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2019年12月31日 (火)

「除夜の鐘」の騒音問題に関して思うこと

 近頃、

「除夜の鐘がうるさい」
「子供が眠れない」

等の理由で、年越しの除夜の鐘を止めたり、昼間に突いたりする寺が出てきたらしい。

 宗教の儀式を、ここまで苦情を付けて壊すのは困ると思っていた。

 しかし、よく考えてみると、本当の宗教儀式としての、除夜の鐘を突いている寺はどれほどあるのだろう?もう少し言えば、108の煩悩とは何か、教えることができる寺がどれほどあり、それを一つ一つ清める気持ちで突く寺が、どれほどあるのだろう?それが近隣住民に伝わっているんだろうか?

 もう少し意地悪い見方をすれば、

「お金を取って、参拝者に突かせる、寺の金儲け」

としか見られていないのではないかと思う。このような金儲け手段でしかないのなら、騒音に対するクレームが発生しても不思議はない。

 私はこの見方が捨てられない、理由は身内の葬式で以下のように状況になったからである。(私は喪主ではない。喪主は諸般の事情で、個人の遺産の範囲での葬儀しかできず、個人の遺産は成人後見人の管理下にあった)

 寺の主張は、前の親族の葬儀は「院号」が着くからX百万必要である。単なる大姉戒名ならX十万、と言うことであった。当然、成人後見人の立場では、家裁の裁定を意識して、高額葬儀などできない。そこで、大姉戒名となった。

 その葬儀では、陀羅尼が一つと、陀羅尼より短いお経が唱えられただけであった。(舎利礼文)

 世間一般の常識では、これを手抜きというと思う。

 このような「お寺さん」が、多くなれば「寺院崩壊」もあるだろう。

 年末になって、嫌らしい話になってしまったが、来年はこのようなことがないように、まともな信仰の年になってほしい。

 皆様よいお年をお迎えください。

2019年12月30日 (月)

ネット社会のリンチ状況について

 昨日の話に、少し追加する。

 現在のネット社会の一部では、個人の『正義感』による、リンチ的な行動がある。この問題について、単に『困った話』としたり、『大衆の成熟を待つ』などの言い方で済ましてはいけない、大きな問題が隠れていると思う。

 まずリンチという行動に関して、少し議論が必要である。リンチの歴史的な経緯を考えると、特にアメリカの開拓時の法律不備時代に、私的な刑罰が行われていたことが、語源となっている。ここで大切なことは、

「アメリカ人は、法律の不備を認識している。従って、『(刑)法で裁かれない罪』を処罰する方法を求めている。」

と言う側面である。これは、自ら凄腕の弁護士だったE.S.ガードナーが自作品の中で

弁護士の凄腕で、法の網をくぐり抜けて無罪になったのなら、住民のリンチに遭っただろう。

と言う主旨のことを書いている。

 このように、

「法律の専門家が勝手なことをするのは許さない」
加えて
「法律は不完全であると考える」

と言う住民意識が、リンチの底にあると思う。

 このような、法体系などの不備に対し、民衆からの動きが、ネット社会で生まれることは、必然的な面もあると思う。

2019年12月29日 (日)

裁判について思うこと 今の制度は完全ではない

 近頃裁判について少し思うことがあるので、まとまっていないがとりあえず書いておく。

 一つは前に書いた記事の延長である。つまり、刑事裁判は、

「被告 対 国家権力」

と言う争いになる。従って、弁護側はあらゆる手段でこれに対抗する。しかし、この図式に近頃ずれが生じている事例が見えてきた。つまり

「被告(加害者) 対 被害者」

と言う図式になっている。この極端な事例が、性犯罪と死刑問題である。

 性犯罪の事例では、確かに

「合意の有無」

が問題になり、弁護側の論法では、「被害者側の対応が不適切」などの主張をすることは、正当な弁護手段となっている。確かに国家権力相手の弁護ならこれでよいだろう。しかし、被害者に対して直接このような主張をする。しかも被害者側の主張を許さない場でこれを行う。このような形でよいのだろうか?特に、最悪のパタンは

「疑わしき葉被告人有利で無罪」

となった場合である。悪質だと思っても、証拠不十分なら無罪になってしまう。そしてこの無罪判決を証拠に、被害者に対して攻撃をかける。このようなことが起こりかねない。

 また、一部の性犯罪では、被害者側の弁護士が、

「裁判は大変ですから示談にしましょう」

と持ちかける例もある。確かに裁判は被害者側の負担も大きい。しかしその中は、被告側の弁護士が、被害者を追及する形になる負担もある。弁護士にとっては、普通の言葉でも被害者は傷つく可能性が大きい。このような状況で、示談を進めるのは問題が大きい。

 さて、もう一つは殺人事件等の、死刑の問題である。弁護側の立場では、刑を軽くするための主張もあり、

「死刑の残虐さ」

等を主張する。これは当然ある。しかしここで

「被告 対 被害者遺族」

と言う図式になったときには、被害者遺族が当然持ってよい

「復讐感情を否定される」
言外に
「あなたも凶暴な人間と言われる」

と言う、もう一度被害に遭うことも起こりうる。

 ある有名な殺人事件の被害者遺族は

「(被告も含めて)死者を背負う」

と言った。一方、その事件の弁護士は

「(被害者遺族の)XXさんの強い意志に負けた」

と言っている。これはどちらもおかしい。被害者遺族が、死刑囚の死に関して責任を持つべきではない。弁護士も言うなら

「国家権力に負けた」「検事側の強い意志に負けた」

と言うべきだろう。

 このように考えると、今の裁判制度もまだまだ改善すべきである。

2019年12月28日 (土)

