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2019年7月22日 (月)

文学に人間性の教育を絡める危険性

 この記事は、私個人のルサンチマンが絡んでいるため、偏った見方であることを,あらかじめお断りしておく。(もっとも、このブログが全て偏っているといわれればそれまでだが・・・)

 学校教育において,国語の位置づけは、色々なモノを含んでいる。一番狭い意味なら、

『日本語の利用技術習得』

である。これをもっと限定していくと

『論理的な情報伝達スキル』

『感情面の伝達スキルと感受性の育成』

という部分に分かれるだろう。

 しかし、実際は小学校などでは,教材のなかに

『道徳的な要素』

が絡むことが多い。つまり

『善い行動』

の話を読みましょうという教育である。

 このような,色々な価値観や思惑が入った国語教育について、新学習指導要領では高校での国語を

高校で必修科目の「国語総合」が「現代の国語」と「言語文化」に分割、また選択科目の「現代文A・B」「古典A・B」「国語表現」が、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」に再編成

論理面と文学面に分けている。

 私が問題とするのは、『文学国語』の教育に,人間性の理解を入れていることである。確かに,文学の世界では,色々な人の心に寄り添うことが必要になる。そうして,これらが理解できるような,豊かな人間性を育てるようにという理念は判る。

 しかし、実際問題として,文学に親しむ余裕のある人間は,経済的にも恵まれている人間が多い。そのような人間が、本当に苦しんでいる人間の気持ちがわかるのだろうか?

 実は私は高校生の時、貧困家庭の育ちで、家に電話もない生活であった。そこで,奨学金を受けることは、生活の上でも助けになっていた。大学の特別奨学金に合格したときは,本当にうれしかった。(特別奨学金の一部は返済免除がついている)しかし、文学青年の正義感は

「奨学金で得をするなど邪道だ。そんな根性なら辞退しろ。」

と追求され本当に惨めな気持ちになった。このような,文学的な感性の人の教育を,私は信じることができない。

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