ご縁のあった人たち

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2019年10月31日 (木)

現実的な意見集約の一方法 意見を言わせて幹部一任

 先日書いた、現実的な議論の場合には、譲れない制約条件を守りながら、皆の妥協点を図る作業が行われている場合が多い。

 さて、この一つの形として、昔の自民党の議論法がある。皆が色々と意見を言って、最後は「ボスに一任」という形である。この方式は、実は「ティール組織」などで、議論されている「助言システム」の納得の形に似ていると思う。

 この方式の大切なところは、

  1. いわゆる「ボス」の脳内に、あるべき姿に関して、かなりのイメージができている。
  2. 本当に譲れないと言う面がきちんとわかっている。少なくとも、危険などの譲れない問題に対する感性がある、

と言うことである。

 これができていない、他人の意見、特に有識者の意見を、ホッチキスやコピペでの「綴じまとめ」だけしかできない「人在」が、ボスずらしている事例も、残念ながら少なからず存在する。

 しかし、この問題をもう少し考えると。このような

多くの人をまとめて、意見を集約していくスキルの重要性

について私たちは、どれほど認識しているのだろう。もっと言えば、マルクス主義的な観点から

「上位者は下位の人間を搾取し、自分は動かない者だ。」

と教え込まれているのではないかと思う。

 このような、色々な意見を聞きながら、自分のイメージを充実させるスキルの大切さを、もう一度考えるべきだと思う。

2019年10月30日 (水)

現実的な体験に基づく議論は落とし所がある

 先日、あるテレビ番組で、元大阪の市長・知事の橋下徹氏が、教育委員化に関して面白いことを言っていた。

 神戸市の教員いじめ問題や組み体操の負傷続出に関連して

「神戸では、市長が事故が多いから組み体操を止める様に要望したが無視された。
大阪では事故が起きないように止めさせた。」

これに対して、朴教授が
「教育の独立性は重要ではないか」

と指摘したが、橋下氏は
教育の独立の重要性は解っている。大事にしたいが
重大事故などの問題があれば介入する。」

と答えた。このように、

常識外れの事態なら原則を変える

判断ができるのが、現実主義者の強みであると思う。

 原理主義の場合には、0か1かの二分法の発想で、妥協できないことが多い。しかし現実は多様であり、前提条件が色々と変わっている。

 その中で、例えば、「障害が発生したら、教育の独立より介入が必要」というような判断は大切だと思う。

 一般的に、現実主義者は、色々な要求事項や制約の妥協の中で、なんとか落とし所を考えている。このような発想の大切さが現在見直されるべきではないかと思う。 

2019年10月29日 (火)

多数の人間による新たなモノの構築と維持

 前に書いた、「ボスに一任」方式の拡張として、少数メンバーの協力関係による構築と維持という例もある。例えば、コンピューターのオープンソースOSのLinuxに関しては、オープンソースであり、誰でも自由に機能追加できる。しかし、主要部の改版に関しては、最初に造った、リーナス・トーバルズとその側近が押さえているという話であった。このように、全てをオープンの世界で見える、ソフトウエアの世界は特殊なモノかもしれない。

 しかし、複数人が協力して複雑なモノを、統一的な思想で管理する。しかも、色々な付加品が関与する中でも、統一を保つと同時に発展性を維持している仕組みは参考になると思う。

 この仕組みの要点は、

  1. 全体像がきちんと公開されている 
  2. 主要な思想を共有したメンバーがいる
  3. 一般的な人間からの意見などを受け入れる仕組みがある

である。

 現在は、IT技術があるので、シミュレーションなどで全体像を公開し、その思想をブログなどで公開する。また、SNS等で、多様な意見交換の場も提供できる。このようなシステムを使う可能性があると思う。

 もう少し言えば、工業では色々な設計作業を協力して行っている。この作業について、もう少し検討することも一つの切り口かもしれない。ただし、現実の社会は機械のように『作られたモノ』ではない。しかも色々な外部との関わりがある。この違いを見ながら,設計作業からヒントを探す。このようなことも大切だと思う。

 もう一つは、芸術の世界だが、こちらこそ個人プレイで言葉に出しにくい。 

流されない「情に棹さす」方法は?

 昨日の続きで、流されずに「情けに棹さす」方法について、もう少し考えてみた。

 私の考えは、

「情けに感性が深いのはよいことだが、
狭い範囲しか情けをかけられないの困る」

と言う発想である。

 他人に対して、優しくないなら、「知の暴走」となりかねない。人の痛みを感じないといけない。しかし、一部の経験などに振り回されることは、大局的な被害につながる。例えば。

「予防接収の副作用被害の訴えに押されて禁止した。」
その結果
「多数の病死者が出た」

と言うような事態も起こりうる。

 確かに、副作用の被害者への対応は必要だが、その感情に流されて、大局を失なってはいけない。 

 その解決は、広く人を見ることが大切だと思う。特に、現在だけでなく、将来の関係者も考慮する必要がある。

 一方、智慧を巡らして、できるだけ多くの解決案を考えるコトも有効だと思う。

2019年10月28日 (月)

角が立たない『智の働き』とは?

 「智に働けば角が立つ」は、夏目漱石の草枕の冒頭で有名な一節である。しかし、現在の日本社会を見たら

「智が働かないで威張っている」

人が多くいるように思う。

 確かに、知識を振り回して、「角が立つ」人も少なくない。逆に

「とがった人を求める」

と、

「少々のトラブルを起こしてもできる人がほしい」

と言う発想もある。

 しかし、私は

「角が立たない『智の働き』がある」

と考えるようになった。

 それは、

「単なる知識保有ではなく、全体を見渡して生かす智が働いている」
「必要に応じて説明できる」
「皆への気配りも感じる」

智の働きである。

 このような智は、大乗仏教の仏の智慧でもある.

「親の立場で全てを観て、皆が善くなるように考える」

このための『智慧』である。

 漱石の時代は、明治の文明開化で、西洋文明の影響が多きい。そこでは、『新しい知識保有の優位』があって、『知識をひけらかして衝突する』人間が多くいただろう。もう一つ言えば、西洋哲学にかぶれて『プラトンの洞窟の比喩』の呪縛にかかって、

「人間は完全な知恵など持てない」

と居直り、自分の見解だけを強く主張する人間が多かったように思う。

 現在は、もう少し「角の立たない智慧」を使うことを考えるべきだと思う。

2019年10月27日 (日)

金と木の違い

 昔の生活を考えると、「木火土金水」の五行が、大事な意味を持っていると解ってきた。つまり

  1. 木は農耕
  2. 火はそのまま
  3. 土は生きていく大地に加えて治水の堤防など
  4. 金は鉄の道具
  5. 水は農耕にも必要だが水害の恐怖もある

と言う、生活に大事な側面がそろっている。しかも五行相生の

  • 木は火を生む・・燃料だから当然
  • 火は土を生む・・灰が土に帰る、焼き畑農業も関係しているか
  • 土は金を生む・・鉄鉱石が掘り出されると言うことか
  • 金は水を生む・・これは金属への結露という解釈もあるが、井戸や水路を掘る道具としての鉄器でないか
  • 水は木を生む・・農耕に水が働く

