことがある。

「北朝鮮の金一族の支配は、恩恵をばらまくことで成立している。」

という話をテレビなどで見る。単なる金のばらまきなら、この北朝鮮的支配に対してどこが違うのだろう。確かに

「独裁ではない」

という反論はあるだろうが、

「開発独裁を再評価すべき」

という議論もある。

 私が考える、日本の行政制度の優位性は

将来ビジョンを総合的に考える力

だと思う。単なる、理論的な予言でなく、

現実の状況を踏まえた上で、理想に少しでも近づけるため具体的に施策を考える

力が、単なるバラマキを超えるモノだと思う。

 一方、政策の恩恵を受ける側も、単純な

「補助金目当て」

ではなく

皆でよりよくしていく意識を持って,よい方針を受け入れる

姿勢が必要ではないかと思う。

2019年6月24日 (月)

%的な発想だけでは通用しない

 昨日書いた話をもう少し本質的に考えてみた。昨日の問題は一般的に表現すると

「大多数の安全なモノと、ごく少数の危険なモノの混在の対策」

という話になる。これを、『多数決的発想』で押し切ることが許されないのが、現在の情勢である。

「少数意見も尊重する」

これは民主主義の原則である。ただし、

「少数のために多くの人を犠牲にしてはいけない」

ことも事実である。典型的な事例は、医療に関する報道の問題である。一部週刊誌などが、

「XXの薬害で~~」

と報道すると、

「XXを止めたい」

という患者が多くでてくる。しかし、この薬を止めることで、数年後のこの患者の死亡率が上がる。このような状況に対して、きちんと説明し納得させないといけない。

 ただし、この問題に対して

「この薬での薬害の発生確率は0.001%です。一方、
これを止めた場合の貴方が5年後にXXの発症確率は50%です。」

という言い方で言えば、一昔前ならかなりの人間が納得している。しかし、今は個別の被害者の大きい声に、振り回されている面もあり

「それでも不安です。」

という人が少なからずいる。このような人を

「論理的に考えることができない。確率が分かっていない。」

と切り捨てることができないのが現在ではないかと思う。

 なお、この薬害問題に関しては、私のかかっている先生が、きちんと答えを出してくれている。

「この薬を飲んでみましょう。なお、肝臓機能の検査のため3ヶ月ごとに血液検査をします。
もし変な反応が出ればその時見直しましょう。」

このように、トラブル発生時の対応をきちんと示してくれたら、安心して任せることができる。

 このように、「%」での思考だけでは、人を納得させられなくなってきている。

 実は、日本の自動車業界は、すでにこの問題に直面していた。

「昔は故障発生率がXXppmという管理で許された。現在は個別の原因追及が必要になる。」

このように、ppmという百万分の一の単位という、数値での管理を捨てて、全数良品に向かったのが、現在の日本の自動車産業の成果である。この発想を多くの分野に広げるべきだと思う。

2019年6月23日 (日)

多くの人を安心させる議論を

 吹田の殺人未遂事件から,1週間が経過した。この問題に関して、色々と言いたいことがある。

 この問題には、精神の病に関する微妙な問題が絡むが、ある程度踏み込まないと、本当の解決は見えない。

 まず、押さえておきたいことは、統合失調症という病気の特性である。この病気の、多くの患者は、早期に治療すると、薬の投与で症状がなくなることが多い。一派に言う

「直る人がいる」

ことをまず知っておかないといけない。しかし、このような治療が継続して必要な人がいる。この人たちの多くは、

「幻覚に苦しみながら自分一人の世界でおとなしくしている。」

状況にある。統合失調症に悩む人の大部分は、このような状況にある。確かに『引きこもり』的な状況になる人が少なくないが、外部に害を与える人はほとんどいない。

 さて、ここで最後のパターンは、

「妄想により他人を傷つける」

行動をとる人である。このような人は、比率的には少ない。しかし、『0』ではない。この状況を踏まえた議論が必要である。

 障害に理解のない人の多くは、過剰に一般化して

「統合失調症は怖い」

という。一方、病気についてある程度理解し、自分が関わった人は自分の経験から

「統合失調症は安全である。患者の権利を守らないといけない。」

と主張する。しかし、ここで大事なことは

「ほんの一部の例外の人からでも『殺された人』がいる。」

という事実である。例外的なまれに見る事件でも、その被害者の人権が損なわれたことを直視しないといけない。

 このように考えると、精神の病に関して議論するときには、

『不都合な例外も避けずにその存在を認めて』

対策を考えるべきだと思う。

 私の個人的な意見は、正当防衛の範囲をもう少し拡大すべきだと思う。

2019年6月22日 (土)

官僚のモラルを維持するためには

 昨日、財務省に関して,悪意の塊のような記事を見た。
 https://www.msn.com/ja-jp/news/national/不祥事続きの「最強官庁」ついに-有識者会議を設置へ/ar-AADbgce?ocid=sf#page=2

確かに、財務省のいろいろな不祥事はあるが、この問題の根本は、このようなチェック機能を作れば解決するとは思えない。

 私の考えでは、この問題の根本には

「国民と官僚の間にある信頼関係の欠如」
「官僚に対するレスペクトがなくなった」

ことが影響していると思う。つまり、

「尊敬され信頼されたからこそ、無理して働いてきた」

状況が崩れたことが根底にあると思う。この原因の一つは、政治家の質の低下である。田中角栄などの時代には、官僚をこき使ったが、官僚の能力は高く評価していた。しかし小泉政権ぐらいから、官僚というものは道具扱いされていたように見える。

 また、一般国民の間にも、高学歴化した結果、官僚というものを

「単に公務員試験を合格したもの」

というような見方しかできていない者が増えている。

 さて、この問題の解決案であるが、私の意見は以下の通りである。

国策を考えるキャリア官僚の検討過程を公開する

つまり

多様な要求を受け、種々の制約や今までの経緯(関係者)を考慮し、有限の資源で実現する

という、広く深く考えて、しかも人間関係の調整も行うという、高度な作業を国民に知らすべきだと思う。今までの

「知らしむべからず」

という形は、現在のように情報あふれ社会では通用しない。現在本当に力のある人は、

「大量の情報の中から必要な者を選び、上手に組み合わせる力のある人」

である。このような仕事の仕方の有効性は、実は官僚だけでなく、多くの場面で必要になってくる。これを公開することは、日本の国としての生産性の向上にも役立つと思う。

 なお、繰り返しになるが、

「昔の学校成績の優秀性」

「XX試験合格」

 だけで、人の尊敬を受けることはできなくなったことは、確認しておくべきだろう。

2019年6月21日 (金)

