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2019年10月19日 (土)

天才の開花とは 映画版「蜜蜂と遠雷」を見て思ったこと

 先日、劇場公開されている「蜜蜂と遠雷」を見てきた。断っておくが私は、完全音痴なので音楽的なことは、一切解らない。

 しかしながら、この映画は

天才の開花

と言う問題について、色々な諮詢を与えてくれた。なお、以下の内容は、ネタバレ的要素もあることをお断りしておく。

 まず、この映画には、いわゆる恋愛要素は、一部の勝手な思い込み以外は入っていない。主演者たちの間には、同士という感覚があって濃密な心の触れ合いはあるが、恋愛とは別物である。また、競争のための足の引っ張り合いはない。相手のベストがあることが、自分を高めると言うことを知っている。しかも状況によっては、支援することもある。

 一方、指導的立場にある人は、手を差し伸べない。それどころか、厳しく突き放す。例えば、審査員の元天才少女や指揮者、そしてオーケストラの面々である。しかし、彼らも、本当の達成には素直に祝福する。

 映画では、幼なじみというか、子供時代の同門の亜夜とマサルの相互啓発が大きかった。特に、マサルに気づきを与える、亜夜の第2ピアノの場面は原作にないがよかったと思う。その前に、亜夜もマサルに刺激を受け、連弾でそれを完成させていたと思う。

 また、強烈な役である塵は、亜夜を迎える立場でも大切だったと思う。

 最後に原作にあった

「音楽を外に連れ出す」

と言うことはできたのだろうか?最後の場面での亜夜の行動が、それと言うのだろう。

 なお原作は蜜蜂と遠雷 である。

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