は当時の因果関係を善く表している。一方、五行相剋の方はもう少し考えるべきだろう。例えば

 「金は木を剋する」

と言う言葉は、

 「木を削る鉄の道具」

と言う側面であり、加工や制御の一面も表す。その意味では、単純に殺してしまうという感じではなく、

 「上手く使えるように力を働かす」

と考えるべきだろう。「水を土が剋すると」言う話は、水害時の治水のための堤防を見たらよくわかる。

 さて、今回もう一つ議論したいのは、木と金の関係である。上にも書いたように、木は農耕文明であり、金は鉄の加工文明である。この二つの文明には大きな違いがある。

 農耕文明は、肥料などをきちんと行えば、同じところで繰り返し生産ができる。しかし、鉄鉱石は一度採集したら、それで終わりになる。また昔のたたら製鉄は、多くの燃料を必要とし、木を切り開く環境破壊が行われる。つまり、破壊と移動の鉄文明と、定着して作る農耕文明の違いである。

 しかしながら、農耕文明においても、鉄の道具により、土を耕し、水路を掘ることが必要である。鉄の道具が使えることで、土地の開拓も可能になるし、治水も進む。こうし手、両者のバランスが無事保たれるかどうかが、政治の安定につながると思う。

 歴史をこのような目で見ても面白いと思う。

2019年10月26日 (土)

この国の議論では「被害者になった方が勝ち」ではないか

 国会などの、一部野党議員の行動を見ると、国会議員という権力者でありながら、

「自分は弱者である」
「被害者である」

と言っている。この問題は実は昔からあり、山本七平が指摘した

「民を網するなかれ」を知らない議員
(これは、リクルート疑惑の追及のため
企業の幹部を誘導尋問等で問い詰める
国会議員の姿について語った)

が未だにいる。

 この問題の本質は

「被害者の主張には逆らえない」

と言う暗黙の前提があるからである。従って、

「自分がいかに弱者であり、被害があるか」

と弱くなった方が勝ちという議論形式になっている。これを、交流分析では、「義足の付け合いゲーム」と呼んでいる。

 しかし、この形の議論には、重大な危険性がある。一例を挙げれば

「一人が、予防接種による副作用の被害を訴える」
これで
「予防接種が禁止になる」
その結果
「将来多くの人が病気で死ぬ」
(死人に口なしでその被害は届かない)

と言う物語が示す世界になっている。特に将来的に発生する被害についてより、目先の被害者の声が通ることが多くなってしまう。

 この問題を考えるとき、議論の形式について見直すとわかるものがある。つまり、

「被害を訴えるのは子供の立場」
(それを受け入れ対策を考える親が必要)

が現状に近い。しかし建前として

「議論は一人前の成人の間で行われる」

となっている。確かに、国会議員が「子供的主張をしている」というのは寂しいが、これが現実だと思う。しかし、国連ですら、環境問題に関して、どこやらの高校生の「一方的主張」が取り上げられる世界である。

 もう少し議論の形について、検討すべきではないかと思う。私の考えでは、議論参加者に対して、以下のランク分けが必要だと思う。

  1. 議論で問題になっている全貌を知る親の立場
  2. 自分の意見を持ち、他人の意見も理解し尊重する成人の立場
  3. 全体像も持たず自分の利害を主張する子供の立場

この3段階をきちんと区別し、意見を言う機会は平等に、議論は成人以上で、そして決定は親の立場で行う。(内容を見て問題点の指摘は誰もができる)という風な仕組みが必要だと思う。

 また教育として、このような段階を経て成長する様に、教えていくことも大事だと思う。せめて、事実と意見の分離や、抽象の度合いの評価など、議論の基本をきちんと教えて、成人のレベルまで持ち込む教育が欲しい。

2019年10月25日 (金)

権力の使い方

 日本の歴史を見ると,権力の変化は、西洋の革命とも違うし,中国の革命とも違う。まさしく山本七平が言った「日本的革命」と言うべきだろう。ただし、ここで日本的革命と言うのは、以下の3例である。

  1. 大化の改新
  2. 承久の乱の後の北条泰時の政治
  3. 明治維新

ただし、「革命」という言葉に含まれる、

「虐げられたモノが権力を奪取」

というニュアンスからすると,上記はどれも怪しくなる。1.3.はどちらも,

「外部の新制度の導入に関して反対勢力排除」

であり、2.に至っては

「実効支配している武家政権に対して旧勢力の反抗失敗」

となる。確かに,その後の法制度の整備などによる体制変革や,権力体制の変化はあるが、

「権力による搾取と権力の腐敗、それに反抗して行う革命」

と言う図式は成立しない。

 この問題を考えるとき,日本では

「権力を持てば,自分の支配領域を善くすることを考える。」

傾向があると思う。この理由の一つは、

「一所懸命」

と言う言葉が示すように,一つの領地から継続的に収益を得ることが多かったからだと思う。

 このような『正しい権力』の使い方が、我が国の智慧ではないかと思う。

 もっとも,その悪影響として

『弱者になって,相手を糾弾する」

傾向があるのは困ったことである。

2019年10月24日 (木)

日本の歴史を大きく見る 権力の役割

 日本の歴史を大局的に見ると、聖徳太子の時代から平安時代までの天皇の権威の成立、源平の戦いから徳川時代までの武家政権の時代、そして明治維新から大東亜戦争敗戦までの開発独裁期を経て,現在の民主主義社会というまとめになるだろう。

 さて、ここで民衆が権力に求めたことを考えてみた。

 ここで大事なことは、日本という島国の特異性である。大陸国家では、いつでも異民族の侵入という危険性がある。従って、異民族から皆を守るという、防衛要素が大きくなる。そのような状況なら,軍事と言うことに対する優先度は高くなる。一方、島国の日本では、比較的閉じた世界であり、侵略者から守るより内部での争いの対処が重要になる。つまり、軍事より治安維持の警察機能が重要になる。

 このように見ると,聖徳太子の17条憲法の

「和を以て貴しとなす」

と言う「話し合い重視』の姿勢が、より鮮明に解ってくる。武力衝突より,話し合いでの解決が重要になる。そこでもめたときのために,中国の律令制度を輸入して、秩序を保とうとした。しかし、国有の農耕可能土地は少なく、荘園制度で骨抜きにされていく。こうした私有地を守るために武家勢力が起こり、領有権の武力解決などが起こってくる。これに平安貴族社会は対応できなかった。

 そうして承久の乱が起こり、武家の権力が法的なモノを作れるようになった時、御成敗式目が生まれる。これは、争いごとを武家内の権力に従って裁く制度であり、武力衝突を避け,幕府の権威で決めるという制度になっていく。

 その後は戦乱も起こったが,権力者が確立すると,その『権力による裁定には従う』という原則は守られてきた。

 しかしながら、幕末には徳川幕府自体が,黒船来航に足して判断力を失い、殺し合いによる決着になってしまう。これは安政の大獄、桜田門外の変に始まる,天誅の動きである。

 この混乱を収めるため、天皇陛下の絶対的権力と,その運営に対して西洋の法制度を導入した。これが明治維新である。この制度は開発毒性に近いが、立憲君主制度のため、責任があやふやになってしまう。そのため、アジアへの侵略が止められず,結局敗戦となった。

 敗戦後は、『マッカーサー司令部の神格化』の危険性はあったが、朝鮮戦争によるマッカーサー解任で、水を差された結果、絶対的な権力が存在しない,民主主義国家への道をなんとか歩んでいる。

 日本の歴史を,権力に対する民衆の要求で見たら,このような図式になると思う。

2019年10月23日 (水)