障害者の雇用についてもう少し 問題提起と解決案

 ここしばらく議論している、日本の雇用の問題について、発達障害者の雇用で少し考えてみた。ここでは、古い分類であるが『高機能性』発達障害の問題について、少し考えてみたい。実は、日本の企業では、発達障害について、理解が深まる前には、結構な人数の『それらしい人』が働いていた。特に、エンジニアの分野では、成績優秀な人間の採用が重視されたので、性格面での問題点は後回しだったときがある。一例として前に書いた記事を見てほしい。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-3a9e4d.html
 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-d2ac04.html

さて、今回議論したいことは、このような『発達障害』的な人が、周辺に与える問題である。具体的には、攻撃的な性格であり、容赦ない発言である。このような

『有能な人の暴言』

などに耐えかねて、辞めていく人が少なからずいた。また周辺の人がメンタル面を病むこともあった。このような、

「彼の個性だから我慢しろ」

という論法で片付けることは、今後は避けるべきだろう。

「障害者の雇用を促進した結果、良心的な管理職がうつ病になった」

などという事態も避けていきたい。

 さて、この問題の対策としては、一つは緩衝材となる人材の活用である。前に書いた記事でも、実質の部下に対人スキルのある人材を配することで、多くの問題を除去することができている。もう一つは、社会知識の教育である。発達障害の一部には、書き物をきちんと理解する知力がある人もいる。(逆に書いたものを文字通りしか理解できない)そのような人に、社会の仕組みで、多くの人の関わりを教えていく。例えば、

「私達が水道の水を自由に使うために、どれほどの多くの設備と人が働くか」

などの社会との関わりを教え、そこに関与している人への感謝をさせていく。このような教え方が、効果のある人もいるだろう。

 さて、ここでもう一つ問題がある。上記の『発達障害者を支える人』の処遇問題である。これは、ある意味の専門職である。しかも、この組み合わせは、チームとして大きな成果を生む可能性もある。しかし、この成果は『チームとしてのもの』であり、分けると何もないという状況になる。発達障害者であっても、高能力の人と組んでいた人間は、どうしても『その人に依存する』傾向が出てくる。

『技術的なものは答えが出てくる』

という依存関係になってしまう。このような姿勢で仕事をすると、これまたトラブルを引き起こす。

 この問題も少し重たい問題である。

2019年6月20日 (木)

人材が豊かな日本?

 現在の日本の状況は、人手不足だという。しかし、これは本当だろうか?一つの類推として、

「日本が鉄の原材料も輸出する」

という話がある。これは、 『都市型鉱山』という現象で、

「鉄鋼の強度を増すことができたので、従来の半分の鉄材で同じ強度になる」
従って
「今までの鋼材を作り直すと鉄が余ってくる」

という理屈である。

 これを人材に当てはめてみよう。

「従来の作業効率を上げ、ロボットなどを進めたので必要人員が減る」
これを利用して
「不足している分野に人を回す」

という感じの図式になる。この形での人材活用を行うなら、『就社』発想でなく、人材の流動化が必要になる。

 しかし、これは理屈では良さそうだが実際には難しいものがある。私は会社で新人教育の時によくいっていたが

「人間は形に流し込める鉄ではない、むしろ個性ある木である」

という発想が必要である。それまでの年輪を、そう簡単に変えることはできない。

 しかし、現在の状況を見ると、この問題の解決は必要性が高くなっているように思う。

 もう少し踏み込んで考えると、キャリア官僚の育成の図式でも

「一人の次官を生み出すために、同期の多くの人材から淘汰により選別していく」

という非常に贅沢な選別方法をとっている。これは、多くの大企業でも同様の発想で

「新卒一括採用の総合職は、課長レースで選別、部長レースで選別・・・最後に一人の社長を生む」

が根底にある。この発想が限界に来ているが、どこが悪いかが、見えていない人が多いように思う。私の考えでは

「本当の総合職、管理職、経営者の人材選別と育成ができていない」
「これを言わせない平等主義の弊害がある」

という問題ではないかと思う。日本の『学歴主義』は、根本には『生まれに対する平等主義』がある。もう少しいえば『機会は平等』という発想もある。

 この問題の解決には、

『個人の尊厳』
を大切にしながら
『多様な立場で社会に貢献する』

人財を多く生み出す社会にするべきではと思う。

「多様な価値観で、いろいろな面で尊敬し合う」

このような社会が大切ではないかと思う。

2019年6月19日 (水)

雇用モデルの一部(案)

 昨日の続きで、雇用形態のベストミックスを考えてみた。今回は、極端な事例をいくつか考えてみた。

 一つ目は、全員囲い込みが原則のパターンである。これは、その会社特有の『秘伝の技』などが伝承されている状態などがある。例えば、数百年の伝統がある、老舗和菓子店などでは、職人をきちんと育てている。この人たちは、その会社で育てるから、その後も会社と縁が切れないように、継続雇用が必要となる。その人たちは、職人として働く傍ら、販売なども行う形、就社というパターンになる。この場合には、企業継続の努力が経営側に求められている。多くの老舗和菓子店は、色々な試みを加えながら、伝統の維持との両立を図っている。

 二つ目は、新規技術を取り込み成長した会社の事例である。この場合には、技術すべてを自社で賄うわけにはいかない。そこで、広く取引先に対して、方針を公開し、技術提案を受け入れる。このようにして、外部勢力の成果を評価して、取り込みまとめ上げる形で製品化していく。この会社では、最低限の社員と、多くの外部勢力の働きで物が作られていく。この場合には、固定した人件費は最低限となる。製品戦略を立てたり、取引先の技術評価をしたり、総合的なまとめを行うコア人材だけが長期雇用となる。

 三つめは、大規模設備の工場を持つ場合で、技術・管理のコア人材と、負荷対応の作業者を分離する軽s機である。負荷対応の作業者が、短期契約の作業者となる。なお技術面や管理職でも、マニュアル化してスキル蓄積の必要性が少ないなら、比較的短い契約雇用となる。

 とりあえずこのようなイメージで考えたが、社会制度がこれについて行ってるだろうか。

 ここで議論すべきは、個人に対して、企業がどこまで支援するかという問題である。終身雇用が原則なら、育成の責任とその投資回収は企業の負担であった。この逆に、給与の支払いに関しても、福利厚生などを含めた生涯賃金でつじつまが合えばよかった。さて、これが短期の雇用なら、育成に関しても回収可能性をきちんと評価しないといけない。逆に言えば、

「育成しなくて済む人材の調達が可能か?」
「業務の標準化、マニュアル化を進め育成負担をなくす。」

という風な対策が必要となる。一方、給与に関しては、仕事の成果と評価がきちんと対応している必要がある。

 これに加えて、公的な支援の話を議論する必要がある。職業訓練を、今以上に強化するのか、大学や専門学校の組み換えから、再就職支援などに役立つ教育訓練をするシステムができるだろうか?

