ご縁のあった人たち

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2019年11月30日 (土)

物事を総合的に見るのが政治ではないか?

 現在の国会での『議論』らしき事柄を見ていると、どうも『表面的・一面的な見方』しかできていないようだ。確かに,欠点の指摘には,一つの立場から『被害者』としての発言は許されるだろう。しかし、国会ともなれば、『その後はどうする』という議論も必要だと思う。

 このように考えると,政治家の仕事とは何か、少し見えてきた。色々な目的はあるだろうが

「最大多数の最大幸福」

は一つ残ると思う。少なくとも

「絶対の正義」

を振り回す人間よりは、暴走の歯止めがあるだけ安全である。

 さて、私が考える政治家の役割の一つは

「トロッコ問題への向き合い」

である。『トロッコ問題』とは、

「自分が行動することで、少数の犠牲で、多数の命が救われる」

状況での決断である。ここで、『少数の犠牲』を『一人の人を殺す』と書き換えると、インパクトが大きくなる。この重みがトロッコ問題を難しくしている。

 しかし、政治の決断は、このような問題が多い。

某代議士が、自分の支持者の
「中小企業経営者が自殺した」
と強弁して中小企業の補助金施策を強引に通した。

その結果、ゾンビ企業が多く残り、結局日本経済の競争力が落ち、
就職氷河期などの被害者では自殺などに追い込まれた人もいる。

このような事例も、『拡張したトロッコ問題』と見るべきだろう。また、特定ワクチンと副作用問題も同じ図式である。一人の被害者の大声で、多くの人が病気から救われる機会を奪ってしまう。

 このように、政治の場においては、ある程度の苦難を人々に強いる必要がある。

 さて、ここで大事なことは、『トロッコ問題』は、あくまで学校の教材と言うことである。単純化し極端化している。

 しかし政治の場合には、現実的な対応が必要である。例えば、上記の『潰すべき会社』の問題としても、

「経営者としては引退させる。人間としては生活できるようにする。」

と言うセイフティネットの発想が必要である。予防接種問題へも、副作用への対策を講じながら施策を進める必要がある。

 このような総合的な対応が、政治家には必要ではないかと思う。

2019年11月29日 (金)

分散情報を使いこなすためにはまず全体像が必要

 先日書いた、AI活用による分散情報の活用に関して、もう少し考えてみた。IT化が進み、多くの情報が公開され、色々な立場からのアウトプットは容易に行われるようになってきた。その情報を探し出すことは、現在のAI でもできるだろう。現実に、私もFacebookやYahoo等のお勧め情報を見ていると、今までなら興味を持って積極的に検索しないと見つからなかった情報が、自動的に目に入るようになってきた。

 しかし、このように与えられる情報は、そこだけではまとまっていても、自分が使えるようにはなっていない。自分のためにはもう少し加工が必要である。もう少し言えば、自分の思っている大枠のなかに、上手く位置づけされないといけない。私は、これを「七夕の飾り」の例えで説明している。子供に、いきなり七夕の飾りを創れと言っても、竹を手に入れるところから始めると難しい。しかしながら、

「適当な竹の枝を切り、短冊や飾りを少し付けておく」

これを見た子供たちは、

「自分で短冊や飾りを創り、追加して」

きれいな飾りに仕上げる。このように、全体像ができてからは、多くの小さな力が自然に加わってくる。これを、

「プラットフォームを創る」

と言う人もいるだろう。

 私は交流分析で考えると、全体像を創るのは親の立場、部分的な貢献はこの立場が据わりがよいと思う。

 さてここで

「AIが全体像を創ることができるか?」

が大きな問題になる。私は現状の方式では難しいと思う。ただし、ここで『創る』と表現したことに注意してほしい。現在のAIの延長でも、

「類推能力を持たすことは可能」
だから
「他の良好事例を持ってくる」

形で、全体像のたたき台を提供することは可能だと思う。ここまでできれば、ブラッシュアップしていくことで、全体像まで作れる可能性はある。

 このように考えると、

「AIに負けない人間は、総合的に考えて、全体像を創り出す人財」

ではないかと思う。

2019年11月28日 (木)

ファンタジーが厳しい現実に向かい政治家がファンタジーに浸る

 昨日書いた、人間や社会の成長を描くファンタジーである、「十二国記シリーズ」

 https://www.shinchosha.co.jp/12kokuki/

や「守り人シリーズ」

 https://www.shinchosha.co.jp/moribito/

のどちらにも、

「祈りだけの平和主義に対する拒絶」

と言う厳しい面がある。ネタバレになるから詳しくは書けないが、どちらにも

「平和のための清らかな存在が、自分たちのために戦って国を守る」

と言う話が出てくる。

 さて、このようなファンタジーの世界では、厳しい現実に向き合っているが、日本の現実の政治家を見れば

「平和憲法という清らかな世界」

は守られるという人が少なからずいる。

 ファンタジー小説より、ファンタジー的な政治家がいる。これは、悲しい現実ではないかと思う。

 もっとも、これらのファンタジー小説の著者は、文化人類学や宗教的な面、中国の歴史などにも造詣が深いので、単なるファンタジーより

「社会制度の思考実験」

的な要素もある

2019年11月27日 (水)

分散して働くためには自立が必要

 前の記事では、「AIが分散した貢献をまとめる」形での、新しい経済活動の可能性について議論した。

 このような勤務形態は、江戸時代なら『問屋制手工業』という形で存在した。さて、この話で大切なことが見えてきた。

「働く人の生活は誰がどのようにしてみるのか?」

と言う問題である。

 『生活』と言ったのは、単純に現金収入だけではない。確かに、SNS上の画像情報から、必要な情報を抽出するなら、これに対する報酬との支払いという問題は生じるが、その問題は少し置いておく。(情報収集の価格破壊という問題でデフレ発生の危険性がある)

 今回議論したいのは、

「集団生活による育成機会」

の問題である。つまり、日本の会社制度では、会社の中での上下関係で、色々なモノが伝達されていた。この伝達機会の必要性の議論と、必要ならば代替えをどこに求めるか、という議論である。

 一つの理解は、交流分析で言う

「親ー子」型 -> 「成人ー成人」型

への変換である。個人を尊重して、『成人』として扱う。しかし、そうなれば、『成人』として必要な、スキル習得などをどこで行うのかという問題が生じる。従来の日本社会では、多くのスキルは、組織内に属した人間の上限関係で伝承していた。しかし、分散独立社会ではこれは成立しない。