日本の歴史を大きく見てみた

 昨日の今上陛下の即の儀式を見ていて、思いついたので忘れないうちに書いておく。

 まず一つ目は、

「崇徳院は祟る神様か?」

と言う問題である。私は、『天皇』の権威利用をしたい人たちが作り上げたモノだと思う。理由は、「崇徳上皇の祟り」という話が出たのは、平家の勃興から承久の乱までの、一連の武家政治の発生時期である。これは裏返すと、『天皇の権威』に依存していた、藤原氏などの平安貴族の支配が、制度疲労を起こし被支配者の要求に耐えられなくなっていた時期である。

 このような現実に目をつぶり、『天皇の権威』が落ちたのは、祟りのためと言い訳をしたのが、鎌倉時代の公家たちであり、この解釈が広がっていった。

 さて、次に政治の制度疲労が出てきたのは、幕末の時代である。徳川幕府は、国内の治安を維持するために、かなり上手い制度を作っていた。しかし、ペリーによる開国要求など外圧に弱く、しかも経済的にも制度疲労が起こっていた。

 この時点で、国民の信頼を得る政治、権威による安定を得るために、『絶対権力者としての天皇』を求めたのは、時代の趨勢ではないかと思う。

 このような、絶対的な権威がなければ、明治の維新とその後の安定は成立しなかった。

 しかし、ここで大事なことは、

「なぜ天皇陛下の権威が江戸時代までなかったのか?」

と言う疑問への答えである。そこで、悪役を作り

「崇徳院の祟り」

と言う形で収める。これが国家神道と一体で、多くの人の納得を得たのだと思う。

 さて、明治以降の『開発独裁』的な政治は、大東亜戦争の大敗北でリセットされる。

 その後の皇室のあり方は、上皇陛下が示されたように、

『国民の心のよりどころ』

と言う、自然発生的な『あるべき姿』に落ち着いてきた。

 このように歴史を見てみた。

2019年10月22日 (火)

小学校時代の繰り返し鍛錬の効果

 ここしばらく、天才の話を書いた。しかし世の中は、天才だけで動くモノではない。そこで凡人が、より力を付けるための話を書いてみよう。

 私の経験では、小学校の算数の問題集をたくさん解くことが、その後に役立つことにつながってくると思う。

 まず図形問題である。現在の小学校の状況を、正確に把握していないので、的外れかもしれないが、私の考えでは

「定規とコンパスを使って色々な図形を描く。」

この体験が大切だと思う。定規を使うためには、力の入れ方などスキルが必要である。これは繰り返し練習することで身につく。しかし、自分で図形を描くことには、もう一つ大事な体験がある。それは

抽象化して考える基礎体験

である。例えば、定規とコンパスで『二等辺三角形』を描いても、実は鉛筆の太さや定規のずれなどで、同じ長さとはいえない。また、1辺が5センチの正方形を書いても、色々と誤差ができてくる。しかし先生が採点して○を付けるとき、

「多少のずれは無視して同じとみる」

と言う経験をする。これは、物事を抽象化して考える土台になる。このような経験が薄くて、いきなり幾何学の合同の話や、抽象的な太さがない『線』で考えるから、現実と理論のつなぎができなくなっていく。今の教育では、このような手を動かす体験の意味を考えていないことが多いと思う。

 さて、算数問題のもう一つの重点は、文章題の訓練である。私は、悪名高い鶴亀算などの文章問題を解くことは、問題の意味をきちんと考える訓練として大切だと思う。極端な話、国語の読解力と言っても、算数の文章問題が描く世界を、きちんと理解できればよいと思う。この訓練ができれば、かなりの成績アップが望めるのではないかと思う。

 なお、算数の世界だけで寂しいと思う人は、余裕があれば、図鑑などを買い与えて、色々な絵を見せることもよいと思う。学習漫画もよいかもしれない。このような全体像のイメージを持つことも大事だと思う。

 

2019年10月21日 (月)

天才の育て方について 「蜜蜂と遠雷」から学ぶべきモノ

 ここしばらく書いている、「蜜蜂と遠雷」の映画と書籍を、比べると天才の育て方について、面白いモノが見えてきた。なおここから先は、ネタバレに属するモノがあるのでご了承願う。

 まず、書籍の中での、栄伝亜夜に関しては、とても優しい保護者である奏がいる。彼女自身バイオリン奏者であるが、ヴィオラに転向する意思を示している。主役でないが重要な役ヴィオラ、これが奏の立場を象徴している。このような優しさに包まれて、塵とマサルという二人の天災の影響を受け、亜夜は無事開花していく。ただし、書籍では塵に関する書き込みが深い。

 一方映画では、亜夜は孤独であり、一人で戦っている。それどころか、審査員の嵯峨三枝子が、厳しく崖から突き落とす。

  • 元天才少女としての助言
  • 引き返すなら今が最後のチャンス

この一言は重い。単純に考えれば

「音楽の世界で演奏者として生きていけるのは少数、諦めなさい。」

と言う平凡な助言と思ってしまう。しかし、この映画の天才の扱いからすれば、

「一度、神の音に近づいてしまうと、その音楽に到達できないと言う地獄の苦しみに遭う。
その地獄に落ちる前に踏みとどまるなら今しかない。」

という、「地獄を観ている元天才少女」の重い言葉が聞こえてくる。

 ここまで、追い詰めることで、自らの気づきで突破させる。それには、「ギフトであり劇薬かもしれない」塵がいる。このような厳しい親の働きも、天才の育成には必要かもしれない。

 なお、「蜜蜂と遠雷」には、その周辺をきちんと書いた「祝祭と予感」という本が出ている。こちらを読むと、もっと見通しがよくなる。

2019年10月20日 (日)

「音楽を外に連れ出す」ために必要なモノ

 昨日に続いて,「蜜蜂と遠雷」から感じたモノを書いてみたい。

 この作品のテーマに

「(自然界に満ちあふれている)音楽を外に連れ出す」

と言う考えがある。

 これは、自然の恵みを受けると言う大切なことである。

 しかしながら、人間にとっては、これは大きな負担になることもある。世界は音にあふれている。そのあふれている音に向き合い、その中から『音楽』を見つけ出す。この負担をもう一度考えないといけない。無数の音、その中にある秩序を見いだす。もう少し言えば、無数の音の中から、一部のモノを選び、それを組み合わせて音楽にしていく。音楽に値するモノを、選び引き出す。

 今までのしがらみを捨てて、全てと向き合った上で、自分の感性だけを頼りに、もう一度選ぶべきモノを決める。『決める』というと、理性の働きに聞こえるかもしれないが、全身で反応し『感じる』べきモノだろう。

 この段階の苦しみに向き合う覚悟と力が、創造には必要である。

 しかしながら、毎日このような、全てを受け入れる対応をしていれば疲れてしまう。実際、HSP(高感覚処理感受性)と言う人たちの苦しみについて、色々な議論がある。

 私はこの問題に関しては、大乗仏教の唯識の教えが、解決のヒントになると思う。唯識では

  1. 表面的に出てくる意識(前六識)
  2. 前六識に登るモノを選択するマナ識
  3. 全ての知識体験等が入っているアラヤ識

の存在を考えている。つまり、私たちが意識に登らせ考えているモノは、世界の全てを認めたアラヤ識にある情報を、マナ識で選択した結果と考えている。このマナ識の作用が無意識に行われることで、偏見等の発生があると考えられている。

 しかし、私は『マナ識の選択作用』こそ、人間が楽に生きていくための知恵だと思っている。あまりにも多量の情報に触れるのではなく、必要なモノだけを感じることで、楽に生きていくことができる。

