ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

« エリート官僚の人間性育成に関して一つの希望 | トップページ | かんぽ生命の不正勧誘に関して »

2019年8月 3日 (土)

法華義疏を読んだ感想

 先日書いた、聖徳太子の法華経に関して、法華義疏をもう一度読んでみた。確かに、法華経の比喩についてしっかり解説してあるし、法華経の教えの本質をわかりやすく解説してあると思う。

 しかしながら、なんとなく違和感がある。この原因を探っていくと、思わぬところに答えが出てきた。実は、法華義疏を読む前に、何故か昔読んだ、弘法大師の般若心経秘鍵を読みたくなった。弘法大師は、真言の教えに至るまでの、色々な教えについてよくまとめている。そこでは、小乗の教えから、唯識などの権大乗の教え、そして法華一乗の天台の教えがきちんと書いてある。

 そこで見えてきたモノは、小乗仏教の教えには、『不浄観』が重要な意味を持っていると言うことである。具体的に言うと、当時なら放置された死体を見ることも多かったであろう。その死体も腐っていく姿。白骨になった姿と色々なモノを見る。これを見ながら、

「自分の欲望のはかなさを感じる」

コトで、煩悩を押さえて、解脱していく。これが小乗の苦しみから逃れる方法であった。従って、

「不浄・苦・無我・無常」

が正しい見方となっている。

 しかし、大乗仏教である法華経は、皆に仏の性があるので、

「常・楽・我・浄」

を正しいとしている。そのため、法華経を読むと、至る所に『清浄』という言葉が出てくる。この『清浄』へのこだわりが、法華義疏からは、感じ取りにくかった。

 この点については、弘法大師空海はきちんと理解しているように思う。

 さてここで、聖徳大師と弘法大師の違いを見てみよう。大きな違いは、

「弘法大師は修行の人、聖徳大師は学びの人」

である。聖徳大師にとっては、『法華経』そのモノから伝わる本質の理解が重要であった。そこでは、

「皆に仏の力があるから話し合って決めよう」

と我が国の根底を決める大事な思想を見いだした。これは天才のみができることだろう。一方、空海は自分の修行を通じて、昔の修行についても思いやり実践もしただろう。その上で、

「法華経の皆が成仏という教えを感じ取った」

から、きちんと評価できたと思う。このような、正統的な修行と知識のバランス、これが弘法大師空海の強みだろう。

 さて、随において、聖徳大社どう評価されたであろう?私は正直判らない。煬帝が師事した、天台大師は、修行も重視され、不浄観の危険性もよく知ってられた。この教えでは、聖徳大師の「清浄」に対する感性の弱さを拒絶する可能性はある。しかし、法華経の本質である、「皆の物仏性」を理解した面が評価される可能性もある。

 一体どちらだったのだろう?

« エリート官僚の人間性育成に関して一つの希望 | トップページ | かんぽ生命の不正勧誘に関して »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« エリート官僚の人間性育成に関して一つの希望 | トップページ | かんぽ生命の不正勧誘に関して »