 一つの案は、物語やゲームでの伝承である。今、新作が出た『十二国記シリーズ』や、NHKで放送された『守り人』のシリーズは、どちらもファンタジーの形で、人間の成長ということにしっかり向き合っている。

 このような解決策もあるのではと思う。

AIが変えるビジネス環境の可能性

 先日、日経ビジネスのHP情報で、

「AIが働き方に影響を及ぼす」

と言う意見があった。私はこの観点がなかったので、もう一度考え直そうと思っていたら、昨晩のテレビで、

「スマホからの投稿画像をAIで監視し、災害状況や事故状況をいち早く知る」

と言う話があった。実は私は昔メーカー勤務をしていたときに、積雪状況や降雨状況の遠隔監視設備の設計製作にも関与したことがある。当時は専用のセンサーを使った監視装置を設置し、中央と専用回線でつないでいた。

 しかし現在は、多くの人がスマホ写真で情報を入手し、これをSNS等に載せている。また、気象予測会社に協力している人は、雲の状況などを随時報告している。こうした形の、

『大量分散した断片的情報の活用』

を実用化させる力が、AIにはある。これは一つの働き方の改革になる。

 従来の集中した工場での、管理十分な環境での仕事から、散在して自由な人たちの、不特定な情報提供を生かす。更に知的貢献を生かすようになるだろう。例えば、私のブログに対しても、過去に書いた色々な話を、時々検索して見る人がいる。このような散在情報を、上手く引き出し使えるようにしていく。これをAI だけで行うか、人間の加工も入るかはもう少し議論すべきだが、AIとIT社会が、何かを変える可能性はある。

 図式的に言えば、

『集中化した社会』:会社・大学での管理された情報等の活用

 から

『分散化した社会』:ネット上の多様な情報の活用

への変化ではないかと思う。

 昔(江戸時代~明治)には

問屋制手工業(分散)->工場制手工業(集中)->機械化

と言う変革があった。

 今度はその逆になっている。

(追記)

 このような体制は、目的の共有が必要だが、従来のシステムなら

「組織に属して自然と目的が共有される・・・暗黙的」

が多かったが、今後は

「目的を公開して興味を持った人に参画してもらう・・・きちんと記述する」

という形になる。

 さらに、供給されたものの、確認作業や、最終製品化のまとめ、そして品質保証や納入後のサポートに、今後ともどこかの責任部門が必要になると思う。フリーソフトウエアの自己責任論は、一般向けの工業製品では通用しないことが多くなると思う。

2019年11月26日 (火)

他部門の成功を自分たちが得るためになすべきこと

 先日も書いたが、地域活性化などでは、

「新規のブレークスルーよりも、先例のまねでもよいからやり抜くこと」

が重要である。そこで、他の場所などの先行事例をまねする場合も多くなる。

 このような、よそでの成功事例を、自分たちの部門で展開するために必要なことを考えてみた。

 まず、よその成功例は、なぜ上手くいったのかを、きちんと考えることが大切である。そこで二つのルートがある。

  1. 抽象化した一般原則で成功要因を考える
  2. 具体的な活動者などの貢献を見る

この二つを混同すると議論が進まなくなる。まず最初に、一般原則として、どのような表現があるだろう。例えば、

「特定の商品が、ある使い方をすれば、大きな価値を生む」

と言う原則でもよい。一例を挙げれば、料亭で使う『彩り用の木の葉』を、要求に応じて供給することで、成功した事例がある。

 一方、このような原則は、成功のための必要条件だが、十分条件ではない。

 本当に成功するためには、具体的な行動で最後までやり抜く人がいる。先ほどの『彩りの木の葉』を使った町おこしの場合には、役所のなかに成功方法を考え抜き、徹底した支援を行った人がいた。更に運営に関してもしっかりした体制にしている。例えば、作業者を料亭に連れて行って、実際の使われ方を教えたり、収穫を支援するため電動車椅子の活用などを考えている。

 このような、人を動かす苦労、現場に合わせた知恵の出し方などを、考え抜く人財がいるから成功する。このように、一般論で広く深く考え、具体的には知恵を出し工夫しながら、多くの人を巻き込んでいく、人材の育成が地域おこしには重要だと思う。

2019年11月25日 (月)

地域の活性化などにおける必要人材と施策の条件

 地域の活性化について考えると、二つのパタンの必要人材が見えてきた。一つは、必要なことを実現にまで持っていく力のある人材である。自分一人の行動力では不十分で、周りの人間を巻き込んでいく力、任せて組織化していく力も必要である。

 さて、もう一つの力は、冷静な評価能力である。特に

『他から見ても通用する良さ』

を見いだして、皆に伝える。これで皆に誇りを持たせる。この力が必要である。この二つを兼ね備えるのは難しい。特に評価者は、外部の人間が効果を持つ場合も大きい。一方、実行者は当事者意識が重要である。

 さて、実現まで持ち込むためには、現実の問題への対応力が必要である。理想的な条件でなく、多様な個別条件がある。それに対して一つ一つ向き合いながら対策を考える。どうしても、対応がとれない時もあるが、検討した上の先送りであり、『くさい物に蓋』をしてはいけない。

 一方、評価を行う人は、広い見方が必要である。外部の関係者がどのように見るか、このような観点で多面的に見て、

『何がよいのか』『なぜよいのか』『どのような人に役立つのか』

を客観的に伝える。これで、活動する人たちの誇りが生まれれば、実行するときの大きな力になる。

 さて、このような施策には、『広がりの安定性』と『深まりの安定性』の両面の安定性が必要である。多くの利害関係者に触れても、潰されない。一部の反対者がいても無視できる程度の支持がある。このように、『広げても大丈夫』な丈夫さが必要である。

 一方、実現していくときには色々な個別条件で修正がある。そのような修正を加えても、『根幹が安定している』これが、『深まっても大丈夫』という力である。

 このような力があれば、地域おこしなども成功するだろう。

2019年11月24日 (日)

過去は変えられないがその解釈は変化する

 世の中には,『過去は変えられない』という発想がある。しかしながら

「過去は変えられないが、その解釈は変えることができる」

と言う考えはある。もう少し言えば、唯識論などの発想では、

「過去が問題ではなく、自分が過去に持っているイメージが問題である」

と言う考えになる。確かに、過去の蓄積などの問題があるから『イメージが全て』という言い方には抵抗があるが、

「自分の思っているイメージが、色々と現在の行動に影響している」

ことを認めることは大事である。これを認めると、

「過去の見方や解釈を変えることは,現在の自分の考え方や行動を変える」

結果となる。

 よくある話で

「昔の苦労を今にして考えると,自分にスキルを付ける機会だった」

ともい直す。この結果、現在の行動が変わるようになる。こうした現在の変化は、更に過去の見方も変わってくる。

「地力が身につくと、過去の苦労が成長の源泉と解る」

このような相乗効果が起これば、一段と成長していく。

2019年11月23日 (土)

