ご縁のあった人たち

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2019年7月31日 (水)

素人の直観を学問に近づける

 昨日書いた、古代日本史に関する反省は、もう少し深く考える必要があると判った。

 私自身、色々と浅い考えで誤解していたが、聖徳太子の法華経について,もう少し深く読む必要がある。確かに、法華義疏の対象である法華経は、天台大師の読んだ法華経とは違っている。それだけでも、随の煬帝の拒否感を引き出す可能性はある。

 しかし、私の直観は、

「聖徳太子は、小乗の教えの危険性を知っていたのか?」

という点で、

「正統的な修行者がいない仏教の弱点」

が、随の仏教界の顰蹙を買ったのではないかと思う。

 この点は、法華義疏をきちんと読んで、法華経の清浄へのこだわりが、聖徳太子が理解しているかを見たら、答えが出るように思う。

 もう少し頑張ってみたい。

 読んだ感想ですが、結局不明でした!

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-f3fb3b.html

2019年7月30日 (火)

古代の日本の歴史の勉強し直し

 #中公新書 #古代日中関係史 #河上麻由子 著 を読んだ。

 色々と気がつくことが多く、不勉強な我が身を恥じるばかりである。特に、

「仏教が統治手段となっていた」

と言う話は、目から鱗である。今まで、科挙のイメージで、儒教が統治手段として使われることは、ある程度感じていたが、この本の書いているとおり、「菩薩戒仏弟子皇帝」という形で、仏教による民衆支配があったことを、今回初めて知った。また、周辺国への支配手段としても、仏教関連の色々なモノを与えるという形の有効性もわかった。

 個別の話では、p52の

「百済のように、皇帝が作成した経典の注釈書を下賜品に求める国」

と言う一節に興味を引いた。この文脈で考えると、聖徳太子の『法華義疏』は、もう少し外交上の意味を持つのではと思う。つまり、我が国の独自性として、

「大乗経典の解釈書を自ら書くレベルの国」

としての位置づけである。

 ただし、色々な先生が指摘しているように、法華義疏の文章は、中華文明の文章に値するかは疑問である。下手な文章を示すことは、中華文明での外交では致命傷になる。つまり、

「下手な文章=文化程度が低い」

との判定である。

 また、もう一つ、私の意見を言わせてもらえば、

「法華義疏の法華経理解は浅い面がある。具体的には、既存小乗との違いである。
具体的には、法華経安楽行品の解釈で
『少乗の禅師に親近すべし』
と解釈しているが、当時の小乗の『不浄観』は、法華経の最も嫌うものであり
『親近せざれ』と経典通りの解釈が正しいと考える。」

なお、この部分は、聖徳太子の解釈は「顚倒した分別の心が有る由る」ため『親近せざれ』ということと、訳者の花山信勝の説明がある。
(7/30追記)

と言う感触を、随の人々も持ったのではないかと思う。このような理解の浅さを、露呈すれば、

『無礼な振る舞い』

と扱われる可能性は大きいと思う。

2019年7月29日 (月)

保守の政治家の一部が『家族』にこだわる理由

 先日、『年金も生活保護も「偏差値60を前提とした仕組み』なる記事を見た。

 言っていることはなんとなく判る。確かに役所の制度など、複雑であるが、

「その説明文書を読めないモノが悪い」

という発想があるように思う。さて、この問題に関連して、もう一つ踏み込むと

「誰か偉い人に読んでもらえ」

という発想が出てくる。つまり、家の長や、地域の長である。このような、情報理解による階層制度、これを維持するために、あえて難しい制度を残している。この可能性はないだろうか?

 もう一つ別の観点から言えば、

「理論的な理想化には、現実対応の調整や修正が必要である。」

ので、中間的な『長』が必要と考えているのではないか?

 この発想は、悪いモノではない。組織のフラット化をしすぎたから、色々な混乱が起こっている。

『平等』を押し出すのはよいが、ある程度の秩序のために、中間的な権威を置く必要をもう一度考えるべきではないかと思う。

 続編を書いた(2019/8/8)

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-258ec2.html

2019年7月28日 (日)

ネット社会で『田舎者』とは?

 『田舎者』という言葉には、差別的要素があるので、使うのがふさわしくないかもしれないが、昭和の時代から平成の時代に経験した、事象によく適合しているので、あえて『』付きで使わせてもらう。

 私が、最初に見た事件は、ある会社の地方の支部であった。そこには、そこそこの人材がいる。しかし、なかなか業績が上がらない。そこで、他の部門で成功している事業を移管して、その部署の仕事の負荷を確保しようとする。すると一時的に負荷確保はできても、その仕事自体が潰れていく。このような事態が発生していた。私は、偶然にもその部署について、調べる機会があった。その地域で見たモノは、その地域では、その会社の課長クラスでも名士として、地域が大事にしている姿であった。これを見たとき、

「課長クラスがこれで舞い上がれば、進歩はなくなる。」

と納得してしまった。私の居住していたのは、東京ではないがそこそこの大都市である。そこでは、我が社の幹部でも、他の会社と比べられて、その他大勢の扱いである。そこでは、課長クラスも、上を見て学ぶ機会が多い。

「自分が大物と思い込む危険性が、『田舎』にはある」

しかし、この逆もある。

「常識外れの改革は辺境から起こる」

他人の影響を受けない状況だと、自分たちだけで解決しないといけない。そのためには、新しいモノを生み出す。このようにブレークスルーは、情報が途絶えている辺境から起こる可能性が大きい。

 しかし、現在のようにネット社会においては、

「解らないことを質問する」
「前例を探す」

コトはどこでもできるようになっている。

 この状況では、上記の『辺境でのブレークスルー』は難しくなっているのではと思う。

 ただし、密着した人間関係での、ちやほやは残っている。

 そこでは、『田舎者』の悪い面だけが残ってしまうのではと心配する。

 なお、私が書いた事例は、『XX市』というレベルであることを申し添えておく。XX町やXX村だけの現象ではない。XX市の幹部でも、十分思い上がる可能性はある。

2019年7月27日 (土)

ネット活用の怖さについて

 先日から書いている、地域活性化の失敗可能性について、ネットの怖さについて、もう少し議論をしたい。今回は、ネットのつながりは諸刃の剣になるという側面である。

 これは、ネット上での募集などが比較的容易にできるという、便利さがあるが、その裏にある大きなモノを理解しないと、大やけどをするという話である。ネットで、多くの作品や意見が募集できる。これはとても便利なことだが、応じた人がまたネットの上でつながっていると言うことを、見落としてはいけない。

 従来の顔が見えるつながりなら、その人の交友関係や背景もある程度見えている。しかしネットの上でのつながりは、どこまで広がっているか判らない。一人の応募者の後ろには、とんでもない大物の『友達』がいるかもしれない。この大物は、学者や政治家、高級官僚などだけでなく、将来起業をする可能性のある人間も含んでいる。