 もう一つ大事なことは、このような『マナ識』の作用は、ある程度コントロールができるのである。私自身、諸般の事情でHSPの傾向があるが、今までの経験や知識を生かして『マナ識』の選択能力を上げる様にしてきた。また逆に、色々と新しい発想が必要になれば、『マナ識』の選択作用を、『眠らせる』ことで、色々な発想を引き出している。

 このような、『マナ識』の存在を意識し、そのコントロールを考えることが、創造と日常生活の両面に役立つと思う。

2019年10月19日 (土)

天才の開花とは 映画版「蜜蜂と遠雷」を見て思ったこと

 先日、劇場公開されている「蜜蜂と遠雷」を見てきた。断っておくが私は、完全音痴なので音楽的なことは、一切解らない。

 しかしながら、この映画は

天才の開花

と言う問題について、色々な諮詢を与えてくれた。なお、以下の内容は、ネタバレ的要素もあることをお断りしておく。

 まず、この映画には、いわゆる恋愛要素は、一部の勝手な思い込み以外は入っていない。主演者たちの間には、同士という感覚があって濃密な心の触れ合いはあるが、恋愛とは別物である。また、競争のための足の引っ張り合いはない。相手のベストがあることが、自分を高めると言うことを知っている。しかも状況によっては、支援することもある。

 一方、指導的立場にある人は、手を差し伸べない。それどころか、厳しく突き放す。例えば、審査員の元天才少女や指揮者、そしてオーケストラの面々である。しかし、彼らも、本当の達成には素直に祝福する。

 映画では、幼なじみというか、子供時代の同門の亜夜とマサルの相互啓発が大きかった。特に、マサルに気づきを与える、亜夜の第2ピアノの場面は原作にないがよかったと思う。その前に、亜夜もマサルに刺激を受け、連弾でそれを完成させていたと思う。

 また、強烈な役である塵は、亜夜を迎える立場でも大切だったと思う。

 最後に原作にあった

「音楽を外に連れ出す」

と言うことはできたのだろうか?最後の場面での亜夜の行動が、それと言うのだろう。

 なお原作は蜜蜂と遠雷 である。

2019年10月18日 (金)

日本語の歴史にお経の影響

 ちくま新書の沖森卓也著:日本語全史 (ちくま新書)を読んだ。

 この本は、日本語の歴史の全貌をまとめた新書と言うことであるが、なかなか素人には読みにくい。ある程度入門的な配慮はあるが読みづらかったのが正直なところである。しかし私が今まで気がつかなかったことを色々と教えてくれた。

 そのうち一番大きかったのは、万葉仮名のルーツに、お経の陀羅尼の部分が影響しているという話である。これは言われてみれば納得するというか気がつかない自分が馬鹿であった。つまり、お経のなかには元々の,インドから伝わった「陀羅尼」つまり「ご真言」の部分がある。この部分は、本来は梵字(サンスクリット)で書くべきであるが、これを漢字の当て字で音だけ拾って表現している。これを知っていると、漢字が全てではなく、音を表す道具として使ってもよいと解る。

 真名、仮名の区別には「真の文字」と「仮の文字」と言う意味があるが,仏教の教えに従えば,お釈迦様の使った「真の文字」は梵字であり、漢字は相対的な位置にしかない。これを考えると、僧侶の間でカタカナが普及したと言うこともよくわかる。

 さて、もう一つの発見は,「五十音」と「いろは歌」の時代背景である。この本の主張では、「五十音」の方が先にできて「いろは歌」は、発音の変化などから見れば後からできたモノだと言っている。これは、今まで信じていたこととは違っている。先入観かもしれないが,「五十音」のような整理された形は、後からできるモノと思い込んでいた。しかしよく考えれば、空海が真言密教を日本に持ち込んだとき、サンスクリット語の概要は持ち込んでいる。そこでの母音子音の知識があれば,日本語の五十音は作れないことはない。

 このように考えると,真言宗の中では,五十音が比較的早く作り出されて,それを「永遠に生きる弘法大師」の力で授かったというのは不思議ではないと思う。いろは歌が、弘法大師の作品というのは,色々と無理があるそうだが、仮名文字を広め,漢文教養を相対化するための権威として、弘法大師を使ったのはあると思う。

 難しい本だが読んだ価値はあったと思う。

2019年10月17日 (木)

総合的に深掘りしないと解決は見えない 神戸市学校問題

 神戸市の小学校教師への「いじめ」問題に関しては、色々と議論が出ている。しかしこの問題を広く見て、しかも掘り下げている議論が,マスメディアなどに見見当たらない。私は、神戸市の隅に住んでいるので、他の人より見える話もあるが、一般的な情報からでも、もう少し掘り下げてみよう。

 まず議論すべきことは、今回の問題教師が、児童に対してもけがをさせているという事実である。このような、傷害に関してきちんと事実解明ができていない体質を議論すべきである。さて、この話をもう少し広げて見よう。数ヶ月前に、神戸市長が

「運動会の組み体操を止めるよう」

と意思表示をしたのに、教育委員会や各学校長は、それを無視している。しかもその結果、数十人の児童生徒にけがを発生させ、骨折事故すら起こっている。

 このように

学校内で起こった傷害事故の原因究明と対策ができていない。

ことが、大きな原因だと思う。

 さて、もう一つは神戸市の「校長の人材選別の基準」である。つまり、

任期の間にトラブルを起こさない。表沙汰にしない!

これが、教育委員会の求める「よい校長」ではないかと思う。

 このような体質は変わるのだろうか。

 少なくとも、大阪の事例を見れば変わる可能性はあると思う。松井市長のツイッターで

「組み体操をしている学校がある。」
とある人が書き込めば、即座に
「止めさせる」

と返した。大阪の体質ならそれが実行されるだろう。松井市長なら

「止めなければ、そいつらのド頭かち割ったる」

と言うだろうということは、多くの市民が思っている。このような行動力のある市長だから、強力なる自民党推薦候補を蹴落として市長になった。神戸市長に、これほどのバイタリティを感じないのが、根本問題かもしれない。

2019年10月16日 (水)

「阪急神戸店」を見て思う 勝てる企業の力

 先日から新しく出発した、阪急神戸店について、勝ち残る百貨店の条件について、少し考えてみた。

 新装の阪急神戸店を、まだゆっくり見たわけではないが、地下一階のスイーツの売り場を見ただけでも、違いは歴然としている。昔。大きなスペースを取っていた「たねや」が、今のところは他の店と同じ、広さとなっている。もっとも、この後のスペース配置改造で、イートインコーナーができるらしい。

 さて、この「たねや」に関しては、色々な教訓があるので、ここで残しておくことは重要だろう。なお、私はこれに関する話を、1990年頃に、そごう神戸店の副店長(水島店長は名前だけ)であった山崎次朗氏から聞いている。

 まず、和菓子の老舗であるたねやが、デパートに出店した最初が、そごう神戸店であった。1985年に、当時老舗の和菓子店がデパートに店を開くなど考えられなかった時代である。当時の、そごうの和菓子担当であった、山崎は何度も近江八幡に通って、口説き落とした。その時の苦労を家族何度も話している。この功績などで、山崎はそごうの取締役副店長まで登った。(その後水島一派の不正とけんかして退職する)