一般化ばかりを求めるから具体的な解決に至らない

 数学について、少し考えてみた。今の数学では『無限大』と言う概念がよく出てくる。これは、数えることを超越した、とても大きな数で、到達不能である。この逆に『無限小』は、どこまでも小さく、どのような間隔にも入り込んでくる。このような、無限の扱いでは、それをひとまとめにして処理することが多い。

 しかし、現実の問題を考えると、実際には一つの値から出発する。これに対して、多くの処理を使って加工して、大きな数値が出現しても、それは決まった数値である。つまり、超越した『無限大』なる値は出現しない。この話をもう少し展開すると、いくら大きな数値になってもそれは個別の値であり、個々の個性があると言うことである。言い換えると『無限大のモノ』という、一括りは許されず、一つ一つを識別していないといけない。数学の一つの分野に、逆数学という考え方がある。逆数学の考えでは、連続的な一様な集合と、個別に分離された集合の扱いの違いが出てくる。

 この発想では、計算量の理論等で言う

『組み合わせ爆発』

と言う概念も、見直す必要がある。

 とても大きな数でも、個別に見るべきであり、それに対する処理が可能である。このように考えることは、現在社会を見るためにも重要だと思う。

 大きな人数は、平均値で考える。これは『大数の法則』では正しいが、現在社会は、その

「一様性でのひずみに向き合うとき」

が来ていると思う。個別の状況を考える。これは具体的な問題解決には重要である。

 学校教育は、どうしても一般に走る。しかし、現実社会では、個別の問題の解決が必要である。

2019年11月22日 (金)

人材活用のために力の配分をどのように考える?

 昨日、小学生の算数の問題を解いてみた。これは、単純に連立方程式を立てれば、直ぐに解ける問題である。しかし、長方形の面積を求める問題だったが、その図形の組み合わせの意味を考えて、必要情報を見いだすことは結構難しい。小学生でここまで本質に迫れる子がどれほどいるのだろうか?そこで、昔あった

『鶴亀算無用論』

を思い出した。確かに小学校の算数の応用問題の解き方の訓練は、

  • 鶴亀算は足の違いに着目
  • 植木算は両端の形に着目
  • 流水算は流れに従うか逆らうかで計算を変える

等の、個別の手法を教えてそれで処理する訓練であった。このレベルでは、中学生の連立方程式の発想なら皆解けるので、無駄な時間を費やしているように見えるかもしれない。

 しかし、このような問題の訓練を通じて、

『変化する量の関係を見いだす』

力がつけば、これは物事の本質を見抜く力となる。この力は、機械的に代数的な式を立て、解くという作業と比べても、役に立つことがあると思う。

 さて、ここで社会での仕事について、話を広げてみよう。

 世の中の多くの仕事は、定型化して処理すべきである。これは、数学の方程式の処理を速くやることと同じである。一方、新しいことや、トラブルが発生したときには、物事の本質を考えて、その状況に踏み込み考え抜くことも大事な作業姿勢である。

 この両方の使い分けをきちんと行う。これが管理の本質ではないかと思う。確かに、本質を考える人材が多い方が望ましいかもしれない。しかしそのような考える人だけでは、仕事の効率化は進まない。また、考える側も疲れていく。

 このような資源の配分を上手に考えていく。これが管理の大きな仕事であると思う。(もう一つは、定型作業を創る働きだが、これは別途考える。)

2019年11月21日 (木)

ハローワークなどの就職支援について

 昨日兵庫県のローカルニュースで、

「ハローワーク等が行っている、就職支援の訓練を、一般の人にも公開する」

と言う話が流れていた。

 この取り組みには、色々と大きな意味があると思う。

 一つ大きなことは、採用する側の不安や手探りが、少しでも軽減されることである、私も採用側の立場で経験したことは

「どのような人が来るか解らない?」
「どのように指導すべきか?」

と不安や迷いがある。

 これに対して、

「このような事前指導」

を自分で体験する。これは貴重な経験だと思う。受け入れ側にとっては、極端な話

「朝きちんと決められた時間に出社するか?」

と言うような不安もある。これが、事前指導の状況を見れば、きちんと時間通りに行動しているなども解る。このようなメリットもあると思う。

 また、別の見方をすれば、このような事前指導を行う人に対し、

『採用側からの生の感想』

を伝えることで、より実用のある訓練に成長する可能性がある。

 現場を大事にする行政に期待したい。

2019年11月20日 (水)

小さなモノでも全てを観ることの大切さ

 全体像を描くことが大切という話は、このブログでも何回か行った。昨日の議論もその一つである。

 さて、このような全体を見るために、小さなモノを創る経験が有効という議論がある。これは、私の会社生活の経験からもいえる。私は入社5年目で、新しい会社の立ち上げに参画し、10人程度の会社を見ている。この経験が、大きなメーカーの中で生きていくとき色々と影響している。

 日本の『縮み志向』と言われるが、小さなモノで全体を表し、そこに誠意を込めていく。盆栽などがその一つだと思う。このように、小さなモノで全ての世界を表す。こうした経験が、全体的な調和を見るのに必要ではないかと思う。

 しかし、大きな組織の中での分業を行うとき、色々なスキルが必要になり、文書化などで見える形で伝わるモノも大きい。この両面を上手く生かして、人材育成を行うことが大切だと思う、

 特に、理論的な突破を行うためには、ある種の理想化や簡単化も有効である。このような多様性を本当に生かしていく、これが政治であり、経営ではないかと思う。

2019年11月19日 (火)

創造的な力による安定的な答えを得る

 総合的な見方で物事を成し遂げようとするとき、どうしても矛盾する要求などに挟まれることになる。これに対処するとき、一般には

「皆が譲り合って妥協する」

と言う答えを求めることが多い。また、自動制御などでも、

「その機能を抑えることで安定させる」

ための、ネガティブフィードバックを使うことが多い。このように、押さえ込みながら、安定を求める姿勢が多くなっている。

 また、西洋の学問方法は、ニュートンの太陽系の話にあるように、1対1の関係に単純化し、しかも重心に全ての質量が集中する系で考える。

 このような考え方だけが、本当の解決だろうか?