  また、この問題を考えていて気がついたことだが、今まで

『専門性の賞味期限』

について,まともに議論したことがあったのだろうか?もう少し踏み込めば、

『賞味期限切れの専門職の処遇問題』

と向き合ってきたのだろうか?さらに広げると

「進歩や開拓の学問や啓発書はいろいろあるが、撤退の戦略指導は少ない」

という問題がある。アメリカ流の市場原理で、

「だめな会社は潰れたらよい」

という弱肉強食論は一つの答えかもしれない。しかし、もう少し平和な答えが『日本的な解決』ではないかと思う。

2019年6月18日 (火)

多様な雇用を円滑に実現するために

 昨日書いた記事に関連して、もう少し深掘りしてみた。現在の雇用条件は、急速に変化している。そこで、方向付けを間違えると、今後に禍根が残ると思う。

 まず大事なことは、雇用条件は各社それぞれの経営戦略によって異なる。もう少しいうと

「むやみに他社の事例をまねしてもいけない」

が原則である。なぜ雇用が経営戦略と絡むか、これは以下の質問から見えてくる。

  1. 自社の強みはどこにあるか
  2. その強みは誰が持つか
  3. 強みを持った人財は育成するのか、外部から調達するのか
  4. その強みはどれほどの期間維持できるのか

このように、『自社の強み』に向き合うとき、それが装置や市場との関わりという人もいるだろう。しかしこのようなものも、

『究極はそれを活かす人』

の力に依存していることが多い。

 このように考えると、『自社の強みを活かす人財』をどのように確保するか、これは経営的な課題と考えてもよいだろう。しかし、この問題は、戦略的に考える必要もある。つまり『強みの賞味期限』をキチンと考える必要性である。確かに変化適応力を『自社の強み』と位置づけている会社もある。このような会社なら心配はないだろうが、技術の進歩により、『過去の栄光』という重荷を背負う危険性を感がないといけない。

『不ぞろいの木を組む』

という名言もあるが、これは法隆寺のように長く続く建物だからいえることである。『一時の花』を咲かすチームが、花が枯れた後も持続することは難しい。しかし、その後はどうするか、一時の成果は、一時の給与や一時金で報うのか、それとも後の生活保障で報うのか、これをきちんと考えることが、経営戦略になってくるだろう。

 この問題を考えるとき、他社の良好事例を学ぶなら、その環境をきちんと調べて、

「なぜあの会社は成功したか?我が社とはどこが違うのか?」

と検討しながら、自社の方針で制度を作るべきだと思う。

 戦後昭和の時代からの、単調成長とは違う、企業自体にも多様化の時代が来ているのである。一つのベストミックスが、どこにも適用できる時代ではない。

 もっとも、まずは『雇用形態のベストミックス』というものを、求める必要性を認識することが必要かもしれない。場当たり的な採用方針では、行き詰まる時代になっているように思う。

2019年6月17日 (月)

働き方の改革は色々な側面から起こる

 昨日書いた記事に関して、根本的な見落としが見つかった。

 私は、20世紀型の大企業の総合職(技術職でも総合職の範疇)のイメージで、議論をしていたが、現在の雇用状況は大きく変わろうとしている。日本を代表する企業のトップが「終身雇用の見直し」を言い出している。この状況では

『ジョブ型』

の採用となり、

『好成績者の処遇変化』

は、あくまで給与面などにとどまる。確かに、別途の雇用条件への切り替えの道は発生するだろうが、

『功績に答える管理職登用』

などということはなくなっていくだろう。その観点では、私の提起した問題の一つは杞憂かもしれない。しかし、このような『ジョブ型雇用』には、別の問題がある。つまり

「仕事が亡くなった人は雇用しない」

という厳しさである。私はコンピュータ技術者として、この事例を見てきた。古い例でも、

『FORTRAN技術者がUNIXに適応できなくなった』

という話がある。私はその経験者と話をしたことがあるが、

「頭の中を、再インストールしたかった」

と嘆いていた。このような人たちは、無理矢理社内の職種転換を受け、多くは不本意な仕事に就いていた。このような人たちが、受け入れられる会社があるなら、そちらに転職する方が幸せかもしれない。ここで問題になるのは、

「受け入れ先があるのか?どこまで就業の支援を受けられるか?」

という観点での議論となる。確かに、『飼い殺し』という状況は悲惨であるが、『行き先なし』や、『いい年して仕事ができない』と、新しい職場で評価されることも、もっと悲惨な状況になる。

 さて、この問題の解決にはどのようなものがあるだろう。私の考えでは、これにはいろいろなアプローチがあると思う。とりあえず、列挙すると以下のようになる。

  1. 働く人間の多様なキャリアパスの明確化・・・まずはここから
  2. 独立して働ける個人のスキル状況明確化・・・スキルだけか?考え方なども必要か?
  3. ジョブ型雇用を行う会社の体制明確化・・・管理職のスキル明確化(検定?)
  4. 会社の強みとしての多様な人材活用の力の明確化・・・人材で行うコンピテンシーの発想が使えないか
  5. 社会組織としての支援の仕組み・・・職業訓練などの見直し

 

2019年6月16日 (日)

障がい者の活用に関して考えて欲しいこと

 今朝の朝日新聞の一面を見たら、『引きこもり』の話がトップに載っていた。確かにこのような引きこもりの人は、若年層から中年層まで見ると100万人を超える可能性がある。これは、とても大きな問題である。

 さて、このような引きこもりをする人には、『発達障害』的な要素も、加味して考える必要がある。ここで、『発達障害』的と言ったのは、発達障害と診断されない、グレーゾーンの人が少なくない。特に、脳機能などの障害が見出せなくても、後天的な色々の要素が絡んで、対人スキルが低い人がいるからである。