 さて、ここで阪急ならどのように対応しただろう。少なくとも現在の阪急なら、

「老舗に通って出店したいただくことも大事だが、
自分たちで可能性ある店を発掘しろ!」
「ブランドに来てもらうより、ブランドを育てろ!」

と言う発想になるだろう。このようなブランドを育てる力が、勝ち残れる強みでもある。

 もう一つの教訓は、

「今までの経緯で、遠慮したり忖度していた部分を、経営者の変化と言うことでリセットできる」

効果である。このような潮時を見た行動が、生き残れる経営というモノではと思う。 

2019年10月15日 (火)

「呪い」の効果

 昨日書いた「ティール組織」の話と、クライマックスシリーズの決着で、思い出した話があるので書いておく。

 関西人なら、多くの人間が知っている、「カーネル・サンダースの呪い」がある。

 これは、

1985年昭和60年)10月16日に、日本プロ野球球団、阪神タイガースの21年ぶりのセントラル・リーグ優勝に狂喜した阪神ファンが、カーネル・サンダースの像を道頓堀に投げ入れた因果で、翌年以降の同球団の成績が低迷したとされる都市伝説の一つである

と言う話で亜あるが、この話の良い面と悪い面を考えてみよう。

まず良い面であるが、

この伝説の効果で、阪神のフアンのお行儀が良くなった

と言う面がある。少なくとも、器物の破壊が少なくなった効果がある。

 このような、「呪い」という感情に訴えて、道徳的な事項を支配するのは、組織論等で言えば、

「原始的なレベル」

と言うべきだろうが、効果があることも否定できない。感情に訴える、「伝説の力」は経営学などでも、もう少し考えるべきであろう。

 さて、この話の悪い面を考えてみよう。このような「呪い」の悪影響は

呪いを理由に本質的問題から目を背ける

点にある。

 阪神タイガースが優勝から遠ざかった、その本質は

「弱いから」

である。ここでもう一歩踏み込んでみよう。今日のスポーツ欄で具体例が出ていた。

大分昔に甲子園をわかせたF投手が、巨人相手の2軍戦で好投した!

である。参考までに、彼と同時期にプロ入りしたO選手は、日本ハムで健全に成長し、大リーグで大活躍している。

 この育成力の違いが本質的な問題である。なお、これに関しては、阪神ファンやマスメディアも共犯である。

阪神タイガースは、時々勝っても皆が喜んでくれる
阪神の選手と言うだけでチヤホヤされる
(2軍で好投してもニュースになる!)

と言う甘やかせの構図がある。

 このような、甘い発想に対し、反省せずに、

「呪いだー!」

と失敗の言い訳をする。このような根性ではとても勝ち残ることはできないだろう。

2019年10月14日 (月)

「ティール組織」について

 日経BP社のHP等で,色々と気になる記事があったので,英治出版の

「ティール組織」

を読んだ。

 確かに,色々と考えるべきモノがあり,仕事の上でのヒントもあると思う。しかし、何か違和感も覚えた。この理由を考えてみると,色々なモノが見えてきたので書いておく。

 まず、著者は『進化』という言葉を使っている。つまり『管理』と称している機能、スタッフ機能がなく,それぞれの自主性に任せ、関係者が助言して育てていくシステムを,従来のシステムより『進化』した『ティール組織』と称している。もう少し言えば,『ティール組織』でないと、『進化』できないという風に読み取れる。私はこの意見に違和感を感じた。

 その理由を考えてみると、私自身の昔の経験があると思う。1980年頃、私が30になるかならないとき、ソフトウエアの専業の子会社設立に当たり出向して、一つのグループを預かったことがる。そこでは管理者としてグループを運営した。しかしながら、当時の管理についての考え方は現在のように完成されていない。そこで私が取った運営方法は以下のようなモノである。

仕事の状況の全体像は皆で共有する
お互いの仕事への助言は行う
リーダーの私の技術力は皆が認めているので私の判断には皆が従う
(ただしそれまでに皆が言いたいことは言う)
他部門より利益が大きいので上司およびよそから文句は付けさせない
リーダー不在時の代行順位は明確で、対外折衝も含めて代行者が対応する

という感じで、総合的なビジョンを共有したフラットな組織である。これは、『ティール組織』と同じではないかと思う。別に、IT技術があるがなかろうが、このような組織運営は、できると思う。

 更に言えば、ベンチャー企業などの立ち上げ時にも、同様に皆が情報と責任を共有した運営となっていることが多い。また、大規模化に関しても、『小集団活動』『QCサークル活動』などの現場単位での情報共有と参加意識から責任の分担が行われている。

 一方、従来型の管理でも、トヨタの事例のように

進化する官僚制

という進化・適応が行われている場合もある。

 このように考えると、この本の内容を丸呑みして、信じ込むことは危険だと思う。

 ただし、この本には色々なヒントがあることも確かである。

 私が面白いと思ったのは、『組織のOS』という発想である。これは私は『組織のスキル』として前に書いたモノに近いと思う。例えば以下のブログから一連を参考にしてほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-33353c.html

 また、もう一つ大事なことは、管理者の交代による組織の崩壊である。これは私の反省でもある。情報共有よりは、情報独占で威張りたがる管理者が多い現状は、やはり知っておくべきだった。そうして部下を守る手段を考えなかった。これは私の背負う十字架でもある。

2019年10月13日 (日)

台風被害の全体像を示して

 今回の台風はまだ東北から北海道に通過中なので、まとめることはできないが、色々な被害が出ているのは確かである。ただマスメディアの報道では、千曲川の決壊状況など激しい部分の絵か、死者何人という風なまとまった数値等が主になっている。SNSでの情報も,個別の状況である。SNSについては、その性格からして、個別の事象の発信となるのは当然である。

 一方、マスメディアに関しては、目立つことの他に、全体像を示すことも重要だと思う。

 特に、今回の台風では、水害の話が大きく取り上げられている。確かに水害の被害は大きい、しかしながら風力も無視できないモノがあったので、風害もある程度はあると思う。例えば、前回の台風で被害を受けた千葉県など、家屋の被害はどうなっているのか?このような情報も、必要ではないかと思う。ビニールシートが飛んだだけで、屋根がなくなったに等しい状況の家もあると思う。

 このように、被害の状況の全体像をきちんと皆に伝える。その上で何が必要か、優先度を付けて対応する。

 部分的な目立つことだけに集中するのでは、置き去りにされた人が出ると思う。

 

2019年10月12日 (土)

今回の台風の被害対策について防衛大臣へのお願い

 今回の台風は、首都圏直撃で大きな被害が想定されている。更に前の台風で被害が残っている千葉県も再度被害に遭う危険性が高い。

 このような、大規模災害時には全体状況の把握が重要である。前回の台風の時には、台風通過直後は東電の停電状況ばかりがマスメディアで報じられていた。確かに停電はインフラの命綱の一つである。しかし道路の被害や、多くの家屋被害など災害として対策すべきことは大きい。

 そこで今回の台風通過後には、以下のことを検討・対応いただければと思う。

  1. 台風通過後できるだけ早期に、ヘリなどの手段で航空写真を撮り被害の全貌を把握する
  2. 上記情報を政府情報として速やかに公開する(防衛省のHPなど)
  3. その写真に対して、対処必要なことの書き込みを公開していく
  4. 対処の進捗も書き込んでいく

このような被害の全体状況と、対処の状況を、航空写真という舞台で見せることで、災害状況とその対策が解ってくると思う。

 今回の提案の主旨は、

自衛隊が全体像を把握し、政府の指示の元主体的に災害復旧に当たる

ことにある。前の台風の時のように、自治体の要請で動くというなら、情報収集力なしの自治体からは、何も出てこない。

 政治的な力のある、河野太郎防衛大臣なら色々な批判も突破して実現してくれると期待したい。

 

2019年10月11日 (金)

崇徳院はなぜ怨霊とされたのか?