 先日、NHKスペシャルでレオナルドダビンチの話を放送していたが、

「ダビンチはシステム思考で鳥瞰的な地図を描き、心臓の弁と血流の関係を見抜いた。」

と言う見解があった。

 このように、全体像を色々な要求を満たすように充実したモノを創造する。この創造したモノが安定した答えになる。これはあり得るように思う。

 さて、これを実行するにはどのようにしたよいだろう。一つのアイデアは、法華経が示す

「仏は、全ての世界を自分が作ったモノとして見る。衆生全ては我が子である。」

と言う観点に立つことである、自分が全て創るなら、どのように配置して関わりはどうなる。これを考え抜き、解ったという感じになる。

 もう少し踏み込めば、

「そのような『創造者』はどのような人格だろう?」

と考えて、

『創造者』を創造する

ことができれば、より現実性のある琴絵が生まれる。

 大乗仏教では、仏だけでなく、仏の色々な救いを表す、菩薩や明王を観じる。これと通じるモノを思った。

 なお、この検討は、漫画家の相河柚希さんとのTwitterでの議論が一つの動機になっている。相河さんに多謝。

2019年11月18日 (月)

就職氷河期世代の正社員化の歴史的意味

 就職氷河期世代の正社員化の試みが、色々なところで行われている。

 この動きを、マクロな目で見ると、

「日本の企業形態の転換点」

となるのではないかと思う。

 従来の日本企業は、一括採用の後は、先輩後輩間で伝承重視を重視していた。これは、技術技能の蓄積はできるが

「連続性を重視した経営体質」

となってしまう。このような連続性は、20世紀の間ぐらいまでは、かなりの競争優位の武器でもあった。

 しかし、現在の変革の激しさ、特に要求事項の多様さを考えると、

「現状の延長線上の発想の限界」

が見えてきた。

 これに対して、

「20代の若い時期を別体験し、ある程度自分の考えを持った人財を入れる。」

ことで、

「新たな問題解決への力が生まれる」

可能性が開けた。

 このように考えると、

「令和元年の就職氷河期人財の正社員化は、経済活動の転換点」

と後世が評価する様になるだろう。

 なお、若い時代に一つの会社で育てられることは、色々なスキルが身につく機会でもある。

 この点に関して、埼玉県などの就職支援は、スキルやメンタル面での対応も行っている。このような動きは、厚労省も支援しているようなので、全国へ展開されることが望ましい。

 2050年ぐらいには、

「その時日本経営が変わった」

といえるようになりたい。

2019年11月17日 (日)

本当の『親的立場』を育てるために何が必要か

 先日から書いている、地方創生の話等では、

「色々な人を生かすための親的立場」

の人財の重要性が見えてくる。例えば、日経BPの記事にあった、釧路市の例でも、

「助けを求める商店街」 

の人たちが描かれている。そこでこのような人を育てるために何が必要か、少し考えてみた。まず、私の会社生活で見た、失敗例から

  1. A部門は『本質的に平等主義』であり、年期が来ればよほど問題でない限り課長になる
  2. B部門は『エリート選別主義』であり、新入社員から幹部候補生を選別して育てている

この二つの部門について、どのようなことが起こっただろう。まず、A部門の場合には、部門の将来のビジョンを描く人間が育たなかった。従って、市場の変化について行けず、リストラ対象部門となってしまった。一方、B部門においては、出世コースの2番手人材の一部にモラル低下が激しく起こり、トラブルが発生している。

 上記のA部門のように、平等主義をはき違えると、衆愚政治的になってしまう。一方、エリート育成の選別が激しくなると、それ以外の人間のモラル維持が難しくなる。特に『建前としての平等性』で育っただけに反発が大きい。

 この問題の解決策は、多様な価値観で物事を見るように、皆を育てることから始めるべきではないかと思う。今の学校教育は、成績という一本道で評価しようとする。会社に入れば地位と給料で評価する。このような単純な出世の道のりではない。色々な見方、色々の人の反応が寄り集まってできている世界、これを親の立場ですべて観て、その幸せを考える。この喜びを本当の喜びと考える人間を育てることが大切ではないかと思う。

2019年11月16日 (土)

地方創生のために本当に必要な人材とは

 昨日の続きで、地方創生に本当に必要な人材について考えてみた。私の考えでは

  1. 自分で現状をきちんと見て、問題の本質を見抜く
  2. あるべき姿を描く
  3. それを実現させるように多くの人を巻き込んでいく

と言うような能力が必要である。これは、分業であってもよいが、きちんと協力し、チームとしての不足があってはいけない。

「XXがないからできない」

と言ういいわけを、許さないことが大事である。

 今あるモノで、できる限りのことを行う。一方、必要ならば投資を呼び込んで実行する。ここで、「投資」という言葉を使ったことに注意してほしい。地方創生には、よく「補助金」という言葉が出てくる。しかしながら、補助金に対しては、受け取った側の責任感が薄くなる。投資なら回収の責任が生じる。これは金銭的なモノだけでなく、福祉の向上による満足などもあるかもしれないが、

「成果に対する責任と評価を明確にする」

ことが重要である。

 一方、独自性によるブレークスルーの必要性は低い。他での成功事例を参考にして、自分たちの状況に合わせて実現する。このような力が必要ではないかと思う。

創造よりも本質を理解し説明する力

これが大切だと思う。

2019年11月15日 (金)

親の言うことを聞く子供を作ったら自立できなくなる 地方創生はできるのか

 昨日書いた、中小企業問題と地方都市問題について、別の面から考えてみた。今週の水曜日に、読売テレビの「関西情報ネットTEN」で、高浜町の取材をしていた。これは、原発交付金に依存した町の状況をきちんと描いていたと思う。

 しかし、私がこの番組を見ながら思いついたのは、戦後の日本の政治体制である。吉田茂が、

「アメリカに依存しながら復興していく。しかし、完全なアメリカ従属だけでなく、共産圏の方を向く勢力が必要である。」

と言う発想で,社会党に反米路線を取らせるように水面下で連絡した。

 この図式は,原発の立地でもあるのではないかと思う。

「原発を呼び込んで、町の活性化を行う。雇用も生まれるし、交付金ももらえる。」
ただし、
「ある程度の反対運動があった方が,交付金などへの圧力になる。」

と言う図式は、同じ構図である。

 これをもう少し一般化すると、

   中央権力という親
   権力から支援金をもらう子

と言う図式になってしまう。

 親の言うことを聞いて、従順な子供でいると,色々なモノがもらえる。

 これが利益を生み出す常識となってしまえば、思考力もなくなっていくだろう。

 このような施策は、中央に力のあるときは、

「言うことを聞くよい子が多い」

と上手くいっている。

 しかし、中央に力がなくなったとき、従順に育てた子供が自立するのだろうか?