 このような、交流関係の広さを考えると、ネット上での仕事というモノは、きちんと約束を守ることが、従来の対面社会よりも厳しく求められるだろう。

 「あの町の行政の募集に応募したが、結局約束は守られなかった。」

このような情報が、一度ネット上に出たとき、そのような町に来て、起業することを考える人がどれほどいるだろう。

 まさしくデジタルタトゥーになる。

 

2019年7月26日 (金)

地域おこしの政策を考えるために 失敗への道

 昨日書いた、政策を考えるための大局観の続きで、もう少し各論で議論していきたい。

 今回は、安易な発想による地域おこしの危険性について議論してみる。まず従来から、現在は何が変化したか?ここを押さえる必要がある。まずIT技術、特にネットワーク化の効果を考える必要がある。これには二つの面がある。一つは、余所の成功事例を簡単に見ることができることである。もう一つは、ネットを使った公募による大きな可能性である。

 しかし、ここに大きな落とし穴ある。まず第一のネット上の成功事例検索だが、これは成功結果しか見えないことが多い。ここに落とし穴がある。先日もMMTについて書いたが、一つの成功事例には多くの物事が絡み合っている。特に、現場での作業で苦労した人がいることを、忘れてはならない。多くの利害関係者の間を調整し、皆に協力させる。このような泥臭い仕事は、ネット上の話や、昔某局であった「~~X」という形では伝わってこない。この苦労を見ずに、よその成功例だけをほしがると、とんでもない失敗になる。

 次に、もう一つ、IT技術による、ハードル下がりの問題に関しても、しっかりした検討が必要である。確かに現在のネット環境では、公開して資源を募集することは比較的容易にできるようになっている。例えば,「XX文学賞」などを起こす場合でも、ネット上で募集して、投稿してもらい更に、読者の投票をしてもらう仕組みなどは、比較的簡単にできるようになっている。従来の郵送募集で、事務強が読み込み、審査員にお伺いを立てる。このような事務処理が簡略化される様に見える。

 さて、このような、『ネット上での文学賞』を考えるときに,本当に考えないといけないことは何だろう。

 まず思いつくのは、新技術であるIT関連の『お勉強』である。この面に関しては、真面目な官僚が勉強したり、技術的に実績のある会社が支援したりしてくれるだろう。

 しかし、本当に必要なモノがわかっているだろうか?私の考える、本当に考えるべきは、

「ネット上の関係者の反応に関する理解」

である。「ネット上の社会学」とでも言うべきかもしれない。例えば『イイネ』が、偏る可能性をどう考えるか?組織票があるかどう考える?その後も、人気投票だけで決めるのか、『有識者』の意見を入れるのか、このよう点がきちんと議論されていないといけない。

 単に、技術的な可能性だけで「ホイホイ」と軽く乗るようでは失敗すると思う。

 続編です。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-484fe8.html

2019年7月25日 (木)

政策を考えるための大局観

 今回の参議院選挙も終わった。そこで思うことは、

「大局観を論じる政治家が少なくなった。」

という感じである。それどころか、まともな政策論議すらできていない。

 しかしこの問題は、地方の行政に関しては、もっと重傷になっているように思う。地方自治体の場合には、

「議会と行政のどちらが政策を考える?」

という問題に対して、どうも満足がいく答えが出てこない。

 議会に立候補した人でも

「行政に申し入れてXXができるようになった」

という言い方が多く、議員は陳情機関となっている。

 一方、行政の若手・中堅と話をしても、決まったことを実行してはくれるが、将来構想を描く、あるべき姿を議論するという感じには見えない。もっともこれは、私のような下々の人間には見せないで、もっと偉い人の間で決まっているのかもしれない。

 さて、このような偉い人を、どのように選んでいるのだろう?この点も見えないモノがある。「XXという権威」で選ぶらしいが、そこが曖昧なことがある。

「安物買いの銭失い」

という言葉があるが、コンサル料などをきちんと払っているのか?予算化しているのか?そのような面も見えない感じがする。

 続編があります。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-c7cdc4.html

2019年7月24日 (水)

MMTという理論化で見えなくなったモノ

 現在の日本の財政に関しては、通常の経済学の常識を越えている。財政赤字がここまで膨らむと、今まで多くの国が、経済的に破綻していた。

 そこで、二歩の現状を説明すると言うことで、「MMT=現代貨幣理論」である。

通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる貨幣を自在に創出できるため、「財政赤字で国は破綻しない」と説く。主要国は巨額の債務を抱えるがインフラや医療保険などに財政資金をさらに投じるべきとの考えにつながる。

この理論を説く人の多くは、日本の赤字国債状況を実例として説明している。

 しかし、この理論には色々な反論がある。

 私も直感的に感じるのは、

「国としての信用を失えば、インフレで破綻する」
「諸外国から国債の売りを浴びせられれば破綻する」

などの問題がある。

 確かに日本の国債を買っているのは、郵貯などの金融機関が預金の使い道としていることが多く、国債の暴落は考えなくて安全である。このような点を考慮すると、日本の財政赤字の危険性は短期的には少ない。

 さらに言えば、日本の国自体の色々な生産力はある。ギリシャのように、「仕事がない、あっても働かない」という感じの国ではない。

 このような要素を考えると、日本の財政破綻はまだ先だろう。

 そこで、MMTをもう一度見ると、

「日本の現状を過剰に一般化して理論化している」

様に見える。

 このような過剰な一般化がトラブルを起こすことは多い。下手な理論付けの危険性について考えるべきことである。

2019年7月23日 (火)

教育・訓練そして治療の違い

 国語教育について考えるとき、高機能性の発達障害の問題が出てくる。なお、現在は『高機能性発達障害』という言葉は、使われないそうだが、今回は、

『言葉を額面通りにしか理解できない。論理的な範囲の理解力はある。』

という条件を記述するため、あえてこの言葉を使わせてもらった。

 この問題を思いついたきっかけはYahooで見た一つの記事である。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190719-00010001-finders-bus_all&p=1

「発達障害生徒への配慮」としての「文学読解の軽視」?
「ポリコレ以降」の国語教育

つまり、

「ポリティカルコレクトネス的な正義から、
発達障害者が理解できにくい文学作品に関する読解は、
教育内容から排除される。」

という議論である。私は、この議論に関しては踏み込み不足だと思っている。私の意見では、

  1. 発達障害的な状況のある人は、他人の感情を理解できないことがある
  2. 従って文学読解の教育で
    『感動しろ』
    と強制されることは苦痛である

という議論には賛成する。特に、一部の文学青年的な人種には

「感動しない『お前の人間性を疑う』という人格否定的発言すらある」

状況を考えると、安易なる文学教育には危険性を感じる。

 しかしながら、上記の『発達障害的な状況』という表現に注意してほしい。

他人の感情を、理解することが難しいのは、何故か?

