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2019年8月22日 (木)

「開発独裁」について色々と考えてみた

 私は不勉強のため、「開発独裁」と言う概念を、よく理解していなかった。しかし、このような「独裁的」な行動の有効性は、自分でも色々と経験している。そこで、この問題に関して少し考えてみたい。

 まず、社会制度などが不備な場合や、今日体制の既得権が絡まりながらも矛盾が多すぎるとき、一つの主義主張により反対論を押さえながら、新規体制を推し進めることは、大きな成果を生む場合がある。このような変革期の緊急処置的な「独裁」については、マックス・ヴェーバーも「カリスマの支配」の形態を示している。

 また、アジア諸国の開発独裁の多くは、「共産主義への対抗」という形で生まれた。共産主義自体も、「プロレタリア独裁」と叫んでいるので、

「独裁に対抗するための独裁」

と言う形になっている。

 この様な「独裁」が必要となる原因の一つは、

「理論的知識の過剰な信奉者に対して、明確に表現できない違和感を持った人間」

が多数存在するときだと思う。私も1960年代には、「マルクス主義者のきれいな理論」に言いくるめられたが、違和感がありそれを表現できないもどかしさがあった。一方、実際にソ連や中国の共産主義国の実態を知る人間は、

「あのような政治はいけない」

と感じていた。このような

「上手く表現できないが(説得できないが)実行することはできる」

と言う善意の状況からの「独裁的な政治」があったと思う。

 確かに、私も会社で新規技術を提案しても、受け入れられないとき、強引に自分の権限範囲で独裁的に実行し、形にしてしまった経験がある。このような、

「言葉にならないレベルのモノを実現」

するための独裁は、必要悪かもしれない。

 ただし、独裁の危険性に対する対処も必要である。

「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」

これは、北朝鮮を見ればよくわかる。そのためには、

「開発独裁は有期限処置」

という発想が必要だろう。または、

「限定権力の独裁」

と言う発想もある。つまり、反論を許さない範囲を限定しておく。

 このように考えると、日本の政治は、明治維新でも独裁的要素から、一応議会政治を育てた。また、戦後においても、実質自民党の一党独裁に近い、貧弱野党だったが、自民党内の派閥などで、絶対権力は生まれないようにした。

 これは結構上手い解決策に見える。

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