 ここしばらく、宗教に関して書いているが、昨日一つ思いついた。それは、

「崇徳院はなぜ怨霊とされたのか?」

と言う謎の答えである。私の答えは

「天皇制の権威を守るため」

である。もう少し解説すると、まず崇徳上皇の時代は、平安末期で藤原氏の支配力が落ち、武家勢力の台頭期であった。ここで、それまでの貴族たちは、自分たちの治世能力が限界に達している、制度崩壊している事実が見えなかった。そこで今までの制度が覆り

「皇を取って民とし民を皇となさん」

と、崇徳院が呪ったことにして、貴族制度の没落を理由づけた。武家政権の支配者としての実力は、その後承久の乱を経て、御成敗式目による、新たな法治制度が整うことで皆が認めるようになる。その後建武の新政など少しは揺り戻しがあったが、徳川幕府の終わりまで、武家の支配が続いた。

 さて、徳川の支配も黒船による開国騒動と、それまでの経済的な矛盾の積み重なりで、制度的に崩壊していく。その状況では、もう一度求心力としての、天皇制の力が必要となった。

 そこで、今まで天皇陛下の権威がなかった原因を、皆が納得できるように説明しないといけない。そこで

「崇徳院のたたり」

を主張することで、天皇の神格化を傷つけずに、平家の支配から徳川の支配までの、武家の支配を説明知ることができる。

 これが、崇徳院の怨霊伝説を強化したのではないかと思う。

 私個人としては、崇徳院は和歌の神様として、静かに祭られるのが良いのではと思う。

 なお、怨霊信仰は、古代の法制度が不十分な状況では、

「人を殺してはいけない」

と言う道徳律の裏付けとしても有効だった。しかし、武家政権の力の裏付けにある法の支配では、怨霊信仰の存在価値は薄まったと思っている。

2019年10月10日 (木)

私の考える「信仰」のあり方

 昨日は、「国家神道」のように、上からの強制だけで、自発的な信者がいないのは「宗教」といえないという議論をした。

 しかし、否定だけ書くのは,このブログの趣旨に反するので、今日は

 私が考える信仰

について、書いてみたい。なお、このブログの表題について、もう少しで

「正しい信仰」

と書いてしまいそうになった。宗教がらみで,「正しい」という発言は,排他的な発想につながり,宗教戦争の元になる。そこで、あくまで

「私の考え」

と言うレベルで抑える。

 現在私は,大乗仏教を信じている。例えば法華経の説く

  1. 諸法の実相は見えているモノ、潜在的な力、因縁果報などが複雑に絡む
  2. 仏の智慧は誰もが開くことができる
  3. 仏は全世界を我がモノとし、衆生は全て我が子と思う
  4. 仏は永遠の命を持って今も私たちを見守っている

を信じている。もう一つ大事なことは,信仰の対象を人格化して考えることである。これは、密教的な感覚でもあるが、

 皆を救う仏の姿を具体的なイメージで想像する

ことを大事なことと思っている。仏は永遠の命を持っているのだから、現在も生きている。その姿を想像して具体化していく。それに自分も近づける。

 仏は全ての衆生のために考える。その時、全てというのは,私たちの考えより広いものがある。身近な人間だけでなく全世界の人間、現在生きている人だけでなく、未来の私たちの子孫まで考える。このように皆という範囲を広げて

最大多数の最大幸福

を実現するのが,仏の智慧だと思う。

 さて、神社などにいらっしゃる神様とのお付き合いは、どうしたらよいだろう。私は仏様と同じように、神話などから解るお力が、現在に合わせて私たちに働いている,具体的なお姿を想像することが大事だと思う。ただし、服装などは昔の姿の方が威厳があって善いようにも思う。

 このような形の信仰があっても善いのではと思う。

2019年10月 9日 (水)

国家神道は宗教なのだろうか?

 現在の日本社会では、政治が特定の宗教に支援することは禁止されている。その原因を考えると、一つは明治以降の『国家神道』の悪影響がある。

 しかし、ここで

「『国家神道』なるモノが、本当に宗教だろうか?」

と言う議論をきちんと行わないと、従来からある『神道』に誤解を持ってしまうのではないかと思う。

 まず基本であるが、『国家神道』は、明治維新の後に、天皇中心の国家を作るとき、『天皇の絶対的権力の根拠』として、維新および明治の文明開化の推進者達が、作り上げたモノである。そのため、従来の『神道』が持っていた、神仏習合の教えや、修験道との一体化などの、宗教的に大事なモノが失われている。更に言えば、神社の合祀と言うことで、本来の御在所から移された神様もいらっしゃる。また、神官の一部には『旧士族の失業対策』と言う形での採用もあった。そのため、拝礼の形式なども『官製方式』で標準化し、『できる人を増やす』ようになってきた。

 次に、信仰としてのあり方だが、信者の感じ方より、政府の考え方の方が優先されている。つまり、

「教育勅語で押しつけられた信仰」

であった。

 このような、『教え』を、私たちは素直に信仰と納得するだろうか?

 確かに、西洋の歴史を見れば、キリスト教会の支配は、権力と一体であった時期もある。また、儒教を宗教と言えるかは異論もあるが、科挙制度に組み込まれて支配者の都合のよい教えを伝えている。

 少なくとも現在では、宗教として成立するためには、信者の自発的な信仰が必要ではないかと思う。

 このように考えると、明治からの『国家神道』は宗教として考えるべきではないと思う。逆に、日本古来の神様を大事にする、まともな『神道』は、住民が支える以上は大事にすべきだと思う。

2019年10月 8日 (火)

「弱者」の意見を正しく生かすためには

 先日も書いたが、日本の議論は『弱者』の立場になって、強く主張するモノの意見が通ることが多い。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-3aea77.html

これは、戦後の体制から継続してきたモノである。ただし、三浦瑠麗氏が指摘しているように、従来は左翼系の論者が『弱者』の立場をとっていたが、現在はネット上の多くの人が『弱者』の立場で声を上げている。

 この話にもう一つの記事が見つかった。

 https://www.jprime.jp/articles/amp/15508

この記事では、原子力村などを事例に、『専門家にいじめられる一般人』という図式を描いている。

 私は、昔のルサンチマンがあるので、公平な議論ができない面があるが、昔の『左翼の弱者ぶった行動』には好意を持てない。

 そこで彼らの行動をもう少し図式化すると、

「自分たちの考える上での『人間』の権利を守る」
ここで大事なことは
「考慮外の人間には『人権』はない」

と言う側面があることである。例えば、1990年代の社会党の一部には、『朝鮮総連の人権』は重要だったが、『拉致被害者』やその支援者の人権は考慮しなかった。

 これは原因をもう少し考えると、

「学校教育への適合が進み、
教科書的なモノから外れたモノは考慮しない」

傾向があると思う。

 私はこの問題は、現在も大きく影響していると思うが、一つ大きな救いがある。それは

当事者研究の力

である。

 障害者などの、本当の弱者が、自分の言葉で発信する。その研究は、従来の学問的手法と比べれば、まだ成長していないかもしれない。しかし、このような

『主観的で定性的』

 であっても、本当の声を発信することが、多様性を認めるようになると思う。

 この話については、下記の弊ブログも見てほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-2b7ccf.html

 

2019年10月 7日 (月)