この問題にきちんと向き合った、議論が必要だと思う。つまり

  1. 生活環境などの問題で他人と触れることができなかった
     そのような思いやりなど成長させることができなかった
  2. 脳の機能などに障害があり感じる能力が動かない

この二つを切り分けることが必要である。

 さらに、もう一歩踏み込めば、

  1. 成長機会がなかったなら、どのような教育訓練で、成長させることができるか
  2. 脳などの機能障害ならならどのように治療するか
  3. 治療できないななら代替え機能の育成訓練はできるのか

という議論が必要になる。

 私の考えでは、以下のような対症法になると思う。

  1. 人の心への思いやりの必要性を知識付与で教える
  2. 他人がどう感じているか『想像する訓練』を行う
  3. ここで脳機能的に投薬治療が必要なら行う
  4. 他人の感情を感性で掴むことが難しいなら、論理的に推測する訓練を行う
    (自分の脳内に他人のシミュレーション人格を作る)

このような方策を、個々人の事情に合わせて施していくことで、少しは成果が出ると思う。

 なお、他人のシミュレーションを行うためには、『論理的な思考力や読解力』をきちんと身につけることが必要である。独断的な感性より、きちんと推理する力を身につける。この力が役に立つと思う。

 私も貧困家庭の育ちで、子供の頃の友達付き合いがなかったので、他人に対する感性は弱いモノがある。しかしながら、大学時代に研究した人工知能のモデル作成などの力が、他人の行動や感情を推測できるようになった。このような力を育てることで、直感的な感性の弱さを補うことができている。このような事例があることを知っておいてほしい。

2019年7月22日 (月)

文学に人間性の教育を絡める危険性

 この記事は、私個人のルサンチマンが絡んでいるため、偏った見方であることを,あらかじめお断りしておく。(もっとも、このブログが全て偏っているといわれればそれまでだが・・・)

 学校教育において,国語の位置づけは、色々なモノを含んでいる。一番狭い意味なら、

『日本語の利用技術習得』

である。これをもっと限定していくと

『論理的な情報伝達スキル』

『感情面の伝達スキルと感受性の育成』

という部分に分かれるだろう。

 しかし、実際は小学校などでは,教材のなかに

『道徳的な要素』

が絡むことが多い。つまり

『善い行動』

の話を読みましょうという教育である。

 このような,色々な価値観や思惑が入った国語教育について、新学習指導要領では高校での国語を

高校で必修科目の「国語総合」が「現代の国語」と「言語文化」に分割、また選択科目の「現代文A・B」「古典A・B」「国語表現」が、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」に再編成

論理面と文学面に分けている。

 私が問題とするのは、『文学国語』の教育に,人間性の理解を入れていることである。確かに,文学の世界では,色々な人の心に寄り添うことが必要になる。そうして,これらが理解できるような,豊かな人間性を育てるようにという理念は判る。

 しかし、実際問題として,文学に親しむ余裕のある人間は,経済的にも恵まれている人間が多い。そのような人間が、本当に苦しんでいる人間の気持ちがわかるのだろうか?

 実は私は高校生の時、貧困家庭の育ちで、家に電話もない生活であった。そこで,奨学金を受けることは、生活の上でも助けになっていた。大学の特別奨学金に合格したときは,本当にうれしかった。(特別奨学金の一部は返済免除がついている)しかし、文学青年の正義感は

「奨学金で得をするなど邪道だ。そんな根性なら辞退しろ。」

と追求され本当に惨めな気持ちになった。このような,文学的な感性の人の教育を,私は信じることができない。

2019年7月21日 (日)

コミュニケーションの道具として言語について考える

 言語や国語教育について考える時、聴覚障がいのある人への話を考えるようになった。きっかけは、手話の2つの違いである。

 つまり、日本手話と日本語手話の違いである。聴覚などに障害がなく、音声でコミュニケーションができる人の会話を、手話の単語でできるだけ表現したモノが『日本語手話』であり、手話を母語として使いやすい文法で構成したモノが『日本手話』である。

 さて、言語を記号としてみたときに、その言葉の発達に3つの段階がある。

  1. その言葉が直接的な意味を持つ イコン
    「きゃー」という叫び、「熱い!」という自然発生
  2. ある現象から直接出てくる言葉 インデックス
    「これは火傷」という風に過去を表現する
  3. その記号だけで推論できる   シンボル
    「あの煮物中の鍋に触ると火傷する」という風な予測ができる

この3段階を考えると、言語の習得時にまず色々な体験がある。そこで自然発生した言葉がある。あるいは、直接的に条件付けられた言葉がある。上記の例で言うと、叫びから『熱い』という言葉、これがまずできていく。その後に、今残っているモノや、見えているモノから、原因を関連付けるコトを学んでいく。例えば「煙を見れば火がその下にある」と推測する。そうして、最後は言葉だけで、実体験がなくても推測できるようになっていく。ここで、イコンやインデックスのレベルは、母語で表現するのが自然である,つまり『日本手話』で表現できても、『日本語手話』では難しいモノがあるのではと思う。

 このような言語技術の習得が、国語教育の規定にあるのではないか。

 さて、ここで注意しないといけないことは、現在の生活環境などの変化である。上述の例では『火と煙』を取り上げたが、半世紀前なら多くのところで、たき火が行われていた。従って、「火のあるところに煙り」という観察は誰もがしていた。しかし現在は、環境に配慮するし、便利な都市ガスなどもあるので、『煙のない火』が当たり前になっている。

 このような状況で、直接体験と結びつけずに、無理矢理『インデックス的な言語』を習得させることができるのだろうか?一つの解決策は、テレビなどのメディアによる疑似体験である。現在ならITによるゲーム社会もあるだろう。

 さて、ここで聴覚障がい者のはなしに戻ろう。彼(彼女)たちは、直接体験において、感情の発露をどのように習得し、成長させるのだろう。手話を言語と考えるなら、『悲鳴』『感動』を手話で伝えるようになる。このような感情を伝えるときには、日本手話でないと、伝わらないと思う。

 ここまで考えると、一つのアイデアが見えてくる。聴覚障がい者の教育のために、色々な経験のシミュレーションを行う、ゲームを作っていく。その上での会話は、『日本手話』を中心に行っていく。字幕もつけていくことで書き言葉や、日本語手話の習得にも、役立つのではないかと思う。 

2019年7月20日 (土)

信用に関して歴史的に考えてみた

 昨日書いた「切符の話」に関連して、『信用』について、文化比較も含めて議論してみたい。これは、西洋文明や中華文明と、日本の文明の大きな違いだと思う。

 私の主張は、以下の通りである。

「日本の文明は、基礎に法華経などの大乗仏教の思想があり、
『皆が平等』
『お互いが理解できる』
という前提で、
『対話したら理解できる』
という聖徳太子からの伝統がある。」

 一方、

「西洋文明は、侵略者の支配の文明で、奴隷や庶民を押さえるために、
ローマ法で支配するかキリスト教の権威を使って支配した。
そこでは、
『借りたモノは返す』などの道徳面も法律的か宗教的に支配した上で強制した。」