 ただし、二つほど希望がある。

 一つは,大阪府の事例である。大分昔だが

「横山ノック知事は陳情の名手」

であった。国会議員の経験を生かし,どこに頼むかを上手く行っていた。しかし、中央が頼りにならないと見るや、大阪の人たちは

「橋下ー松井の維新ラインを選択」

し独立した動きを見せている。確かに大阪の底力は大きい。しかし、水曜日の高浜町の取材でも

たくましい若手町議会議員が
「小判入りまんじゅうを名物として売り出そう」

と頑張っていた。

 このような若い世代の頑張りがあれば、地方創生もできると思う。

2019年11月14日 (木)

中小企業のあり方について 一所懸命

 今までも、「中小企業不要論」に関してこのブログでも反論していたが、日経BP に興味深い記事があった。

 https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00080/110800003/  

この記事では、中小企業で構成されている駅前商店街が、大型スーパーなどの出店を受け、弱い商店が潰れるという

「淘汰による弱小企業排除」

が行われた。しかもその後、地域経済と雇用は大型店の力で維持し、しかも地域商店街へも大型店の集客力おこぼれで人が来るという状況になった。これこそ通産省の発想である、

「大型船が切り開いた後を小型船がついて行く方式」

である。

 確かに、流通の大企業には、商品企画などのスタッフがきちんとしているので、戦略や戦術我を検討することができる。この強みは、中小のみせには持てなかった。

 しかしながら、この戦略的な強み自体が諸刃の剣で地域を襲う。大企業の戦略で考えれば、地域の不採算店舗の廃止は、当然の結果である。また、ロードサイドなどへの移転も「論理的結果」として出てくる。

 このように、先端を切る船が逃げた後は、独自の対応ができない中小店舗が残っている。しかも、大企業の客寄せ頼みだったので、自分で考える力がなくなってしまった。

 このようなことをなくすためには、以下の2点を真摯に考えるべきである。

  1. 一所懸命の原則で自分のことは自分で考える
  2. 大企業的、中央官庁的発想ではなく地域に密着した解決策を考える

 

2019年11月13日 (水)

中高年の世代が及ぼす害毒

 朝日新聞では、働かない中高年社員のことを「妖精」と言っているらしい。

https://www.asahi.com/articles/ASM9S7SGMM9SUHBI038.html

 しかし、この捉え方はとても甘いと思う。このような、大企業における(働かない)中高年の問題は、まだまだ大きい。まず一つ目は、

「正社員がなぜ威張るか?」

と言う問題である。このような「働かない中高年」は誰かに命じて、仕事をさせている。つまり、

「命令することが仕事、偉そうに言うことが仕事」

と思い込んでいる。彼らの命令対象は、成長路線が続いている間は、外注先であった。発注しているからと偉そうに命令する。これが、「管理」と思っているような連中が多くいた。さて、時代は変わり、社外支出削減と言うことで、外注先はどんどん切られていく。こうして潰してしまった後はどうなるか?内部での実作業になるが、人件費抑制があるから、派遣労働者や有期限契約の非正規雇用労働者に仕事をさせる様になる。

 今まで、自分の手を汚さず、実務を身につけていない中高年は、このような実務作業者に命令するばかりである。これを見習っている、「正社員」たちも、同じような仕事の仕方になる。

 このような状況を見ていると

 「とにかく正社員」

と考える人が、若い世代にも増えてくる。そうした「正社員」が、非正規雇用者を見下す行動に走ることも少なくない。毎年、年賀状を売り出したこの時期になると思い出すのだが、私の家の近所の街頭販売で

「あの人たちは非正規だからノルマがあります。私たちは正規雇用だからありません。」

と言っていた、郵便局の若い女性の姿が思い出される。

 このような、「他人を見下す性格」が蔓延しているが、いずれ自力で働けない人間は、どこかで落ちていくことを知らないといけない。

2019年11月12日 (火)

支配の形を交流分析と宗教で見てみた

 韓国の政治については、儒教の悪影響がある、と言う議論はこのブログで何回か書いた。しかし、この話を交流分析の発想で整理すると色々見えてくるので、改めて書いておく。

 交流分析では人間の役割を


    1. 厳格な親(CP)
    2. 優しい親(NP)
  1. 成人(A)

    1. 従順な子(AC)
    2. 自然な子(FC)

の5パターンに分けている。さて、政治の支配をこのパターン分けで見てみよう。

  1. 西洋文明型の民主主義社会 皆が成人 AーA型
     皆が不完全を認識し協力する
  2. 儒教文明型の支配 支配者が従順な子供を支配 CPーAC型
     支配者が全てを知っている(昔の理想の社会のこと)ので皆これに従え
  3. 仏教文明型の支配 支配者が優しき子供を育てる NPーFC型
     支配者は親の立場で皆に善いように考える。ただし親自身も学んでいる。

ここで、多くの民主主義国家は、1.の西洋文明型を理想としている。しかし、実際は民衆の力がないと、衆愚政治に陥ってしまう。そこで「開発独裁」が必要という議論が出てくる。そこで大事なことは、独裁者の姿勢である。中国や韓国のように、儒教文明が染みついた国は、

「古の聖人の理想を知っている」

と言うことが、支配者の優位性を裏付けている。これが「孔子や孟子」か「マルクス・レーニン」か「毛沢東」かは知らないが、昔の栄光にしがみつき、自らの誤りを認めないのが、この形の支配の特徴である。このように見ると、韓国の文政権の行動も見えてくる。

 一方、仏教思想というのは、日本の自民党政権などが当てはまると思う。自分たちが親の立場ではあるから、子供の要求をできるだけかなえる。そのために、自分たち内部での勉強は欠かせない。これは、議員たちの部会活動や、官僚によるレクチャーを含んでいる。

 ここで仏教というのは、もう一つ大事な話がある。大乗仏教においては、仏は今も生きている。例えば、高野山では、弘法大師空海は今も荒野の山のなかにいる。そこでは毎日食事を捧げる儀式がある。そこでは、温かいご飯を運ぶため、保温ジャーなどが使われていると聞く。このように、最先端の技術を使うことが、仏の智慧として推奨されているのである。

 儒教の「古の聖人」発想で固着する危険性を、「現在も生きる仏」が見事にクリアしている点を、我々はもう少し考えるべきだと思う。

2019年11月11日 (月)

中小企業の生産性について 大企業と同じ尺度でよいのか?