 このような人の中には、

「本来はそこそこの能力があるが、対人能力の弱さ、
例えば
『打たれ弱いく一度の叱責で引きこもる』

『他人に対して攻撃的になりすぎる』
等の原因で引きこもってしまった」

事例が少なからずいる。

 このような人たちは、上手く使えば、それなりの能力を発揮する。極端な例では、従来の前例にとらわれないで、ブレークスルーを実現することもある。従って、このような『人財』を上手に使うことは、今後の我が国の経済発展にも重要だろう。

 しかし、この問題はこれだけで終わらせてはいけない。

 このような、『発達障害』的な人も、成果を上げると、会社としてそれなりの処遇を考えたくなる。これが曲者である。会社としての処遇の多くは

「出世して管理職」

という発想になることが少なくない。しかしながら、上にも書いたように

「発達障害的な人間は、他人に邪魔されないから成果を出した」

という面がある。従って、このような人を管理職にすると、またもやトラブルが発生する。

 実は、私自身の苦い経験から、この話を書いている。私は、昔はソフトウエアのエンジニアであり、その後新入社員の育成指導などにもあたった。そこでは、

「対人関係に難があっても基本ソフトの作成には向いている。(高能力)」

の人材を見出し、配属先に高く売りつけたことがある。ただし、彼らの十年以上後の仕事を見ていると、どうも順調に言っていない事例があった。

 このような失敗をしないためにも、厚生労働省として、就職支援とその後の労働状況の支援を、行う仕組みを考えて欲しいと思う。

 幸いにも、厚生労働省という名前が示す通り、就職のあっせんから、老状況の監督、さらに障害自体への対応と、一つの省庁で全部見ることができるようになっている。

 この立場を生かして、

障がい者就労のキャリアパスと支援体制

を検討していただきたいと思う。

2019年6月15日 (土)

突破する力に影響を与える仏教

 昨日書いた、『必殺技』依存の話に関して、もう少し踏み込んでおく。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-523b39.html

昨日も触れたが、NHKの「日本人のおなまえ!」では、剣術の必殺技の名称に関して色々な話があった。さて、江戸時代の剣術には、禅の教えの影響がある。柳生流の伝承には、沢庵和尚の『不動智神妙録』があるし、宮本武蔵の『五輪書』も、表題が示す通り仏教の影響がある。

 さて、ここで日本に伝わった、禅宗の教えには

頓梧=突然の悟り

がある。確かに、座禅をいくらしていても、ある時に飛び越えないと、本当の悟りは得られない。その意味では、『頓梧』という発想は重要である。しかし、それまでに地道な努力を積み重ねた上に、突然の悟りが来るという側面も、完全に捨ててはいけないと思う。

 天台の止観業でも『円頓止観』を重視している。これは、段階的に悟って行く『漸頓止観』と対比している。ただし、ここでは『悟りの段階』に関して議論しているので、

段階的な悟りより、一気に全体をつかむ悟り

を重視するのは大乗仏教の教えからしても必然的なモノがある。

 確かに、禅宗の話を色々と読んでいると、修行など通り越して、突然悟るという話もでてくる。

 しかし、このような突然の悟りだけを待つのは、地道な努力を捨てる可能性がある。また、世の中の仕事の多くは、地道な努力の積み重ねであり、一つ一つをきちんとしていくことが、世の中を支えている。

 このように考えると、現在の流れとして、地道な努力を軽視し、支えてくれている人を無視している人が多くなっているように思う。

 禅宗の悟りに関しても、その寺に布施をして、僧侶の生活を支える民衆の支持があったことを、忘れてはいけない。葬式の収入や戒名で儲ける発想とは別の世界である。

2019年6月14日 (金)

日本の短期決戦主義で本当に良いのか?

 昨日のNHKの「日本人のおなまえ!」で、大きな発見をしたので忘れないうちに書いておく。

https://www4.nhk.or.jp/onamae/x/2019-06-15/21/23478/2291084/

昨日のこの番組では、『必殺技』の名称について、特集していた。戦後の日本では、力道山の「空手チョップ」、ウルトラマンの「スペシウム光線」、ドラゴンボールの「かめはめ波」等の色々な必殺技が出てくる。しかも

必殺技を使って一発逆転

というストーリーが多い。

 私はこの話は、戦後の高度成長時の経営論などにもつながってくると思っていた。NHKのプロジェクトXなどにもあるが、

誰かの発明・発見でブレークスルーする

という発想である。そう言えば、高度成長期などに人気のあった、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に関しても、

英雄的指導者の力で突破

という話である。しかし、いろいろ議論のあった『旅順攻防戦』に関しても、現在の軍事研究では

「乃木司令部の塹壕作戦は正攻法であり正しい」
「坂の上の雲の203高地攻撃論は奇策で無駄に人を殺す作戦だった」

という評価する人が多い。

 私は、『坂の上の雲』の取った、

203高地で一発勝負説

は、上記文脈の『必殺技重視』と同じものだと思っている。戦後の高度成長時代にも、

誰かがよい発想でブレークスルーする

ことを、多くの人が待っている図式だったと思っていた。このような『必殺技依存』は、

地道な努力や設備での改善を軽く見る
組織を支える人を軽く見る

傾向になることが多い。特に戦後のマルクス主義教育は、国家を支える官僚の働きについても「悪人」呼ばわりする傾向がある。こうして

「一部の英雄官僚と、多くの地道な下積み官僚」

という図式になっていく。

 しかし現実に、社会を動かしていくためには、

一時的な必殺技より日々の積み重ね

が重要である。現在、この問題に向き合うべきだと思う。

 さて、私が思い違いしたのは

必殺技依存は江戸時代の武術に既にある

ということである。「秘伝の~~」などというものは多くある。これを考えると、私たちの、

一発逆転発想

を修正するには、かなりの努力が必要になると思う。私の考えでは、現在の社会がどれほど多くの人の貢献で支えられているか、ここから皆に見えるようにしていくことから始めるべきではないかと思う。

2019年6月13日 (木)

教科書への依存度が高い社会で考えるべきこと

 このブログで何回か指摘したが、

「平成の時代は教科書が力を発揮した時代」
http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-d308c3.html

であった。この傾向は、現在も継続している。

 さて、このような教科書依存ということは、

「自力で解決を求めない」

という負の側面がある。ただし、ここでもう少し踏み込むと、

「教科書の方向が見えればまじめに取り組む」

人は少なくないということも併せて考えないといけない。つまり、成功する方向づけと、方法論の概要を示すと、ある程度の工夫をする人はいる。何もしないのではない。ただ失敗を極度に恐れるので、成功するための方針を示しておく必要が出ている。