「中華文明では、道徳律は儒教などで教える形にしたが、
儒教を理解できる者を特権階級化した。
支配者の権威も『德』があるからという理由付けを行った。
 なお、支配者の『德』がなくなると、革命が起こると考えた。」

という風に、権力などで押さえつけることで、『借りたモノは返す』という道徳を成立させ、そこで信用を保持していた。

 このように考えると、日本文明では、相互の信頼が西洋文明や中華文明と比べて自然に成り立っていることが判る。このような信頼は、貨幣経済の基礎として重要である。

「欧米で資本主義が成立するためには、プロテスタントの倫理の厳しさが、勤勉を生むまで待つ必要があった。」

というのは、マックス・ヴェーバーの主張だが、日本の場合には、相互の信用による貨幣経済の成熟から、江戸時代の工場制手工業的生産が成立していて、明治に文明開化を成し遂げた。

 このような見方もあるのではないかと思う。

2019年7月19日 (金)

言葉の意味が理解できる条件

 昨日、NHKで「日本人のお名前」を見ていたら、明治の鉄道関連の話題であった。ここで面白いと思ったのは

「切符の語源は江戸時代の米取引にある」

という話である。この話は、色々と深いモノが出てくるので、少し突っ込んでみよう。番組でも取り上げていたが、

「江戸時代の米取引では、現物の米がなくても、それを保証する『切符』で取引ができた。」

ということは、簡単に言っているが、とても深いことである。つまり、

「取引を成立させる約束事や信用のシステムができていた。」

ということである。ここで『信用』と一言で言うが、これを本当に伝えるのにどれほどのモノが必要か、考えた人はどれほどいるだろう。私たちは、人を『信用』することが、ある程度当たり前になっている。さらに、『我が国のお金』を無条件に信用している。これが当たり前と思うことは、世界の歴史や現在の各国の政治状況を、全く見ていないことである。 

 我が国でも、江戸時代の貨幣改鋳に関しては、金の含有量で貨幣価値が変化した事例もあり、信用というモノが、金や銀という、物質の裏付けがない限り、成立しなかった時代もある。

 実質、紙幣が独立で、通用するようになったのは、明治の国家が成立し、国民が国を信頼するようになったからである。しかし、その土台が、江戸時代の商人たちの取引にあったことは、もう一度考えるべきことである。

 ここで、『切符議論』に話を戻すが、切符と言う翻訳自体の持っている、大きな価値をここで考える必要がある。話を広げると、日本語は最先端学問を、そのまま記述できる、世界でも珍しい言語である。これは明治維新の時から、先人が苦労して西洋文明の翻訳を行ったからである。現在の多くの急成長国は、

「英語を学ぶことで最先端学問に触れる」

ことしかできていない。この理由は、

「翻訳を受けるだけの語彙や、その意味を示す体験などがない」

からである。

 単に『文字の並び』を、教えるのではなく、その概念の成立する世界を伝える。これが本当の教育ではないかと思う。

 この話には、記号の意味の話も絡んでくる。パースは記号を以下の3通りに分けている。

  1. イコン:そのモノと直接対応している
    例えば「熱い!」という悲鳴
  2. インデクス:そのモノや現象の痕跡
    例えば「やけどの跡」
  3. シンボル:直接的なつながりがなく体系化した記号
    例えば「これは熱したモノに触れた火傷」

これらの段階に合わせた、言語の教育が必要ではないかと思う。

2019年7月18日 (木)

権力の裏付けについて 歴史の視点

 先ほどの権力の裏付けに関して、歴史的に考えてみた。今までの権力について、根拠を大きく分けると以下のようになる。

  1. 暴力的な圧力で支配
  2. 神などが選んだという権威付け
  3. 支配する実力

これらの条件は、完全に分離することは難しく、複合することが多い。例えば、軍事的な力で、侵略しながら支配していく場合には、力での支配と、略奪成果の分け前と言う形で、忠誠を誓う人間に恩恵を与える。これは、一つの実力になる。アメリカのフロンティ開拓も、ヨーロッパの覇権争いもこの図式に近い。

 また、西欧文明にはキリスト教の影響が大きい。

「神の与えた王権」

は、宗教的な権威付けによる支配である。

 さて、宗教的な支配の一つの特徴は、反論を許さないことである。この特徴を考えると、儒教の支配も、宗教的な側面がある。科挙システムと関連して、儒教による統治は中華文明圏にかなり浸透している。

 ここで注意しないといけないのは、日本は孔子の教えを知識として知っているが、支配原理とはしなかった点である。特に、武家社会は農地の開拓や灌漑など治水による実力の誇示と、戦場での力との両面からの実力主義になっている。自然環境との戦いと、侵略者や犯罪者の処罰などとの戦いが、武士の力になっている。

 一方、朝鮮半島などは、儒教的な支配が続いていた。いや現在も、この影響が続いているのではないかと思う。理由は、韓国などの反日行動である。現在の韓国の成立を、儒教の易姓革命で考えてみよう。

「それまでの、統治者が徳を失った。そこで現在の政治体制になっている。」

これが、易姓革命の原理である。これに当てはめるために、

「(それまでの統治者の)日本が悪い」

と言い続けないといけない。もう少し韓国の状況を言えば、

「自分が日本と戦ったのではない」

というコンプレックスもある。このように考えると、潜在意識の朱子学的正義論で、日本をたたいているから、日韓問題はいつまでもこじれていくと思う。

2019年7月17日 (水)

権力の裏付けは何か?

 先日から書いている話をもう少し別の面から見ると、

「人を従わせる力はどこにあるか?」

という問題が出てくる。この問題は色々なモノが絡んでいる。現在社会では、建前的には

「実力があるから」

という能力主義で選ぶことになっている。、この『実力』というモノをきちんと議論しているだろうか?先日からの議論にあったように、

「情報保有の優位性」

が成立するなら

「知識テスト」

で評価できる。しかし、現在のIT 社会は、

「情報アクセスのハードルを下げた」

ために、知っていると言うことの優位性は失われている。現在本当に必要な力は、

「総合的に検討して現実的な解決策を示す力」

にある。ただし、この力を評価することは難しい。とりあえずは、

「失敗していないという実績」

などで評価するしかない。

 この話を考えていると、今までに

「本当の力の評価ができたのか?」

歴史的に考えるコトで、また新たな発見ができるように思う。

2019年7月16日 (火)

学校制度の弊害

 昨日書いた,総合的な検討能力が育たない理由の一つは,日本の学校教育制度にある。これは多くの教師が、教科書出版会社から供給されている「指導書」に依存していることに、大きな原因がある。つまり

