ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

« 歴史を学ぶ意味について | トップページ | 学校的な価値観の強制の被害者 »

2019年6月 6日 (木)

学会的価値観からの解放

 先日から書いているいる、学者的発想と芸術家などの発想の話について、もう少し大きな問題として考えてみたい。今回取り上げるのは、

「ポスドク問題」

である。これは大学院の博士課程まで進んだが、その後研究者や大学の教官などの言わゆる「アカポス(アカデミック・ポスト)」に着けない人の問題である。これはざっくり言って、1万~2万の間の人数らしい。(研究者としての中途半端な雇用状況の人数が絡むので、実数はもっと多いかもしれない)

 このような人の活用に関して、

「企業などで人材を活用しろ」

という大学などからの発言があることは承知している。しかしながら、それを認められない状況もある。具体的に言うと

「実用性がない」

ということである。この問題のついて、一つの原因は

「学会的価値観と行動陽子からの脱却ができていない。」

ということである。つまり、研究者として認められるためには、

「学会の今までの文脈の上に新しいものを発表する。」

ことが必要になる。もう少し言えば、

「今までの研究者の実績を踏まえて、それに何を加えるか、何を修正するか?」
これを、決められた枚数の論文で発表し受け入れられる

ことが重要である。確かに、まったく新しい考えを出す人もいる。そのような人は、自分の前提条件から説明しないといけないので、いきなり本を執筆して、そこで詳しく説明する。または、実験的なモノを作って、そのれを提示して認めてもらう。このような苦労が必要になる。しかし現実には、執筆が許されるのは、既にある程度の成果のある人間である。従って、研究者としての徒弟修業中は、

「学会に受け入れられる論文執筆」

が大事な仕事になる。そこで育ってくると

「学会で認められることが全て!」
「学問的思考法が全て!」
「これを習得した私は偉い!皆は従え!」

という人種を生み出すことになる。

 しかし現実の世界で仕事をしている人間は、

「多様な利害関係の中での調整が大切」
「何とか共用できる解決案を見出すのがやっと」(ワインバーグ)

という苦労をしている。

 このような状況をしっかり理解したうえで、ポスドク問題を考えるべきだと思う。 

« 歴史を学ぶ意味について | トップページ | 学校的な価値観の強制の被害者 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 歴史を学ぶ意味について | トップページ | 学校的な価値観の強制の被害者 »