 このように考えると、現在の政府が示している

「就職氷河期の人材の活用」
に関しても
「成功事例の提示と方法論の概要」

まできちんと示さないといけないのではと思う。

 私の考えでは、この問題を大きくとらえると

多様性に対応した管理能力

の力が雇用する側に必要であり、これは障がい者の雇用とも関連する事項である。

 このような状況を考えると、厚労省やその外郭団体で、実験的に「引きこもり人材の雇用」などを行い、その時の支援状況や管理面での留意事項などを教科書として配布していく。また、技能検定の枠組みを使って、

管理者能力の検定」

を行うなどの施策もあるのではと思う。

2019年6月12日 (水)

改革的な仕事をするときの権力者の在り方について

 先日、大阪府知事時代の橋下徹氏が、部下の幹部職員に対して、担当以外にも写しのメールを送ったという話を見た。

 https://diamond.jp/articles/-/204092

この話は、権力の在り方について、色々と参考になる。

 まず一つは、『価値観の共有』という観点である。これは悪意で表現すれば、『忖度』という言葉でもあるが、改革を行うときには、

価値観の変革が必要になる

このためには、

「色々な指示を見せる。」
「他人の仕事を評価しているところを見せる。」

ことは有効な手段である。

 もう少し踏み込めば、このような価値観を感じて、併せていく能力が、組織人としては必要である。このような訓練ができていない人が少なくない。『忖度』を悪く言う国会銀などはその例である。

 しかし、もう一つ大事なことは橋下氏が指摘しているように

僕が一斉メールでみんなに情報を流したもう一つの理由は、特定の人物の情報の独占が変な形で力の源泉になってしまう状態を変えたかったからです。

という風に情報独占を防止する効果である。これは、色々な社会にあった

「情報を持っていることで有利になる」
「情報を持つことが権威の裏付け」

という発想を壊し、フラットな組織で、実力を発揮させるという発想である。

 考えてみれば、今までの組織において

「権力=情報の保有」

という発想が大勢を占めていた。権力者の好みを知らない人間が失脚する。明治維新以降の日本は、欧米の新知識を知っている人間が有利になる。もう少し昔なら、武術の世界では、秘伝の技があり、さらにその返し技を師匠は知っていることで、弟子が反逆したときに倒せるようにしている。

 しかし、現在のネット社会では、情報は探せば見つかる。それよりもその情報を使いこなす。取捨選択を上手にして組み合わせる。そのための価値観をきちんと確立し、適切なトレードオフをおこなう。このような判断力が権威の根拠になってくると思う。

 もう一つ言えば、武術の事例でも、

「基本の形に全て公開してある。それを使いこなせる鍛錬があるかどうか?」
「秘伝の必殺技などない。得意の技が極意技になる。」

という発想もある。現在の社会では、この発想が必要だろう。

2019年6月11日 (火)

人材育成の問題点を広く深く考えてみた

 「ニュース番組でありえないミスが続出!急増する『非常識AD]の実態」という記事を見た。

 この話を色々と深堀すると、現在社会に共通的な問題点が見えてくる。最初に見えるものは以下のようなものである。

  1. 下請け制作会社に丸投げしているのではないか
  2. 下請け会社は、作業者個人に押し付け(丸投げ)
  3. 個人のスキルは低くなっている
  4. 先輩と共同して対応する機会がないので育成できていない

さて、一歩踏み込むとこれを階層化して考えることもできる。

  1. 個人スキルがない作業者レベルの問題
  2. 仕事の与え方、管理の仕方が判っていない、管理者レベルの問題
  3. 人材育成に資源(金)を回さない、経営者レベルの問題
  4. 企業と社会(学校教育)との間の人材育成の分担を考える、政治レベルの問題
  5. 働く意識の変化という世相変化の問題

このように考えていくと、この問題は

「マスメディア特有の問題」

と考えるべきではないと思う。

 対処療法としては、対人スキル訓練を行ったり、管理職の業務方法の訓練や、個人尾行動特性評価などを行う。一方で、仕事の全貌を描く教科書を作成していく。このようなものだろうが、全体を見た解決はもう少し広く深く考えるべきだと思う。

2019年6月10日 (月)

もしトランプ大統領が「トクヴィル」を読んだら 

 先日から書いている、歴史学の話で、歴史学などが権力の基盤となる危険性に関して、一つの事例が飛び込んできた。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64840

 アメリカ大統領の教養としての「トクヴィル」である。確かに、トランプ大統領がトクヴィルを読んだ形跡はない。

 トクヴィルは、アメリカとフランスの歴史を比較検討し、アメリカが素晴らしいと持ち上げている。この比較検討を行う姿勢は、政治家にとっても知っておいて欲しいものである。

 しかし、トクヴィルに関しては、負の側面があることを忘れてはいけない。山内昌之が「歴史の作法」の第4章広がる歴史―文明の接触と衝突ーで指摘しているように、

アルジェリア植民地の経営を「フランス最大の事業」であると考えていました  p193

あらゆる点を勘案しても、この世でマホメットの宗教ほど、人間にとって忌まわしい宗教はない p197

という風な、キリスト教第一主義の支配的な思想である。

 これを、

   「アメリカ・ファースト」

のトランプ大統領の理論武装に使われらたら、何が起こるだろう??

 それこそ、色々な国へ攻め込んでいくのではないかと思う。現在のトランプ大統領は、戦争のコストを嫌っているから、まだ大戦争になっていない。

 現在のトランプ大統領は、現実主義的な面も多く、こちらが適切なレスペクトをもって対応すれば、彼もきちんと対応する。これは、先般の日本訪問でも明らかである。一方、トランプは無作法だという攻撃的な相手には、自分も攻撃的になる。これは当然だと思う。

 考えてみると、トランプ大統領に対して、それなりの敬意をもって、しかも対等に対応している国は、日本しかないのではなかろうか?

 野蛮・無教養とバカにした、各国指導者に比べれば、日本政府の対応はまともなモノだったと思う。

2019年6月 9日 (日)

「歴史と道徳哲学」を教える社会は?