 一昔前に,「生産性」について色々と物議を醸し出したことがあった。

 しかし、深く考えを進めると,私たちは「生産性」についてどれほど知っているのだろうか?私がこの問題について,もう一度考え直すと思ったきっかけは

「生産性の低い中小企業の淘汰」

と言う意見を目にしたからである。

 私自身は、大手メーカに所属し、技術者として経営スタッフとして、そして事務系の管理職と言う多様な経験をしている。自慢ではないが、提案書や報告書の作成能力は高い方だと思う。役所などに対する申請書や報告書なども直ぐに作ることができる。このような私の仕事は、

「生産性が高い」

と評価されるのだろう。

 しかし、もう一歩踏み込むと,そのような文書は必要なのだろうか?確かに、役所などでは公正を期するために,きちんとした文書は必要だろう。それを、小さな組織や個人の仕事で,どこまで必要になるのだろう。この問題の一つの答えが、30年ほど前のコンピュータソフトウエアの生産性議論で出ている。そこでは、数千行以下の小規模システムでは、非常に高い生産性を示す場合がある。一方、数万行ぐらいで生産性は低下し、数百万等の大規模システムになると,生産性が上がってくる。

 この現象は定性的に説明すると以下のようになる。

  1. ごく小規模のシステムは個人プレイで動くので文書なども最低限で効率がよくなる
  2. 中規模の場合には管理文書が多くなりそのための作業が必要で効率が落ちる
  3. 大規模の場合には生産支援のスタッフを置く余裕があり設備導入などもできるので効率がよくなる

このように考えると、中小企業にはそれなりの管理方法があり、大企業的な管理尺度を当てはめることで、「非効率」と攻撃しているのではないかと思う。

 もう少し踏み込めばMBA手法などで計る生産性が、個人経営の会社などで適切だろうか?

 こういう観点での議論も必要ではないかと思う。

 もう少し言えば,中小企業の生産性議論を行うためには、大企業中心の管理方法や、役所などの文書のやりとりを、支援する仕組みを作ることも有効ではないかと思う。

2019年11月10日 (日)

世の中の可能性とつながりについて

 量子コンピュータの実現可能性の議論が色々と行われている。しかし、物理学、特に量子力学などを学んだ人間は、量子力学的世界の実現し、しかも観察可能と軽く考えることができるのだろうか?私はこの点については難しいと思う。確かにファインマンが可能性を指摘しているが、現在の「量子計算」と言われている物は、「進化したアナログコンピュータ」ではないかと思う。

 しかし、もう一歩考えてみると、量子の世界における「無限」の扱いは,ファインマンなら、有限に押さえ込むことをやりかねない。更に、ナイキストなどのサンプリング定理の発想なら,通常見受ける信号波形は、有限の領域で十分な制度の近似ができると言っている。

 これを考えると、量子計算の有限次元近似はあり得るかもしれない。従って,アナログコンピューティングによって近似もできるだろう。

 私の考えでは、NP完全として汎用的な3-SATでも、アナログ計算の波形を合成していく方法を使えば,有限時間で解決できると思っている。(そのためには、高周波成分まで絡むが)

 この問題の本質は

「世の中には,多様な可能性がある。しかし、その可能性を組み合わせるとき,安定的な物は限られている。」

と言うことではないかと思う。(昔はやった複雑系の理念)

 これは、物理的な議論だけでなく,社会や人間の世界でも成立すると思う。可能性は大きいが,色々な関連事項を考慮し,制約条件を満たす解決策は少ない。その上を上手くジャンプする,これがブレークスルーだと思う。

2019年11月 9日 (土)

社会的問題に対するブレークスルー思考は一度全体図を描く必要がある

 これまでにブレークスルー思考に関して、少し書いてきた。

 ブレークスルーの実現のためにはシステム的な思考法が必要

 ブレークスルーを行うと言うことは「次の安定に至る」ということ  

ここで、3段階を踏むことが大事と書いた。


  1. 可能性を開く時には、理想化した世界で理論的に考える
  2. モノとして作り出すときは関連する事項全ての閉じたシステムで考える
  3. 製品化の段階では社会という開いたシステムまで考える

と言う風に考える範囲を広げる必要がある。

しかし、これは工学などの、物理学などを母体にした物作りの発想である。その延長で、相互の因果関係などを考える、「システム発想」も提案したが、考慮する範囲は限られていた。

 しかし、経営問題や社会的な問題を考えるときには、検討範囲をもっと広げる必要がある。社会科学系では色々な仮説を考えて、その成立可能性を検証するが、

「そのために世界をどのように切りとるか?」

と言う前提条件の選び方が重要になる。

 もう少し言えば、

「この提案が成立した状況での社会はどうかなる」

と言う形で、結論が先行した形での議論も必要になる。

 このためには、上記の3段階説の切り分けは曖昧になり相互の侵入が発生する。

 少なくとも、理論検定時に関連項目の並ぶモデル化した世界を描き、その上で

「新しい考えが実現したらどうなる」

と言う形のシミュレーションを行う必要があるだろう。そうした結果が社会にどのような影響を及ぼすか、ここまで考える必要がある。

 単純な因果関係ではく、広い縁や報いまで考える。これは物語を想像するよことに通じている。

2019年11月 8日 (金)

琵琶湖を「琵琶の形」と見るためには?

 先日、NHKの「日本人のお名前」で、

「琵琶湖の形を完全に認識するためには、山などでは到達できない高さから見る必要がある。」

と言う趣旨の話があった。

 しかし、行基菩薩が竹生島を開いたとき,既に弁財天と琵琶の関係を感じていた可能性はある。

 そこで、天平時代や平安時代の人の気持ちになって、琵琶湖を見てみた。

 琵琶湖のそばには、伊吹山もあり、比良山系や比叡山もある。このような山の上から見れば、部分的にでも丸まっているが、円ではなく広がっている形が見えるだろう。

 さて天平時代に既に琵琶があったのは、正倉院の御物からも明らかである。従って、当時の人々は、琵琶の形は知っていた。一方、他の形はどれほど知っていただろう。丸い物は色々見ている。擬宝珠のような形も見ているだろう。しかし、それ以外の形は思いつくだろうか?