「指導書に書いてあることしか答えられない」

教師が少なからずいる。これをもう少し一般的に言うと

「自分だけが持っている情報で優位を保っている」

状況である。このような状況では、

「本質を考えて質問する生徒」
は困った子であり
「指導書の内容にある表面的なことを聞く子」
はよい子

と選別されていく。

 こうした育ち方なら、本質を考える大切さを知らないし、

「情報を公開した上で、本当に考える力の大切さ」

を理解できなくなってしまう。

 この理由を考えると、明治維新の後、文明開化で西洋文明に追いつくために、情報提供型の教育を行った。そこでの教師の権威は、制度的には教育勅語の裏付けであるが、実質は

「情報保有の格差」

が権威の裏付けになっている。この考え方を改めないと、IT社会の情報あふれに対応することはできなくなっている。深く・広く考えて、現実的な解答を出す力、これに対する尊敬が必要である。

2019年7月15日 (月)

総合的な検討の評価能力

 先日から書いている、大学文明と会社文明の話であるが、「会社文明」というのは少し限定しすぎたかとも思う。「現実社会」という風に言うべきかとも反省している。例えば、キャリア官僚の法律案を検討する話も、総合的な検討のよい一例である。

 このブログでも何回か取り上げたが

霞が関の官僚は、一つの法律を作るときに今までの経緯を、大宝律令まで遡って調べる。

という話がある。これは時間の無駄という人もいるかもしれないが、この問題に関係する人、直接の関係がないが縁のある人を探し出すときに、歴史的に網羅するため、今までの関連法律をすべて観るというのは、大切な作業だと思う。

 「~~時代では~~だった。その理由はXXだから」

という風に、その時の理由が判れば現在はどうすべきかが見えてくる。このような検討の大切さを、若い世代にきちんと伝える。そうして、意味のある作業をさせる。これは逆に心のこもった作業につながると思う。私が昔経験した事例をもう一つあげておく。

電気回路のサーキットブレーカーの動作を遠隔で監視制御するシステムの設計時の話である。

「サーキットブレーカーの動作信号は、オフを有意(つまり1)にしなさい。」

「なぜですか?」

「昔からそうなっている。」

この問答に関して、私が後輩に教えた話は以下の通りである。

「昔は、監視制御装置の回線容量が少なく、情報の絞り込みが必要だった。そこでサーキットブレーカーの動作信号だけを監視していた。その場合に、ショートや漏電で、サーキットブレーカーが自動遮断する事故が、一番大事な情報だった。だから、オフを有意にし重視した。しかし、今なら、回線容量は十分あるので、保護装置の動作情報も送れる。漏電もショートも個別項目で送っているならそれに対して警報を出せばよい。さて、次に大切な情報は、電気が流れているという情報である。うかつに触って感電したりしてはいけない。従って、通電中のオンの状態を重視して有意=1にしなさい。」

このように、今までの経緯と、状況の変化について、考える力が総合力の第一歩だと思う。

 なお、直接的な作用や因果関係だけでなく、縁やお陰様という間接的な関係も考慮していく。このような力の必要性を知ることから、現実的社会での総合的な検討能力育成を始めればよいと思う。

2019年7月14日 (日)

ポスドク人材の活用問題

 先日から書いている、大学に関する問題のうち、かなり重たい問題が、

ポスドク人材の活用問題

である。私はこの問題を深掘りすることで、

引きこもりの問題

についても、一つの切り口が見えてくると思っている。私の考えでは、ポスドク人材活用の一つの道は、一般企業での仕事である。しかしながら、ここで発生する問題は、

学校文明の限界

である。学校文明と企業文明の違いは、以下の問答で分かる。

<学校文明>

 「君は分かっていない」<=知識不足か論理展開の甘さ

<企業文明>

 「君はわかっていない」<=総合的な視野に欠ける、今までの蓄積を知らない

つまり、決められた範囲での厳密な理論を重視する。その中での知識の優位を重視する。これが学校文明である。しかし、企業では現実的なモノが相手であり、総合的な検討が必要になる。

 この違いを理解し、お互いにレスペクトする。これがないと、文明の違いを乗り越えることができない。

 特に、学校文明では、小さくても理想的な社会で議論することが多い。これは総合的な大量情報の世界で、なんとか妥協点を見いだす、実務者の能力に対して、尊敬を抱かなくなる可能性が多い。これが一つの問題点だと思う。

 もう一つ学校文明、特に学会文明には、

「議論で論破」

という風土がある。このような好戦的な態度も、企業文明との間で衝突が起こる。

 このような文明の違いを考えて、考え方を変えていくことが、企業文明へのソフトランディングにつながると思う。

2019年7月13日 (土)

在野の研究者の育て方と居場所

 先日書いた大学に関する問題の、一つ目の深掘りを行っていきたい。

 今回議論したいことは

在野の研究者

の位置づけや育て方などに関する議論である。つまり、「アカポス」にこだわらずに、研究に携われるかという議論である。

 この一つの事例は、天文学などの分野である。アマチュアの研究者の貢献が、広く認められる仕組みがある。確かに「星の発見」などの客観的で確認しやすい分野だから成立する話もあるが、一つの良好事例である。

 しかし、一般的な学問分野で、在野の研究者に関する議論については、もう少し厳格な議論も必要である。これは、学問の方法論に関する問題である。論証の出発点をどこに置くか、そこからどのような証拠で推論したか、その証拠の評価はどのように行ったか、また客観的な反論についても考慮したか。これらの科学的態度を理解し、実践していることが、在野の研究者の必要条件である。もう少し厳しく言えば、

「学問の最低限の『お作法』を身につけること」

がない限り、研究者としては相手にされない。このような作法について教える機会や場が必要である。

 次に、成果を発表したり評価をする場も必要である。これは学会がそのような場を提供すべきかもしれないが、現状の学会が限られたポジションの奪い合いの戦場的な面もあり、もう少し気楽な舞台があってもよいのではと思う。現在のネット社会の上で、オープンに議論しながら評価し育てる環境もあってよいと思う。

「ポジションは求めないが、正当な評価がほしい。」

という立場の人はこれで救われると思う。

 さて、もう一つ踏み込むと、日本の文明の特殊性が絡んでくる。つまり、輸入文明の特性である

「情報保有の優位性」

という問題である。つまり、

「大学などの研究機関でしか触れることのできない情報の力」

による差別化の問題である。この問題は、少なくとも理系では、ネット化して現状では崩れている。私も、計算量の理論に関して新しい成果は、すべてネット上から拾ってきた。ある程度の英語力があれば、かなりのモノが手に入る。さらに日本の研究者も、よい資料を公開している。大学の講義録なども手に入ることがあり、これでも色々なことを知ることができる。

 そこまで行くと、

「研究の優位性はどこにあるのか?」

という議論になる、私の答えは

「しっかりとした方法論により多くの情報から、必要なモノを選んで議論する力」

にあると思う。このような公開された世界での競争に耐える。これが真の研究者である。そしてそのような人の優れた面をしっかり理解する、裾野としての『在野の研究者』を増やすことも大事ではないかと思う。既得権的な地位ではなく、皆が納得した上での評価が必要ではないかと思う。