 先ほど書いた記事の、歴史が支配に利用されている、極端な事例というか、思考実験を思い出した。ハイラインの「宇宙の戦士」が描く世界である。以下ネタバレをご了承願う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/宇宙の戦士

 この世界は、大きな思考実験として、

「選挙権を持つ市民は、軍人経験者に限る」

という世界を考えている。

 さらに、軍人退役者を学校教育現場に派遣し、

「歴史と道徳哲学」

を教育するという世界である。また、軍人の士官候補生の教育には、

「歴史と道徳哲学を教え、それを論理的に説明できる力をつける。」

ということまで行っている。

 ここまでくると、歴史を政治の道具化するときの完全な形が見えてくる。但しこれから先の制度的な進歩が見えないだろう。

 もう一つ踏み込むと、軍隊というのは、ある意味では、均質な人材の世界である。少なくともついていけない人間を、排除する世界である。

 「衆愚政治を避けるために、政治参加者を選択する。」
「これが本当に良いことか、悪いならその理由は何か?」

これにきちんと答えることができる人は、どれほどいるだろう?

 実は、アメリカのSFでは、これより少し前に、E.E.スミスが「レンズマンシリーズ」でこれに答えている。このシリーズで宇宙の守護者である、アリシア人が二つの発言をしている。

「世の中に絶対の善も絶対の悪もない。ただ『最大多数の最大幸福』だけは守らないといけない」

「一つも犯罪が起こらないような世界にすることはできるが、その世界は進歩がない。」

これが一つの答えだと思う。アメリカのSF界に関して、我が国でもハインラインの方が思想的になモノがあり、スペースオペラのスミスは低く見る向きがある。しかし、レンズマンシリーズのアリシア人に関して考えると、かなり深いものがあると思う。

2019年6月 8日 (土)

歴史学は役に立つか ー役に立ちすぎた過去?-

 このブログで何度も取り上げている問題に、

「大学などの学問が実社会で役に立つかどうか?」

という議論がある。私は、会社生活の経験から

「活かし方を間違えなければ役に立つ」

という立場である。

 今回は昨日の「歴史の作法」に関する話の延長で

「歴史学は役に立つか?」

という議論をしておきたい。私の意見は、

歴史学は役に立つ。特に多様化社会での思考実験材料の宝庫である。

である。

 このために、参考になる2冊の本を上げておく。

 1.社会学的想像力のために:伊奈正人、中村好孝著、世界思想社

   https://www.amazon.co.jp/社会学的想像力のために―歴史的特殊性の視点から-伊奈-正人/dp/4790712893
  (本当は、ミルズの本を推奨したいのだが、毒ないとはいいがたい人物なので常識的な著者の作品にした)

 2.歴史は実験できるのか:ジャレド・ダイアモンド+ジェイムズ・A・ロビンソン著小坂恵理訳、慶應義塾大学出版会

これらは、歴史の舞台で起こったことを比較検討するための、思考道具を与えてくれる。もう少し言えば『ワラスの輪』を使って欲しい。

 さて、ここで歴史の実用化に関して、危険な話をしておかないといけない。

「歴史の学問は、権力側に利用されやすい性格を持っている!」

これは、日本が明治維新後の国体を強化するために

「神国日本の歴史」

を使ったことが一つの典型例である。しかし、これ以外にも、本質的に

「現在の政権は、前の政権より良くなった」

と主張したがるものである。これは歴史学にある

「進化論的観点」
もう少し単純化して
「勧善懲悪論」

的な視点と相性がよくなる。従って、うかつに近代現代の歴史を書くと、政権の御用研究になってしまう。

 このような、『進化論的視点』が西洋文明の植民地支配を理論づけたことは、反省すべき事項である。

 ただし、政権と歴史観の危険性、これ自体が歴史の考察事項であろう。

 現在社会の密なつながり、そして多様性を受け入れざるを得ない環境、これを考える時、今までの失敗を繰り返さないように、しっかりした反省が必要である。そのためには、自分が持っている価値観の影響を、きちんと評価しながら、今までの歴史を検討する。このような姿勢が必要だと思う。

 繰り返すが、

「歴史研究の実用性は現在は高くなっている。」

が活かし方が大切である。 

2019年6月 7日 (金)

学問に向き合う姿勢について

 先日から書いている、歴史学の話に関して、大事な本が目についたので紹介しておく。文春新書の山内昌之著「歴史の作法」である。

https://www.amazon.co.jp/歴史の作法―人間・社会・国家-文春新書-山内-昌之/dp/4166603450

 この本は、歴史を学ぶ人に対して、考え方の土台を問いかけている。私が感じた主要な問題は

  • 価値観(道徳)を歴史の展開の中にどのように見るか
     自分の価値観の影響に関してもできるだけ客観視する
  • 歴史研究における叙述との関係
     歴史研究と物語の関係

である。

 これは、一つの問題だけでも、一冊の本が書けると思う。それを新書に詰め込んだのだから、読んだ人は消化不良になるかもしれない。

 しかし、この本が問いかけている問題は大きなものがある。

 実は私のように、1960年代の中学高校での歴史教育を受けたものは、やはりマルクス主義的な価値観の影響を、(学校教師などから)受けている。もう少し言えば、

「単純な進化論的歴史観」

に毒されている。しかし、このような『進化論的発想』には、『西洋文明の侵略』の正当化が、根底にあることを心しておかないといけない。

 『文化的な進化』を考えると言いうか信じる。

このような人は、『文化的に劣っている』と判断した人たちを、指導したがる。

 このような発想で、『善意の人間の正義の侵略』が、今までの歴史にどれほどあったか、私たちは反省しないといけない。

 しかし、逆の見方をすれば、

「開発独裁で救われた多くの命もある」

という側面も考える価値がある。

 このような、多面的な考え方の切り口として、歴史を学ぶ姿勢を考えることは、大切だと思う。

2019年6月 6日 (木)

学校的な価値観の強制の被害者

 昨日まで書いている、学界的発想について、もう少し広げて

「学校的価値観」

という観点から考えてみた。

 まず前提として『平成』の時代を振り返ってみよう。昭和の終わりから平成の時代は、

「ある意味で技術の成功した時代」
つまり
「教科書通りに作ったものが動く」

になっている。この話は、このブログでも何度か書いたが、昭和の時代の工業製品は、電子機器でも現場のモノ合わせの調整が必要であり

「教科書の知識だけでは動くものができない。」
つまり
「先人の蓄積が大切」

であった。このような状況では、中卒や高卒の現場での経験者が活躍する場も多くあった。

 この経緯に関しては、例えばhttp://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-d308c3.html