 こうして考えていくと、当時の人たちは、部分的いに見た物から、自分の知っている一番近い「琵琶の形」に当てはめたと考えるのが自然に思える。

 私たちは、航空写真という便利な物があるから、全体像を見て判断するという癖がある。しかし、当時の人たちは、自分が思いつく

「形状の概念装置」

の範囲で一番近いモノを選択したと思う。

 しかし、このような概念装置による、思考の制約は私たちに無意識的に働くことが多い。注意すべきことである。

 

2019年11月 7日 (木)

「殺生禁止」について色々と考えてみる

 色々な道徳の中でも。

「人を殺してはいけない」

は多く出ている。特に、我が国では、仏教の戒律とも関連して

「肉食禁止」

と言う流れになっている。この発想が極端な所まで行くと江戸時代の

「生類憐れみの令」

と言う檀家にになる。なお「生類憐れみの令」に関しては、戦国時代の流れで、

「武力による解決!」

を是正する流れが行き過ぎたという考えもある。確かに現在の、日本を見ると、

「戦前の軍備拡張主義の是正のための平和憲法」

という薬が効きすぎている様に見える。これと同じことが「生類憐れみの令」にもあるかもしれない。

 さて、殺生禁止という道徳律が強くなったのは、奈良平安の時代にあると思う。ここでは仏教が道徳律としてかなり力を持っていた。しかし、それだけではないと思う。ある程度農耕や漁業などの生産力がついてきたので、持続的な社会の安定が必要になった。そのためには、略奪や搾取より、

「継続して生産する」

ことが重要になってくる。特に

「生産手段としての家畜を大事にする」

必要があり、

「安易に食物としての生き物という発想を持たせない」

ためにも、殺生禁止は重要だったと思う。

 しかし、農耕のための道具を作る、鉄の生産の場では

「フイゴのための革製品」

が必要になる。もっと言えば、鉄の生産のためには山を切り開く可能性もある。これは、持続可能性のある社会と対立していまう。この調和について、もう少し考える必要があると思う。 

2019年11月 6日 (水)

平安時代の政治について

 歴史を学ぶと言うことは、一つはその時代の生活環境を、思いやる経験をすることである。自分が常識と考えている物事が、その時代には存在しなかったり、現在とは違う形の物になっている場合も多い。

 そこで、平安時代を例として現在と違っている状況を考えて見たい。

 一つ目は、外交である。現在は世界中の国とリアルタイムでつながっている。しかし、平安時代には朝鮮半島との海運からの交流と、遣唐使ぐらいしか外交という動きはない。極端に言えば、

「中華文明の中心である中国との関係」

だけが外交であった。しかも遣唐使の派遣中止で、外交という物が無くなっている。

 次に、近頃私たちが経験した、安全確保に関する政治の働きである。私たちには、色々な公共工事により、インフラ整備が行われている。治水や利水の方策も色々と行われ、そのための体制がある。しかし平安時代には、土木工事を弱い道具の手作業でしかない。手作業と言っても、現在のようにしっかりした鉄の鍬やスコップがあるわけではない。しかし当時でも、行基や空海などの指導で、川ヤ池を整備している。

 また、病気が発生したとしても、現在のような治療法はない。加持祈祷をするぐらいである。その意味では

「和歌を詠むことも神を鎮める『まつりごと』であった」

と言うことが見える。こうしてみると、平安時代の政治には、他に何があるのだろう。

 まず、税の徴収という制度は存在する。その根拠は、公の土地を貸し与える制度であるが、これは既に制度崩壊している。荘園が主体になっているので、税と言えるかは疑問であるが、領主としての土地ヤ道具の貸与などを理由に、取り立てる物はあった。

 内乱や、異民族との戦いは、発生したときに対応する軍事的な力は、平安な時代には退化していく。一方、犯罪者対応の組織は存在する。これらの圧力も、権力を維持するために必要だったろう。

 このような状況では、

「殺すなかれ、盗むなかれ」

の道徳が強調される。江戸時代の『生類憐れみの令』にも通じる面がある。

 中央の貴族の政治とは、血縁による権力争いが。中心となる。これは、上記の状況を見れば、それしかすることがないという感じもする。

 とりあえず現在との違いを考えて見た。

2019年11月 5日 (火)

槍について色々と考える

 先日から考えている、昔の時代環境を見るやり方で、「槍」という物について議論してみたい。

 まず、古代は同じように突き刺す武器として「矛」があった。矛と槍の違いは、柄の部分の強度にあると私は考えている。しっかりした柄があれば、長い槍も可能になる。矛は柄が弱いから、長くはできない。まずこれが一点である。さてここで、矛のように単に突き刺すだけで、比較的弱い物なら、使い捨ての竹槍的なモノを、矛の代わりに大量に作ることはできなかったのだろうか?

 この問題に関する私の仮説は、竹槍のようにとがった先を作るには、それなりの刃物が必要である。古代にはそのような堅くて切れ味のよい刃物が、大量に出回っていなかった。これが一つの答えだと思う。

 さて、ここで「竹槍」について、議論してみよう。竹を切り、先をとがらせた竹槍は、農民一揆などの武器としてよく見る。江戸時代などには、ある程度の刃物が普及したので竹槍も多くあったのだろう。竹槍には一つの利点がある。

「竹槍はいくら切っても竹槍」

と言う言葉が示すように、刀で槍を相手にしたときは、槍の柄を切るのが常道である。切れなくても、柄に刃が届けば、手元に入って、刀側の勝ちになることが多い。しかし、竹槍の柄を切っても、またとがった先が出るので、刀の側では対処しにくい。

 しかし、槍には突く以外に、もう一つ大きな使い方がある。それは、長い柄を利用して、「叩く」動きである。槍の修練は、突くより叩く訓練の方が多い。この面では、竹槍は無力である。

 物事を一つの面で見ないで、色々な見方をする。これが知恵の働きにつながると思う。

2019年11月 4日 (月)

ブレークスルーの実現のためにはシステム的な思考法が必要

 昨日書いた、「ブレークスルー」の話に関連して、システムとして考えることを書いておく。

 ブレークスルーの3段階説を昨日は書いた。ここで大事なことは

  1. 可能性を開く時には、理想化した世界で理論的に考える
  2. モノとして作り出すときは関連する事項全ての閉じたシステムで考える
  3. 製品化の段階では社会という開いたシステムまで考える

と言う風に考える範囲を広げる必要がある。

 このようなシステムとして考えるときには、単純に

原因->結果

図式が成立しなくなる。いわゆる

卵と鶏

の関係である。

 例えば、日本の歴史の農具や武器の進歩を考えてみよう。ここでは、「鉄」の働きが大きい。しかし、「木」の働きにも大事なモノがある。例えば、古墳時代の土木工事で土を掘るスコップのような物は