高浜町の『顔役』問題について

 関電の幹部に、高浜町の元助役からの『多額の金品』受け渡し問題に関しては、まだまだ見えていない問題が多すぎるので、ここで議論するのは少し早いような気がする。

 しかしながら、一つ大きな問題が根底にあると思うので、ここで指摘しておく。それは、

「人間関係の泥臭い部分を丸投げしている」
「エリートの責任回避」

である。

 このようにまとめてみると、同じ図式が、労働組合問題などでも見えてくる。神戸市の組合闇専従問題や、JR系の労働組合の問題など、いくつかの問題の共通点は、

「色々と文句のある人間たちを抑える力のあるところへの依存」

と言うことである。

 これは、教科書通りの理論で展開しても、現実は色々と齟齬がある。そのような個別の問題は、現場が対応するという、昔の『エリート』の発想が、逃げの発想になってしまった。そこで実権を握られたため、動きがつかなくなったのが現実だろう。

 さて、この問題に対しては、大阪での政治が、正しい対策を実施ている。橋下知事の時代に、当時の府議会の、松井・浅田などの議員が、人間的な問題をいちいち解決して、維新の会を立ち上げた。その後も、色々な問題を一つ一つ自分たちで解決していった。この行動が解決策だと思う。

 従って、大阪の松井市長は、関電に対して厳しく言う資格があると思う。

2019年10月 6日 (日)

概念の力 発達障害の方の苦労を思って

 先般から書いている発達障害の当事者の話、例えばつながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)を読むと、多様な現実からの情報を、一つの概念にまとめることの効果の重大さに気がつく。

 このことを意識して、今までのことを見直してみた。

 一つ目の経験は、中学校で初めて英語に接したときである。私たちの時代は、現在のような各種教材もなく、せいぜいラジオ講座の基礎英語を聞く程度であった。しかし、そこで英語の発音練習をしたとき、今までなかったFやTHの発音を聞くとき、講師により色々とあることを意識していた。これらの音が入ってきてどれをまねするのだというのが、最初の感想である。しかし、何度か聞いていると、FやTHと言う枠ができてくる。自分がそれをFの発音と思うようになってくる。すると今度は、個人の発音の違いが気にならなくなる。逆に違いがわからなくなる。このような経験があった。

 さてもう一つは、現在になって思い出す話だが、小学校の頃

「定規で線を引く」

作業をしていた。そこで例えば

「5センチの線を引く」
と言う問題を出されたとき、
「正確な5センチでなくても○をもらえる」

と言う経験をした。そこでも何か「ひとまとまりで扱う」という経験をした。この原体験があったから、中学で幾何を習ったとき、直線という概念をスムーズに受け入れ、「同じ」と言うことが受け入れられたのではないかと思う。 

 このような、概念形成の働きをもう少し大切に考えるべきではないかと思う。

 仏教の唯識論では、私形が考える意識の他に、色々な情報を選別しまとめるアマナ識、何でも入っているアラヤ識を考える。今まで、アマナ識については、煩悩で惑わされるような、悪い印象があったが、心の負担を減らす重要な働きがあるように思う。

2019年10月 5日 (土)

「発達障害」と一概には言えない

 先日から、発達障害に関する本を二冊読んだ。一冊目は、

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書) 

もう一冊は

ソーシャル・マジョリティ研究: コミュニケーション学の共同創造(金子書房)

である。

 どちらも、考えるさせられたが、「発達障害」と言っても、このように大きな違いのあることを、改めて知った。

 まず、新潮新書の宮口幸治著の本は、、非行少年たちの行動の原因が、「発達障害」にあり、「図形を写すこともできない」「人の話も理解でいない」状況にあることが多い、と言うことを改めて、私たちに知らせてくれている。またこの本の救いは、そのような「発達障害者」に対する訓練法などの道を示していることである。解決できそうな道があることの救いは大きい。

 さて、もう一冊のソーシャル・マジョリティ研究は、研究という表題が示すよう、東大の研究員、綾屋紗月氏の編集による。なお、綾屋氏自身が「発達障害者」という立場で、

「社会の多数派」の行動を調べる

研究をしている。

 ここで大事なことは、綾屋氏の場合には、

「自分の状況をきちんと認識できる力がある」

と言うことで、「ケーキの~」とは大きく異なっている。彼女の場合には、認知能力が高すぎて、整理ができていない状況ともいえるだろう。これは、人工知能で言う「フレーム問題」の内でも、

「何が関連しているか解らず、無視するモノを調べてパニックになる」

というような状況が近いと思う。従って、情報の選択をどうするか、特に

「社会の多数派はどうしているか?」

を知ることで、それと妥協できる行動を見いだそうとしている。

 このような、高機能性の「発達障がい」の場合には、自分で調整できる可能性がある。

 こうして、基礎能力の訓練から始めるべき場合と、「多数派の常識」を明文化して伝えるだけで、適応可能性のある人という風に、「発達障害」には色々な幅がある。これをきちんと考えて、対応策をとっていく必要があると思う。

2019年10月 4日 (金)

嫌韓論は実は日本国内の問題

 我が国では,現在「嫌韓論」が溢れている。確かに、現在の文大統領等のやり方は、腹を立てても当然ではないかと思う。しかし、日本国内の嫌韓論は、色々とエスカレートしたやり過ぎという面もある。

 さて、今回私が提案する仮説は

「嫌韓論の多くの原因は,日本国内にある」
(国内の潜在的憎悪や恐怖が原因)

である。この仮説は,二段階に分かれる。

 まず、潜在的憎悪というのは、韓国側の慰安婦問題や徴用工問題への対応は、

「日本国内の人権活動家などの左派知識人が原因」

と言う観点である。これは、韓国の親日派の大統領などが、

「慰安婦問題は日本の活動家が煽ってことを大きくした」

と言う、オフレコ発言からもわかる。これは、韓国の軍事政権時代には、政権自体を否定された韓国側の恨みもあるが、色々な国内左派の動きを見ると、韓国側の言い分部があると思う。この一部極端な日本国内左派の論法は、

「軍事政権は絶対悪だから、その政権が結んだ条約などは無効だ!」

と言う、現在の文政権の言い分へ根底でつながっている。これを感じている、国内の右派はますます嫌悪感を感じていくと思う。

 さて、もう一つの恐怖の問題である。この問題は色々なモノが入り組んでいるが、根本は

「儒教的・科挙的な硬直した知識体系の限界」

を見ることである。これは、儒教を深く理解すると、

「過去の聖人の治世を理想とする」

と言う硬直した発想がでてくる。科挙は四書五経という「教科書」を覚えた人間を選抜する制度であり、自分で新しいことにに対応する人材を選別する制度ではない。このような「秀才」は、前例踏襲や小規模の改善なら効果的に仕事をするだろう。しかし、変革の時代には対応できなくなっている。さらに、政権交代の理論も

「徳を失ったための易姓革命」
しかなく
「時代に制度が合わないための政権交代」

を認めようとしない。これで、日本の統治を罵倒する韓国政府の発想理由が見えてくる。

 ただし、このような儒教的価値観は、既得権益に安住する立場には、便利である。この観点から言えば、自分たちの地位に依存して,立場を守っている人間が我が国にも多い。例えば

「正社員だから非正規に命令する」

と言う連中である。

 この人たちは,韓国の儒教精神的構造の本質的欠陥が防露するのが怖くて、

「韓国特有の問題で悪い!」

と叩く傾向がある。

 嫌韓論にも色々あるが,我が国内部の事情が絡むことも少なくないと思う。

2019年10月 3日 (木)