 しかし平成の、「学校教科書の実用化」の時代にあっては、

「大学の学問が重視される。大学院の修了者も優遇される。」

事態になっている。一つの実例を挙げると、電気自動車やドローンなどに使われている、モーターの制御に関しても、数式処理の理解は必須になっている。具体的にはクラーク座標の知識が有効であり、数値処理の近似に関する理解が必要になる。

 このような複素数を使った数式処理は、高校の範囲を超えるので、大学出身者の知識が有効に働くようになってる。

 また、制度面でもいろいろな進化があり、法的な制度の理解や、経営数値の取り扱いと理解などでは、一部の文系学科でも、大学出身者の優位性が出てきている。

 しかしながら、多くの仕事の場では、まだ従来の蓄積や、現場での鍛錬が重要なものも多い。例えば、お客様の考え方を理解するスキルなどは、経験を積んで身に着けていくものである。

 そこで、

「大学を卒業しても下働きでしかない」
「論理的な議論が評価されない」

等の不満を持つ層が少なからず発生する。

 これに就職氷河期が絡むと、

「不本意な仕事でプライドが壊された」

ということによる『ひきこもり』が発生する場合もある。

 『引きこもり』の一つの原因として、このような

「学校文明適応者の、プライド破損による挫折」

があるのではと思う。

学会的価値観からの解放

 先日から書いているいる、学者的発想と芸術家などの発想の話について、もう少し大きな問題として考えてみたい。今回取り上げるのは、

「ポスドク問題」

である。これは大学院の博士課程まで進んだが、その後研究者や大学の教官などの言わゆる「アカポス(アカデミック・ポスト)」に着けない人の問題である。これはざっくり言って、1万~2万の間の人数らしい。(研究者としての中途半端な雇用状況の人数が絡むので、実数はもっと多いかもしれない)

 このような人の活用に関して、

「企業などで人材を活用しろ」

という大学などからの発言があることは承知している。しかしながら、それを認められない状況もある。具体的に言うと

「実用性がない」

ということである。この問題のついて、一つの原因は

「学会的価値観と行動陽子からの脱却ができていない。」

ということである。つまり、研究者として認められるためには、

「学会の今までの文脈の上に新しいものを発表する。」

ことが必要になる。もう少し言えば、

「今までの研究者の実績を踏まえて、それに何を加えるか、何を修正するか?」
これを、決められた枚数の論文で発表し受け入れられる

ことが重要である。確かに、まったく新しい考えを出す人もいる。そのような人は、自分の前提条件から説明しないといけないので、いきなり本を執筆して、そこで詳しく説明する。または、実験的なモノを作って、そのれを提示して認めてもらう。このような苦労が必要になる。しかし現実には、執筆が許されるのは、既にある程度の成果のある人間である。従って、研究者としての徒弟修業中は、

「学会に受け入れられる論文執筆」

が大事な仕事になる。そこで育ってくると

「学会で認められることが全て!」
「学問的思考法が全て!」
「これを習得した私は偉い!皆は従え!」

という人種を生み出すことになる。

 しかし現実の世界で仕事をしている人間は、

「多様な利害関係の中での調整が大切」
「何とか共用できる解決案を見出すのがやっと」(ワインバーグ)

という苦労をしている。

 このような状況をしっかり理解したうえで、ポスドク問題を考えるべきだと思う。 

2019年6月 5日 (水)

歴史を学ぶ意味について

 この日曜日に、読売テレビの「そこまでいって委員会NP」を見たら、教育に関する特集があった。この番組は、個性の強い出演者がそろっているが、それだけ鋭い切込みもある。今回は教育の関する特集であった。色々面白い発言があったが、今回は

「文系・理系の壁をなくすということは、文系つぶしにつながる危険性がある。」

という発言に注目したい。これは、文系の学者たちには、色々な面で迫害されているという経験があるからだと思う。確かに、彼らの危惧は当たっていないこともない。実は私もこの件に関しては、生々しい話を聞いている。昔、ある大学の先生と話をしたとき、以下の趣旨で経験談などを言った。

「ソフトウエアのエンジニアをしていると、お客様の要求や社会の要求などを考えるために、社会学や心理学なども必要だし、法学のセンスも必要になる。」

この話を聞いた先生は、ニヤリとして

「そのアイデア頂き。実は情報関係で、新設学部を考えているが、文部省の発想では、一つの学部の分割では通りにくい。多くの分野の融合ということなら通りやすい。文系の学科を一部組ませると、文部省も認可しやすくなる。」

と言っていた。

 この話が示すように、情報関係の総合的な学部と言っても、文系の研究室は付け足しになることが多い。しかも研究予算は、設備が必要な情報系などに取られて、文系は少ない予算で大人しくしていることも少なくなかった。

 このような観点から言うと、文系の学問が、

「自分たちの存在が危ない!」

という危機意識を持つことは当然である。

 しかしながら、私のように一般企業に勤めた人間からすれば、このような危機感を感じたら、

「まずは有用性をPRすべし」

と思うのだが、そこの動きが感じられない。例えば、歴史学を学ぶ意味なら、

「マックスヴェーバーが行ったように、歴史的な状況を見て検討することで、多くのことが解る。」

という主張があってもよいと思う。現在のように多様化してくると、「清一色的文明」ではなく、色々な立場を考えることが必要になり、

「昔の人はなぜこのような行動をしたか」

等を考えるスキルを身に着けることは、今後とも役立つと思う。

 ただし、戦前の日本のように「神国日本」を教えるための、歴史教育になってはならない。これは現在も、朝鮮半島や中国などで、「日本の侵略:などという形の教育が行われている。韓国などは「李承晩ラインの不当性」は教えずに、色々と歴史教育を行っている。

 このような状況も知っておくべきだろう。 

2019年6月 4日 (火)

工学部の役割は?