「大部分が木製であり先端だけが鉄製」

であった。この理由は、鉄の固さは土を掘るのに有効であるが、鉄の供給量が限られているので、有効活用のため先端だけにしたのである。

 さて、このように鉄の供給量が少ないと、

「木を加工して必要な形にする刃物」

も限られている。そこで、最低限の木しか使えないし、加工しやすい木を使うようになる。しかし、このような木は堅さが弱いので、直ぐに折れてしまう。

 このような状況が、6世紀頃まではあった。その当時の武器の代表的な物として「矛」がある。これは、木製の柄の先に、とがった穂先をかぶせて物である。かぶせるというのは、農具の先端と同じ発想である。一方、柄が折れたら直ぐに付け替えることができる。

 さて武具の進歩は、平安時代の末には,長刀を生み出している。これは、

「丈夫な柄に刀のような物を付けた」

ものであり、この段階では樫の木のような,頑丈な木材を加工する鉄の道具が、普及したことが解る。

 さて、ここで大事なことは,鉄の供給にも、鋤鍬などの道具は大切な役割をしている。鉄鉱石を掘り出し、たたらの製鉄の環境を作る。このような土木作業にも,鉄と木の道具が必要であり、

「切れ味の鋭い鉄で丈夫な樫の木を加工する」

ことは、社会を変える「ブレークスルー」につながった。

 このような相互作用の問題は、部分的な因果関係だけでなく,それらを全体として働かすことで,見えてくるモノがある。

 歴史の勉強には,このようなシステムとしての変化を見ることも大事である。

2019年11月 3日 (日)

ブレークスルーを行うと言うことは「次の安定に至る」ということ

 このブログで、何度か書いたが

「現状の改善と新しいモノの提案」

は,本質的に異なっている。特に

「理論的によいモノ」

の提案には、

「何か前提が漏れている」

と言う落とし穴があることが多い。

 この問題に対して、物作りの世界では,新製品の開発で以下の3段階を想定していることが,一つのヒントになる。

  1. 研究所などで理論的な可能性を実験で示す
  2. 開発部門がなんとか試作して動くモノを作る
  3. 製品化するときには,生産時の合理性やメンテナンスの必要性などを考えて丈夫なモノとする

ここで関与する人を考えてみよう。

  1. 理論的な検討は個人または少数の,理論的な土台を共有したメンバーで行う
  2. 開発時には,理論的な成果を理解できる人間たちが集まり、試行錯誤しながら協力して形にする
  3. 製品化に当たっては、生産面、利用者面、保守面から意地悪なユーザ視点等、あらゆる面から議論していく

このように、関与する人を増やしながら,取り合わず形にしたモノを,丈夫なモノまで育てていく。

 これを、社会的なモノで考えると

「現在はとりあえず安定している」->「次の安定点まで跳ぶ」

と言うプロセスを,理論からモデル作り、そして実現の3段階を経て行うべきである。

 いきなり理論的な利点を言っても,現状を変える不安や不満に対応できない。しかし、その理論を評論家的に潰せば進歩がない。従って最初は,色々と好意的に見ながらモデル的なモノを育てていく,しかし実現するためには,ある程度形になったモノを,敵対する目からも見て叩いて,丈夫なモノとして行かないといけない。

 このような形でブレークスルーはできると思う。

2019年11月 2日 (土)

高学歴社会の問題点 あまりにも専門化しすぎた社会

 先日から、高学歴社会の問題に点について、少し考えている。今回指摘したいのは

「高学歴者の高度専門性の弊害」

についてである。私が近頃気になったのは、社会の色々な問題に対して、弁護士に頼りすぎていることである。これをもう少しかみ砕くと、

「現在の社会は複雑化している。それを動かすのは法制度であり、その専門家である弁護士に依存する。」

と言う面があると思う。しかし、弁護士という体質は、

「法律に基づいて、依頼者のために戦う」
「片方の利益代表的発想」

が根本にある。

 この問題を、例えば犯罪関係者の救済という問題で考えてみよう。実際の犯罪においても、そのことで傷つくというか(広い意味で)被害を受ける人は多くいる。ちょっと思いつくだけでも

  1. 実被害者
  2. 被害者の家族など
  3. 加害者の家族
  4. 加害者自身
  5. 周辺地域の住民などの関係者

と言う風に、多くの人が傷つきケアが必要である。

 しかし、現在の施策を見れば、まず犯罪者自身は、刑罰を受け、その後の更生の議論がされている。また犯罪者に対しては、必ず弁護士がつくという形でのケアもされている。

 一方、被害者自身に対するケアは、ようやく行政が動き出した段階である。遺族が裁判に遺影を持ち込むことすら、色々な苦悩の末に認められた。(刑事裁判の被告側の弁護士の主張で、「遺影などを持ち込まれて、感情的に影響されて被告が不利になる」という声で持ち込婿とが許されなかった。)

 さて、被害者家族のケアであるが、一部は民事訴訟などを含めて、支援する動きはある。しかし、まだ十分とはいえない。

 更に、加害者家族の場合には、多くの人が社会からの迫害を受けている。この場合にも、成人家族などで「監督責任のある場合」の社会の追究は仕方ない面もある。しかし、犯罪時に未成年の「責任応力のない子供」に対しては、やはりケアが必要だろう。

 ここで最初の議論に戻すが、この犯罪関係者の支援に対しては、私が上に書いた、1~4は優先度があるように思う。やはり被害者側の対策を優先し、その上で加害者側出ないと、大衆には心情的にも受け入れられない。しかし、個別に弁護士活動として、対応を考えるなら、

「一つ一つの問題の解決」

が優先する。本当に必要なモノは、全体を見て政治的な救済を考えることではないかと思う。

 なお、アメリカなどの場合には

「裁判結果を積み重ねて法律化していく」
「現行制度の不完全さを認め、判例で修正していく」

と言う

「国の成り立ちからの発想」

がある。このような国では、弁護士がまず動くのはあると思う。

 日本の場合には、

「ある程度完成度のある制度を求める」 

と言う政治風土などがあるので、政策として全体的な話を提案することが重要ではないかと思う。

 さて、この話と少し関連するが、昨日の「元少年院」タレントの戦慄かなのさんが、皆を率いてハロウィンで汚れた町のゴミ拾いをしている写真が出た。現在の少年法では、神戸の連続殺傷事件犯のように「どう見ても更生失敗」という事例もあるが、戦慄かなの嬢のような成功例もある。このようによい例も見せながら、多面的な議論が必要だと思う。

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