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2019年6月 3日 (月)

学会などの議論法を一般に向けてよいのか

 昨日書いた、学者・教育者・芸術家についての議論をもう少し考えてみた。

 一つの問題点は、学者が素人に対して、色々とマウンティングすることである。確かに証拠の扱いなど、いい加減な人は、学会人からすれば、

「相手にするに値しない」人間かもしれない。

 しかし、現実社会では、色々な要素が絡まっている。そこでは学問社会で考える、『理想的なモノ』はほとんど存在しない。そこでお互いが喧嘩すると次のようになる。

「まともな資料も読まずに口出しするな。」

「当時のXXを無視した検討は無意味である。」

つまり、学者は資料評価の厳密性を重視したのに対して、総合的な体験を重視する、一般人との戦いになる。

 さて、この問題に、教育者という観点を加えてみた。例えば、教科書を執筆するなら、その分野の全体的な状況を見た上で、議論が分かれる場合には、両論併記するような配慮が必要になる。このように、教育者の立場では、視野を広げてバランスをとることが必要になる。

 これは、研究者のキャリアパスとして考えると、大きな問題が見えてくる。実は私は、1970年代の半ばに、修士課程から追い出されて、博士課程をあきらめた人間である。その理由の一つは

「博士課程に進学しても大学教官のポストがない。」

であった。この裏には、

「大学の教官としての人格形成は難しい。」

という問題が絡んでいる。つまり、研究者から教官としての教育者・組織運営者としての人間の幅拡大の機会がないということである。そのため、メーカーでモノ作りなどを身に着けることを推奨された。実際、私はメーカーでの色々な体験から、幅広い分野の勉強をすることになった。

 ここで数十年前に時間を戻し、私が博士号を取得してとしても、その後がどうなったか少し考えてみた。私の当時の力を考えると、そこそこの研究はできただろう。しかし、偏狭な見方で他人と共同できるかは、難しいものがある。しかも研究者として、

「自説が一番」

と強く主張することが性格として残る。これでは、一般社会では、生きていくことが難しかったと思う。

 さて現在を考えると、大学院進学の比率が増えているが、大学教官のポストの準備はそれに追いついていない。いわゆるポスドク問題が生じている。

 ポスドク問題に対する一つの対応として、学会的な議論での攻撃性を、総合的検討へ変える教育などを考えるのもあると思う。

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