 今朝のNHKニュースを見ていたら

「AI時代に生き残るためにはアートの力が必要」

という話があった。この趣旨は

「AIは大量のデータから求められた答えを出すの長けている。しかし全体を見て、問題の状況を感じたり、描いたりするのは、アートの仕事である。AI時代に人間が生き残るためにはアートの力が大切である。」

ということであった。

 確かに現在のAIの動向などを見ていると、この話は正しいように思う。

 しかしながら、大学の工学部出身で、メーカー勤務の経験者としては、もう一つ間に欲しいものがある。 

「本来、工学は総合的な視点で、目的を達成するものではないか?」
「理学部の理論を実用化するために、現実の複雑な状況を見て、それに適応するのが工学ではないか?」

もう一つ加えると

「人工知能(AI)の研究は工学部主体で進んでいたはず」

という観点で、

「アート(芸術)の前にテクネ―(工学)がすべきことがあるのではないか」

と突っ込んでしまった。私も工学部出身で、学生時代から人工知能とは色々なかかわりがあり、設立年度から日本人工知能学会の会員である。この立場では、総合的な検討を、アートに譲るのは少し残念である。

 もっとも、今はあるご縁で、芸術家の方とお付き合いしているが、

「あなたの感性には負ける。本質に一気に迫る力は素晴らしい!」

という体験は少なからずしている。両者の切磋琢磨が必要だろう。

2019年6月 3日 (月)

学会などの議論法を一般に向けてよいのか

 昨日書いた、学者・教育者・芸術家についての議論をもう少し考えてみた。

 一つの問題点は、学者が素人に対して、色々とマウンティングすることである。確かに証拠の扱いなど、いい加減な人は、学会人からすれば、

「相手にするに値しない」人間かもしれない。

 しかし、現実社会では、色々な要素が絡まっている。そこでは学問社会で考える、『理想的なモノ』はほとんど存在しない。そこでお互いが喧嘩すると次のようになる。

「まともな資料も読まずに口出しするな。」

「当時のXXを無視した検討は無意味である。」

つまり、学者は資料評価の厳密性を重視したのに対して、総合的な体験を重視する、一般人との戦いになる。

 さて、この問題に、教育者という観点を加えてみた。例えば、教科書を執筆するなら、その分野の全体的な状況を見た上で、議論が分かれる場合には、両論併記するような配慮が必要になる。このように、教育者の立場では、視野を広げてバランスをとることが必要になる。

 これは、研究者のキャリアパスとして考えると、大きな問題が見えてくる。実は私は、1970年代の半ばに、修士課程から追い出されて、博士課程をあきらめた人間である。その理由の一つは

「博士課程に進学しても大学教官のポストがない。」

であった。この裏には、

「大学の教官としての人格形成は難しい。」

という問題が絡んでいる。つまり、研究者から教官としての教育者・組織運営者としての人間の幅拡大の機会がないということである。そのため、メーカーでモノ作りなどを身に着けることを推奨された。実際、私はメーカーでの色々な体験から、幅広い分野の勉強をすることになった。

 ここで数十年前に時間を戻し、私が博士号を取得してとしても、その後がどうなったか少し考えてみた。私の当時の力を考えると、そこそこの研究はできただろう。しかし、偏狭な見方で他人と共同できるかは、難しいものがある。しかも研究者として、

「自説が一番」

と強く主張することが性格として残る。これでは、一般社会では、生きていくことが難しかったと思う。

 さて現在を考えると、大学院進学の比率が増えているが、大学教官のポストの準備はそれに追いついていない。いわゆるポスドク問題が生じている。

 ポスドク問題に対する一つの対応として、学会的な議論での攻撃性を、総合的検討へ変える教育などを考えるのもあると思う。

2019年6月 2日 (日)

芸術家の立場について

 先日、NHKが運慶・快慶の特集を放送していた。そこで気になったことは、いま私たちは運慶・快慶に関しては、美術史の文脈で学ぶことが多い。つまり芸術家の枠で考えている。しかし彼らが生きていた時代を考えてみよう。現在のように、教育機会も少なく、書物なども貴重品の時代である。紙も庶民の手に入ることはすくない。このような状況での、仏教の強力な不況手段は、

「仏像を見せて仏の世界を知らせる」

ことである。摩訶止観にも説いているように、自分で仏の教えを考え抜く人の次に

「仏の姿を観て発心する」

があって、その後に

「仏の教えを聞いて発心する」(経典を読むことを含む)

と書いている。このように仏像を彫ることは、強力な布教手段であった。またもう一歩踏み込めば、彼ら自身の信仰を深め、仏の姿を具現化することで、仏の世界に近づこうとする。または自分が仏と一体になっているのを実感していたのかもしれない。

 このようのその時代に生きた人の考えを、自分のものとする。これは多様化社会に対応するための大切な力だと思う。

 歴史に関して、歴史学者は、証拠に基づいて、厳密な論理展開で自分の説を主張する。一方、歴史の教育者は、色々な説を客観的に述べて、その上で自分はこう考えると言う。多くの説を受け入れた上で自分の考えを持つように教える。

 さて、芸術家はどのような対応をするだろう。自分の直観を信じ、その時代に生きた人や、その時代の生活環境などを、創出する。生き生きとした人格が『降りてくる』などが、芸術家に起こることではないかと思う。

 アプローチはそれぞれ違うが、お互いを尊重するのが多様化の時代だと思う。

2019年6月 1日 (土)

画一的な見方で見落とすもの 「深く罪福の相に達して」

 川崎の痛ましい事件の後、言わゆる「引きこもり」の問題に関する議論が出ている。

 この議論というか、一方的な意見の投げかけが多いのだが

「引きこもりの人間が事件を起こした」->「引きこもりは危険だ!」

という短絡的な危険論と

「引きこもり者に対する偏見助長につながる」

という慎重論

に分かれている。例えば以下の記事である。

https://mainichi.jp/articles/20190531/k00/00m/040/214000c

 さてここで、両者の対応にはどちらも

「過剰な一般化による問題」

が生じている。確かに、「引きこもり者」全て「犯罪予備軍」と見るような決めつけは危険な見方である。このような単純な議論は、しっかりと反論すべきである。

 しかしながら、非常に少ない確率にしろ今回の事件のように

「引きこもりを刺激すると犯罪に走る」

可能性もゼロではない。この観点からもきちんと議論しないといけない。

 現在の日本のように、凶悪犯罪が減ってきた現状では、重要な事件では個別の犯罪に関して原因究明を行うことも可能になっている。そこでは

「統計的に発生確率が低いから安全」

という論法ではなく、

「個別の例外に関しても原因究明を行う」

姿勢が求められている。

 悪いものに目をつぶるのではなく、

「発生確率は非常に低いが、悪いことも起こる」

と考えて対策を考える。これが必要ではないかと思う。

「全てが理想鵜通りのものだけがある」

お花畑的発想ではいけない。法華経の教えにある

「深く罪福の相に達して 遍く十法を照らす」

が示すように、悪いモノの存在も考えながら、全体の幸福を探ることが必要だと思う。

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