高学歴化社会の悪影響について

 二〇世紀の中頃、敗戦直後に生まれて、昭和と平成の時代を見てきた人間から見ると、現在社会の『高学歴化』は進んでいると思う。しかしながら、マクルーハンが言ったように、

「社会の変革中には何が起こっているかよく見えない」

ことがよくある。

 そこで年寄りの立場で、今まで私が生きてきた社会と比べながら、高学歴化した社会の善いところと悪いところについて、少し議論してみたい。

 まず高学歴化社会の善いところは、

「抽象化した概念装置を使った、効率的なコミュニケーションができる」

点が大きいと思う。例えば、会社の経営状況に関しても、MBA手法で使う、SWOT分析などを使って、広く説明できるようになってきた。このような概念装置が豊かになると、議論もしやすいし、その力での予測もできる。

 しかし、このような思考方法は、あくまで抽象化した世界での展開であり、現実の多様さ、複雑さに対応したときに、色々なトラブルが生じている。このような、高学歴社会の危険性に関しても、現在社会はもう一度目を向ける必要がある。

 まず一つ目のトラブルは、人間関係のトラブルである。これは、現在進行中の某電力会社や、某大手交通機関などで、『現地対策や労働組合対策』を、丸投げ的に任せて、『不透明な権力と金銭の流れ』を生じさせている。これは、

「大学文明者では対応できない泥臭い話」

に対応できる人間に、任せるざるを得なかった、高学歴者の敗北である。なお、この話に対しては、大阪維新の会が

「ヤクザとも対応できる高学歴」

なる人材を連ねて対応したことが、一つの答えになっている。

 さて、もう一つの高学歴社会の危険な道は、

『儒教的科挙制度への転落』

である。これは朝鮮半島の歴史を見ればよくわかるが、『科挙合格という高学歴集団』が、国を滅ぼすこともある。現在の文政権も同じ道を歩むように思う。

 朝鮮半島の、儒教国家と科挙問題は、硬直した過去制度崇拝で、『易姓革命』思想に縛られたため、新しい事態へ適応できない事態が続いている。しかし、我が国も、硬直した学問に縛られると、同じ失敗をしそうで危ない。

 この危険性を考えて、現実を見ることをもう一度考えるべきだろう。まだ我が国には、現実主義者が残っている。

2019年10月 2日 (水)

創造と法華経の関係

 昨日、Twitterでお付き合いしている、漫画家の相河柚希さんの興味深い経験談があった。

 https://twitter.com/artartn/status/1179004961943887873?s=20

つまり、相河さんの作品の登場人物が、自分で動き出し、

気が付くと僕の方が彼に手を引っ張って貰っている事も多いような気がします。

と言う体験である。

 これは、創造の方法論、さらには世界観の信仰まで含めて、議論する価値がある。まず一つ目の論点は、

「創造と言っているが、実は『あるべき世界の姿』
を感じて表現しているのではないか。」

と言う観点である。これは、運慶が仏像を彫るとき、

「木のなかにある仏の姿を見つけ出しているだけだ!」

と言った思想である。これは、プラトンなら『イデアの世界』を感じ取るというかもしれない。ただし、仏教ならもう一歩進んだ解釈がある。法華経など大乗経典では

「仏の世界を私たちも感じる力がある。
感応道交と言って、仏と自分がお互いに呼び合い、答え合う。」

と言う世界を示している。私は、相河さんの作品にこのようなモノを感じた。(ただし彼女は仏教作品でなく日本神話)

 なお、もう一つ別の解釈では、

「世界を創造するときには、色々な要求がある。
その要求をできるだけ満たして、安定したモノは、それほど多くない。
それどころか一つ見つかればよい。
そのような、条件を満たす世界の創造物は、
自らが魂を持って動き出す。」

と言う解釈もあると思う。このアイデアをもう少し育ててみたい。

2019年10月 1日 (火)

現在社会の問題点は「民主主義」の転換点を意識していないことにある

  先日から色々と議論を呼んでいる「表現の不自由展」に関して、lullymiura.hatenadiary.jp/entry/2019/08/07/153234 に面白い指摘があった。国際政治学者、三浦瑠麗氏の観点では、

私は、日本の左右対立について、「弱者認識の奪い合い」という評論を書いたことがあります。戦後日本社会において実際には強者であった左派は、強者でありながら弱者として擬制していたと。ところが、冷戦の崩壊、東アジア情勢の悪化、世代間対立等を遠因として、旧来の左派は本当に少数派になってしまいました。

~一部略~

もちろん、左派の勘違いの裏側には今や強者となった右派勢力がいます。戦後長きにわたって社会の中枢から遠ざけられてきたと感じている右派勢力は、いまや、左派の殲滅戦を決意しているかのようです。

~一部略~

私が言いたいことは、今や強者となった右派勢力が、真に保守主義者足らんとするならば、この1割弱の国民に対して殲滅戦を行ってはならないということ。それは、保守主義の根幹にある寛容であり、国民の一体性を重視する立場です。

と,従来左翼は強者であったが、現在は本当に弱者になっている。一方、戦後言論界等で色々と「いじめ」を受けてきた,右派勢力は強者になっている。

 この話は,1960年代の大学の実態を知る、私たちも実感している。

「俺たちは弾圧と戦っている」

とわめく学生運動家に私はどれほど糾弾されたか、PTSDと言う言葉は今ほど普及していなかったが、それに近い症状は出ていた。

 さて、老人の仕事として,このような歴史の転換がどのように行われたか、もう少し見てみよう。

 まず一つ目は,1990年頃のベルリンの壁崩壊と,ソ連邦の解体である。これで、東西の冷戦構造が潰れた。それまでの日本の大学の経済学は,8割方がマルクス経済学であったが,この後マルクス経済学は教授の高齢化や死去に伴って消えていく。

 次に,インターネットの普及をあげるべきだろう。これにも色々な段階があるが、1995のWindows95などから、ネットアクセスの大衆化が始まっている。最初は、色々なホームページの閲覧から入り、掲示板への投稿,一部の個人のホームページ作成と言う,まずアニアの時代になった。次に,ブログの普及で情報発止のハードルが下がり、Facebook、Twitterと情報発信のハードルはどんどん下がってきた。

 これに加えて,北朝鮮の拉致問題が、北朝鮮が公式に認める形で発覚した。これで当時

「拉致はアメリカ谷保主勢力の陰謀」
「朝鮮民主主義人民共和国は理想の国」

と主張していた,左派勢力が一気に不利になった。この追求に,ネット社会が乗っていたことも大きい。

 さて、このような左派から右派への勢力変化に加えて,もう一つのキーワードを挙げるべきだろう。それは

「情報発信の大衆化」
による
「民主主義の形態変化」

である。これは、古い民主主義の形から見えてくるモノがある。つまり昔の民主主義は、

「マスメディア、政治家そして学者等の『特権階級』だけが情報発信できた」
従って
「大衆は限られた選択肢のなから選ぶしかなかった」
情報は種類が少ないのでじっくり読むことができた

と言う状況を,新聞などが世論をリードしていた時代として思い出せば良い。

 しかし現在は,政治家すらTwitterの限られた文字数で発信する。一方、多くの人もTwitterで情報発信する。もっとも多くは、他人の情報のリツィートであり自作情報は少ない。しかし、ある過激な意見が大衆化して広がる可能性が増えているのは確かである。

 このような状態で,『新しい民主主義』についてあるべき姿を議論する。これが、急ぐべき課題であると思う。

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