2019年7月12日 (金)

かんぽ生命の話 経験談

 先ほど書いた、かんぽ生命の話について、少し経験談を思い出した。実は、私も身内への「親切なる勧誘」を、お引き取り願った経験があった。その話を書いておく。

 私の身内から、

「特になる話だから保険の名義人になったほしい」

と言う連絡があった。なんとなく、うさんくさい感じ模したので行ってみると、かんぽ生命の会社の人二人が説明に現れた。

 ここで、先ほどの記事の訂正と言うか補足しておくと、二人のうち1名は一応肩書き上は管理職らしかった。従って、契約社員任せというのではなかった。これは訂正しておく。

 さて、会話の進展は以下の通り。

 向こうさんがいろいろと利点を言うので、私一言チクリといった。

「いや~。元いた会社の知り合いが、保険関連の社長をしているので、そちらへの義理もある。」

これで、二人が少し腰が引けたようだ。さらに話が展開して、

「相続の時便利だから」

と言う話が出たので、

「どのみち司法書士のXXさんに頼むから」

と言ったら二人は完全に腰砕けになって、退散してしまった。

 この話、今にして思うと、彼らは

「法律屋が出てくると困る、すねの傷があった。」

のではと思ってしまう。

 教訓、かかりつけ医ではないが、かかりつけの法律屋さんとの付き合いも、時には効果がある。

かんぽ生命保険の不適切販売に関して

 近頃、ニュースで色々と取り上げられている、「かんぽ生命保険の不適切勧誘」に関して、色々と思うところがあるので、忘れないうちに書いておく。

 まず一つ目は、私自身の経験である。ある年の年末、駅前で年賀状を売っている(私より)若い女性との会話である。

私:「寒いのにノルマがあって大変ですね。」

彼女:「私は、契約の人と違い、正規だからノルマはありません。」

この言葉に、

郵便関係の仕事での、非正規雇用者に対する差別と締め付けの構造

を感じるのは私だけであろうか?

 今回の、かんぽ生命に関しても、このような

「非正規労働者を、正社員が追い込むという構図もなかったか?」

検証すべきではないかと思う。一般に、中に入る権力は、トップの意向以上に厳しく下に当たることがある。

 さて、もう一つの問題は、郵便局という構造である.これは、全国にサービスという理念で、できるだけ多く作っている。これは民衆サービスとしてはよい。しかしながら、これを会社組織としてみたときに、管理体系として考えると、

これほど散在する組織に、適切な管理者を配置できるのか?

という問題が見えてくる。

 つまり、現場作業者のノルマ達成への適切な管理ができるかという話である。適切な管理とは、押しつけや恫喝でなく、指導支援や、達成可能性のあるノルマの与え方、ノルマと異なる結果の原因追及と改善などである。

 このような管理者の人材がどれほどあるか、これを考えないといけない。

2019年7月11日 (木)

大学に関する問題について

 私が昔から書きたかった課題の一つは、

「在野の研究者」

の問題である。ただし、この問題の表裏一体の関係として大学の問題がある。

 このように考えていると、昨日以下の記事を見つけた

https://www.newsweekjapan.jp/stories/carrier/2019/06/post-12412.php?t=1

なぜ、日本は<異端>の大学教授を数多く生み出したのか  Newsweek日本版 2019年6月27日(木)19時10分

 この記事で書いていることは、文系の学科に多く当てはまる問題で、理工学系にはあまり当てはまらないと思う。日本の文系学科では、

「大学教授でも、実績が積み重なった後に、本にまとめ、その上で博士号をとる。」

という伝統があった。特に法学などの世界ではこの傾向が大きい。この方式の利点は、

「一つの物事を多面に的に見た、著作にできるほどの人を博士とする」

ということで、博士号の重みを持たせることである。一方、理系の分野では既に

「査読付きの論文発表実績で、博士号を与える。博士号は研究者の出発点である。」

という位置づけで、入り口を厳しく絞る運用がされている。

 さて、ここで日本の大学運営に、大きな転換があったことを見逃してはならない。それは

「大学院重点化」

の動きである。これは、特に文系に影響が大きかった。実は理系は既に、

「修士課程から就職」

という形ができていた。また博士課程の選別の仕組みもある程度定着している。一方、文系はいきなり大学院重点化の影響を受けた。ここで、

「文系でも博士課程修了者の博士号所持者が多くなる」

という、既得権者にとっては、とてもやっかいな状況が生まれている。

 この状況で、大学などのいわゆる「アカデミックポスト」不足問題が発生している。

 私は、この問題の解決には、二つの方策をうまくかみ合わせる必要があると思う。

 一つは、在野の研究者の居場所を作ることである。もう一つは、研究者の文明から、企業の文明への切り替えを支援することである。

 この問題に関して、しばらく議論を深めていきたいと思う。

2019年7月10日 (水)

「監視社会」の考え方

 フーコーが「監獄の誕生」で議論した、パノプティコンという監視システムは、元々はベンサムの「監獄の効率的運用」の発想で生まれたモノである。ベンサム自身は、どちらかというと

「人道的な監獄運営を効率的に行う.そこで受刑者の更生に役立てたい。」

という、善意に満ちた発想であった。しかし、フーコーの発想は、もう少し人に対する悪意が感じられるモノである。

 さて、今回考えてみたいことは、

「監視ということ」

の是非である。今の世の中、防犯カメラがかなり普及している。また、IT技術は色々な情報を提供してくれるが、逆に監視されている側面もある。実際ネット上での閲覧履歴から、色々とおすすめしてくれる「親切な」ページを経験した人は多いだろう。

 さて、このような監視を、

「個人の自由を侵す可能性がある」

と悪意にとって警鐘を鳴らす人がいる。確かに監視社会の危険性はある。

 しかし、もう一つ別の面もある。

「人は評価を気にする生き物である」

という面を考えると、

「見てくれている」

というのはよいことでもある。一つの物事にも、このように両面の見方がある。片方だけで議論するのではなく、多面的な見方で考える。これが現在要求されていることではにかと思う。

2019年7月 9日 (火)

管理職の選び方について一つの危険性

 昨日まで管理職と「ピーターの法則」について色々と書いてきた。この話に、一つ危惧することがある。それは

「知識付与や知識評価だけで判定する」

危険性である。例えば、MBAの取得などが一つの例になる。私も、MBA教材には色々と学ぶことがあったし、手法は色々なところで使わせてもらった。しかしながら、

「MBA資格だけで管理者の適性を決める」

ことには絶対反対である。確かに

「足きり条件としてのMBA資格」

はあるかもしれない。金融機関などとも話す場合に、MBA的なまとめ方が理解できていないと、文書もできない。これができないから、その職に不適当というのありだと思う。

 しかしながらそれが

「十分条件ではない」

ことには注意すべきである。

 私の考える、管理職の条件は

  • 知識面ではMBA手法
  • 広い配慮ができる
  • 人間に対して思いやりがある

という多面的な要素で考えるべきだと思う。特に人間的な要素での、欠陥事項はそれだけで、管理職としては退場になる。

 ただし、この話は企業の管理職だけですむ問題だろうか。今の政治家の状況、特に維新の一部国会議員(過去も含む)を見ると、

「人材選別は難しい」

と思う。〇政経塾などに関しても、

「そこだけかな!」

という感じがしてしまう。

2019年7月 8日 (月)

