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2019年8月18日 (日)

昔の「空気」が忘れ去られていく

 終戦の日の関連で、色々と靖国神社に関する報道も出てくる。この問題の一つには、いわゆる「A級戦犯合祀」の問題がある。これに対する議論を見ていて、当時から生きていた人間にとって、少し違和感を感じてしまう。

 私は、靖国神社への参拝はすべきだと思う人間の一人である。しかしながら、「A級戦犯」まで拝むかというと、大分抵抗がある。確かに、「A級戦犯」以外にも、あの戦いにおいて、色々問題のあった人が祭られている。しかし、それでも「戦死者でないA級戦犯」を、靖国神社へと言うのはかなり抵抗があった。

 私が感じた違和感について、山本七平も、意思決定の曖昧さについて書いている。私が思うに、当時の「空気」として、

「なぜ彼らが靖国に?」

と言う違和感があった。

 しかし、時代の流れはこの議論を、両極端へ分けてしまう。片や「靖国神社反対!」でありもう一方は「東京裁判無効」などの動きである。このような強い、イデオロギー的な発言だけが残っていき、その時に生じた違和感や「空気」が忘れ去られていくように思う。これは、橋下徹が

「ふわっとした民意は直ぐ消える」

と言っていたことと関連しているように思う。

 なお、もう一つ空気が消えた話を書いておこう。これは十五年程度の昔の話である。JR西の尼崎脱線事故の時、その直後の報道などでは

「事故列車の運転手の危険な性格」

について、色々と報道があった。しかし、今はこの問題は忘れ去られて、

「JR西の経営体質追求」

と言う、イデオロギー的に強い話が主になっている。歴史に残るのは、どうしてもこのような「強い話」が残り、その時点にあった「ふわっとしたもの」は消えていくのではないかと思う。しかし、これは無視できない。

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