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2019年10月26日 (土)

この国の議論では「被害者になった方が勝ち」ではないか

 国会などの、一部野党議員の行動を見ると、国会議員という権力者でありながら、

「自分は弱者である」
「被害者である」

と言っている。この問題は実は昔からあり、山本七平が指摘した

「民を網するなかれ」を知らない議員
(これは、リクルート疑惑の追及のため
企業の幹部を誘導尋問等で問い詰める
国会議員の姿について語った)

が未だにいる。

 この問題の本質は

「被害者の主張には逆らえない」

と言う暗黙の前提があるからである。従って、

「自分がいかに弱者であり、被害があるか」

と弱くなった方が勝ちという議論形式になっている。これを、交流分析では、「義足の付け合いゲーム」と呼んでいる。

 しかし、この形の議論には、重大な危険性がある。一例を挙げれば

「一人が、予防接種による副作用の被害を訴える」
これで
「予防接種が禁止になる」
その結果
「将来多くの人が病気で死ぬ」
(死人に口なしでその被害は届かない)

と言う物語が示す世界になっている。特に将来的に発生する被害についてより、目先の被害者の声が通ることが多くなってしまう。

 この問題を考えるとき、議論の形式について見直すとわかるものがある。つまり、

「被害を訴えるのは子供の立場」
(それを受け入れ対策を考える親が必要)

が現状に近い。しかし建前として

「議論は一人前の成人の間で行われる」

となっている。確かに、国会議員が「子供的主張をしている」というのは寂しいが、これが現実だと思う。しかし、国連ですら、環境問題に関して、どこやらの高校生の「一方的主張」が取り上げられる世界である。

 もう少し議論の形について、検討すべきではないかと思う。私の考えでは、議論参加者に対して、以下のランク分けが必要だと思う。

  1. 議論で問題になっている全貌を知る親の立場
  2. 自分の意見を持ち、他人の意見も理解し尊重する成人の立場
  3. 全体像も持たず自分の利害を主張する子供の立場

この3段階をきちんと区別し、意見を言う機会は平等に、議論は成人以上で、そして決定は親の立場で行う。(内容を見て問題点の指摘は誰もができる)という風な仕組みが必要だと思う。

 また教育として、このような段階を経て成長する様に、教えていくことも大事だと思う。せめて、事実と意見の分離や、抽象の度合いの評価など、議論の基本をきちんと教えて、成人のレベルまで持ち込む教育が欲しい。

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