KIndleで「AI時代に生き残る人材の本を出しました」

 生き残れAI時代を書きました。

管理職の育成に関して経験談

 先日から書いている、ピーターの法則と管理職の問題に関して、私の経験を述べておく。

 まず個々人の状況を考えた管理に関しては、私は『女性部下』との対応で、二つの大きな経験をした。一つは1980年代に、ソフトウエア関連の子会社に出向し、若くして部下を持った経験である。当時、私の部下には女性が多くいた。彼女たちに主担当として仕事をさせたが、そこで壁になったのが当時の労働基準法である。厳しい残業制限のため、実質残業を考慮した工程を組むことは難しかった。一方に当時の空気は、

「24時間戦えますか」

と言う発想であり、私にも

「男の部下に仕事をさせて、もっと成果を出せ」

と圧力がかかった。私個人は、『滅私奉公』は嫌いだったので、仕事の標準化や与え方の工夫で、なんとか対応する方法をとった。

 また、2000年代には、別の仕事に転籍し、シングルマザーの契約社員や、家族持ちのパート社員の部下を持つことになり、彼女たちの状況に配慮した、仕事の与え方を工夫した。

 これらの経験から、

「部下に丸投げせずに、できるだけ仕事と個人のマッチングをはかる管理は可能である」

と思うし、このような管理者の育成もできると思う。ただし、完全な計画通りの仕事の遂行は難しい。トラブルは必ず起こるので、その対応力も併せて育成する必要がある。このような訓練を管理者の予備群に行うことが大切だと思う。

 ただし、私もピーターの法則を絵に描いたような上司の下にいたことが何度かある。

 ・このような上司を、排除し自分が取って代わるべきだったか?
 ・当時の私が課長業務を無事務まったか?

 これを考えると、部下の立場で不満を言うだけの人間にも否定的であるが、その救いをどうすればよいのか、未だ完全な答えは出ていない。

2019年7月 7日 (日)

ピーターの法則が成り立たないようにする

 先日から書いている、ピーターの法則は、現在のように人手不足で厳しい経営環境の世界では、もはや成立させてはいけなくなっている。

 そのために何をすべきか、私の考えでは

「管理職の選別と育成」

から始める必要があると思う。

 ここで注意すべきことは、昭和の高度成長期的な、

「動機付けだけ行えば、必死に働く部下」

と言うモデルは単純には成立しなくなっていることである。このモデルには、もう少しいえば

「出世という単純な動機のみ」
「丸投げすれば仕事が進む」

と考えている管理職が多いことを示している。

 現在必要な管理職は、

「働いている個々人の事情に配慮する」

必要がある。動機付けも、生活面の安定から自分の力を求めてほしいなど、多様な動機付けがある。また家族のことを大切にする人の、勤務時間も配慮しないといけない。

 さて、このような仕事の管理能力について、どのようにすれば育成し、さらに能力者を選別できるであろうか?

 一つの考えは、すべてをロボットで実現するとしたら、どのような配置になるか、きちんと設計する訓練である。人工知能なら、何ができるか、できないかが明確である。これを上手に組み合わせることで、仕事の与え方について知見を得ることができると思う。

 また、もう一つは、本当の障害者の活用を考えることである。

「障害者だから簡単な仕事」

ではなく

「能力を最大限に生かす仕事」

を考えながら、いろいろと組み合わせていく。さらに個人の状況への配慮も必要である。このような配慮ができる力は、本当に仕事を管理する力につながると思う。

2019年7月 6日 (土)

ピーターの法則に対してどのように対策してきたか

 昨日書いた、ピーターの法則の議論をもう少し突っ込んでいきたい。今回は、ピーターの法則の成立条件として、人財選択ができていないという議論と今までの後始末について事例を挙げておきたい。

 まず戦後日本の大企業や高級官僚の世界を考えてみよう。高級官僚の事例が典型的であるが、事務次官が誕生したら、その同期の人間は皆リタイヤして、民間企業に天下る慣習があった。これは、究極の競争的な選抜制度である。さて、ここでリタイヤした同期の人たちの問題がある。これは考えれば考えるほど、

「人材を無駄遣いしている」

としか言い様がない。他の道に進めば、そこで大きな成果を生み出した人財が、一つの方向に向け選別レースに入り、かなりの年になってリタイヤする。

 また、大企業のモデルを考えると、課長や部長で、成果を上げられなかった人間は

「関連会社に出向転籍」

というルートが多い。この場合には二つのパターンがある。一つは、

「千人をコントロールできなくても百人なら大丈夫」

という形で、小規模の会社で活躍の場をえる人である。これは幸せな展開になる。しかしもう一つが問題で

「お荷物押しつけ型」

の転籍出向である。ここでやっかいなことは、親会社の文明の効果があり、文書作成などには、少しは親会社の経験が生きる点である。しかしながら、少ししか生きないので、給与と仕事のミスマッチが生じてくる。ここで親会社の業績がよければ、関連会社へのバラマキもあるから、その会社の人間も我慢していた。しかし現在のような厳しい経営環境で、実務作業者の給与が抑えられていると、不平不満がたまってくる。このような状況で、メンタル面を病む人は少なくない。

 さて、この問題に関して、全く別の発想で、解決した事例がある.(発想というほどの考えがあるかは疑問!)

 一つは、軍隊の事例である。特に、旧日本軍では、「指揮官先行」と先頭に行かせる。陸軍で言えば、小隊長あたりが先頭を切って突撃する。この図式なら、先頭を切った小隊長は、打たれて死ぬ確率は高い。つまり、

「能力のない人間が死に生き残らせない。」

という発想である。

 これは極端かもしれないが、アメリカ的な市場主義で、

「独立させる」

という話には、

「失敗者は消えていく」

という形での淘汰が行われている。

 確かに、アメリカの市場主義には、

「何回か会社を潰してもまたチャレンジする」

という再起の可能性があるので、このような市場的な選別はあると思う。日本の場合には、

「一度失敗したら再起は難しい」

面があり、この部分をどのようにするか、社会の変革として考えるべきだろう。

 私の考えでは、人財の事前選別の仕組みを、もう少し充実させていくべきだと思っている。(続く)

2019年7月 5日 (金)

ピーターの法則について

 組織の現状を皮肉っぽく記述する『ピーターの法則』が、時々話題になる。ピーターの法則とは

  1. 組織において、人間は能力の限界まで出世する
  2. 出世した人間は、自分が無能と証明される段階に止まる
  3. 従って会社の管理職など幹部は、多くは無能な人間が占める
  4. その組織は、まだ無能と証明されていない、出世前の人材で動いている

というもので。1969年に、南カリフォルニア大学のローレンス.J.ピーターにより提唱された。

 この法則について、まだ当てはまる事例が多いので、もう少し検討しておきたい。まず、この法則の成立する条件を明らかにしておく。

  1. 組織において原則として「昇進はあっても降格はない」
  2. 昇進の判定条件が「現状の仕事の成果で決まる」

これが、ピーターの法則の成立条件である。

 さて、この解決策としては。

  1. 降格人事を積極的に行う
  2. 契約的な勤務とし、昇格は新たな契約として、無能なら外す

という発想がある。

 しかし、この問題の根本について、もう一歩踏み込んだ理解ができていない。私の考える、根本的な解決は

「管理職などの各職務の適性を明確に判断する」
つまり
「選別基準の明確化」

である。能力主義というなら、その能力を事前に把握する.もっと言えば

「必要能力は何か明確にする」

ができていないから、

「試行錯誤的に昇格させてみて、失敗したら止めさせる」

という発想になる。

 しかし現在のように、

「人材不足」

が深刻になったとき.このような

「人材の無駄遣い」

は許されない。

 このような観点から、人手不足問題に取り組む必要もあると思う。

2019年7月 4日 (木)

「水」を私たちはどこまで見ているのか?

 先日からの大雨で、色々なところで被害が出ている。まだ継続している事態もあり、被害者のことを網と心が痛む。私は昔仕事で、雨がらみの防災情報システムに関わったこともあり、特に鹿児島地域は、桜島の火山灰がたまった土地で、土石流の危険性が高いと言うことも現地で見てきた。これを考えると、鹿児島市の避難指示も納得する。

 さて、私たちは、このような大雨や渇水がない限り、『水』の供給は当たり前、川はおとなしく流れているモノと思っているのではないだろうか?これも、一つの平和ぼけではないかと思う。

 これも歴史の目で見てみよう。古代のエジプト文明では、『ナイルの氾濫』が、土地を肥沃にし、農作物をもたらした。また、我が国の古代からのb信仰でも、雷様は農作物の神様という教えもある。このように、

「農業用水の供給は、雨が降ることに頼っていた」

時代をきちんと想像できているだろうか?その後、ため池や整備などの灌漑が発達して、多くの農地が開けるようになった。さらに、江戸時代には、山を切り開き、海を埋め立て、川の流れを変えるなどして多くの農地を生み出している。

 こうした歴史的努力の上に、現在の水道事業や、ダム河川の管理ができている。

 しかし、私たちは、このような『水との戦い』を忘れ、現在でも治水・利水のために、多くの人が知恵を絞り、現場作業で働いていることを、忘れているのではないか。いや、

「見えなくなっている」

状態である。

 しかし、社会で生きていくとき、このような仕事を見ないでは、済まされなくなる。この社会が多くの人に支えられていること、これを『水』との付き合いからでも学んでほしい。

 私も昔、水道局のお仕事もしていた。そこで知り合った方が、阪神大震災の時、過労自殺をされた。また会社では、下水道設備復旧のため過剰労働に耐えた多くの人がいた。このような、多くの人が社会のインフラを支えている。これを忘れないでほしい。

2019年7月 3日 (水)

哲学的態度と仕事への対応

 昨日書いた、「貴方はわかっていない」に関連してもう少し議論しておく。今回は、哲学的な態度の仕事への影響である。いわゆる哲学的な思考法は

「すべての前提を排除して考える」

と言うものである。一つの事例は、デカルトの議論法である。すべてを疑って、前提を排除していく姿勢、これが『哲学的姿勢』となっている。

 しかし、この議論法は、今までの経緯などを無視し、『理想的なもの』だけを考えることになることが多い。

 この姿勢が、先日の記事ではないが

「貴方はわかっていない」

型の不満を呼び起こすことになる。真面目に哲学を学んだ人ほど、

「議論の厳密性を重視しし、先入観を排除しようとする。」
つまり
「更地に理想のものを作ろうとする。」

が、仕事は

「今までの積み重ねの上に成立する。」

ものであり、

「前提のしがらみの中で、なんとか許容できるものを見いだす働き」

である。特に、哲学を学ぶと、口がたつようになる。学会的文明で、議論で勝つことが正義という人種が育っている。このような人に、

「今までのしがらみの大切さ」

を納得させるのは難しい。このような事態も就職後のトラブルとして考えておきたい。

 なお、デカルトに対抗してヴィーコが『学問の方法』などで、反論している。哲学出身者でも、ヴィーコの議論を知っている人間なら、まだこの話は通るので、『会社文明』にも適応できる可能性が高い。

2019年7月 2日 (火)

6000件の節目を迎えて

 このブログの記事数が、これで6000になる。2006年の1月から書き始めて、14年でこの記事数は一日1件を超えるペースであり、よく書いてきたと思う。また、アクセス数も50万を超えている。平均で一日100アクセスを目標としているが、これはまだ難しい。しかしよく続いたと思う。

 これも読者のおかげです、厚く御礼申し上げます。

さて、これだけ記事がたまってくると、自分でも振り返る材料が出てくる。この間自分でも知識は、社会科学・歴史そして宗教と広がってきている。特に、大乗仏教でも天台の摩訶止観については、大きな気づきがあった。これに関連して、マクルーハンのメディア論学ぶことができた。

 一方、会社生活でもいろいろと変化があり、転籍や契約社員の正社員への登用などを経験した。

 現在は、リタイヤしたので、自由に書けることが増えた。

 今年の目標としては、「在野の研究者」ということに関して、少し考えていきたいと思う。

2019年7月 1日 (月)

「貴方は知っていない」の二つの意味

 色々と論争になったとき、

「貴方は知っていない」

という攻撃を行う人がいる。しかしながら、この内容は、全く別の二つの方向がある。一つは、専門家的な言い方で

「貴方の議論の仕方には、論理的な展開が分かっていない。」
または
「専門的な知識がないから細部の漏れがある」

という意味である。

 一方、もう一つの言い方は、経験豊かと思っている人間の言い方で

「貴方は、今までの経緯を知らない」
「現実を知らない}
などで、これを議論的に言うと
「貴方の議論は、前提条件に漏れがある」
「総合的な視野による検討ができていない」

と言いたいが、議論の言葉にできにくい人間が言う場合が多い。

 この二つの言い方は、それぞれ『学会的文明』と『会社的文明』の違いでもある。なお、ここで『会社的』と言ったが、経験豊かな政治家や官僚などでも同じ立場になる。一つのモノを作り上げる難しさを知った人間は、その時の総合的検討の難しさを知っている。これは、学問的な細部の厳密へのこだわりとは、完全に別のモノである。

 就活において、この切り替えを学ぶことは、その後の生存のためにも重要なことである。

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