52万アクセスの御礼

 先ほど、アクセスカウンターが52万を超えた。3月16日に50万アクセス超えだったので、8ヶ月で2万というペースである。一時期は、一日には200アクセスと言っていたが、少しペースダウンした。

 しかし、固定のお客様が見てくださり、正社員関連のページ、FTAとなぜなぜ分析、図と絵の違いなどのページに、色々な方がアクセスしてくださる。

 今までの読者に厚く感謝するとともに、より一層のご愛読をお願いします。

均一性の落とし穴

 先日、NHKの「あさイチ」で、中高一貫校の受験について取り上げていた。受験問題に関しては色々と言われているが、今回は多様性の経験という観点で少し考えてみたい。実はこの問題は、橋下徹元大阪市長が子育て論で指摘していた

「私学の中学・高校の出身者は、ひ弱な面がある。多様な人間に接する力が弱い。」

と言う議論について、自らの経験とも照らし合わせて思ったことである。

 私も、貧乏育ちであるが、幸いにも小学校の時に、算数の文章題を多く解く経験、そして本を読む経験があった。これが私を優等生への道を開いてくれた。さて、小学校中学校は順調だったかと言えば、そうともいえない面もある。いじめなどもあるし、色々と問題児も多くいた。

 その後、高校は公立だが進学校に進むことができた。そこではほっとしたことを覚えている。何か、人間関係でも、ある程度の均質さがあり、楽であった。ただし私自体が異端児であった。

 さて大学に進学したが、ここでも何となく違和感を感じた。どうも周辺の人の生活水準は、自分よりかなり上である。この人達の常識は、自分にはないものだと思う。確かに自分にも問題はあるが、大学の多数の人種にも、本当の貧乏人の気持ちなど理解できていないように思った。

 その後、会社に就職したときは、大手メーカーだから、多様な人間と触れるようになった。

 この利点が本当に解るのは、60歳を超えて会社をリタイヤする頃だったと思う。

 しかし、現在の政策を検討する霞が関の官僚の人たちの多くが、一流大学卒の有能な人材であり、このような均質性の罠にはまっているのではないか、これが心配である。

2019年12月27日 (金)

明治維新と第二次世界大戦での敗戦の共通点

 ここしばらく書いている、国家神道と平和の話について、もう一つ大事な話がある。それは、

「明治維新」と「第二次世界大戦での敗戦」

の共通点である。

 昨日までの話は以下を見てほしい。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/12/post-6d05be.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/12/post-40f81a.html

 今回の議論の要点は

「明治維新も先の敗戦も、国内で制度崩壊が起こっていて、
そのリセット手段を多くの人が求めていた」

である。

 まず明治維新に関しては、二つの面で制度疲労や崩壊が起こっていた。一つは、多きの人が認める「幕府の治安維持能力崩壊」である。つまり、黒船来航に対して、方針を打ち出せず決定力を欠いた幕府の迷走が、そのまま天誅乱発社会につながった、混乱社会である。一方、あまり注目されていないが、金銀の裏付けによる当時の各藩の財政は崩壊寸前であった。これを切り抜けるには、強い中央政府の信用に裏付けされた、紙幣の発行が必須なのに、徳川幕府の中央集権力は低下していた。

 「これを解決するために、強い明治の政府の出現を、多くの人が無意識的に望んでいた。」

これが明治維新の成功理由だと思う。

 一方、第二次世界大戦の後半では、日本の敗色は明らかであった。ただそれを誰もが言わない「空気」がある。変に、立憲制度を作って、法に縛られたため、昭和天皇ですら戦争が止められない状況は、制度破壊である。しかも、皆が飢えに苦しんでいた。

 「これをリセットしたのが、マッカーサー大明神の支配」

である。このような図式化してみると、明治維新と先の敗戦は、かなり似た形になっている。シニカルに言えば

「明治維新の成功体験が無意識にあり、それがアメリカの支配を受け入れた」

と言うべきだろう。

2019年12月26日 (木)

国家神道と第二次大戦での敗戦の関係

 昨日書いた記事に関連して、一つ大きな思いつきがあった。それは、

「太平洋戦争敗戦後のGHQ支配も国家神道の延長である」

このことは、実は山本七平が、

「マッカーサー大明神」

と言う形で指摘している。私も、山本七平の著作を読んで、戦後の「マッカー万歳」の「空気」に関する著作で、苦笑いをしていたが、よくよく考えると、

「GHQの支配は国家神道の枠組みを上手く乗っ取った」

と言うだけではと思うようになった。この件を象徴するのは

「昭和天皇とマッカーサーの写真」

である。これは

「神の交代のシンボル」

と見ることができる。

 このように考えると、アメリカがイラクなどの戦後処理に失敗する理由もよくわかる。

 日本では、きちんとした国家神道の仕組みがあったので、それに乗っていけばよかった。しかし、そのような仕組みがない国を、統治する智慧がアメリカになかった。これが、アメリのかの支配の失敗の原因ではないかと思う。

2019年12月25日 (水)

国家神道は本来平和的なはず

 昨日書いた裁判の話に関連して、一つ考えておきたいことがある。それは明治の世の中に、国家神道が誕生した経緯である。日本人は、幸せなことに、外からの侵略者の支配は、戦後のGHQ支配の一時期以外は経験していない。そこで、大衆は

「無邪気に、お上の善意を信じる」

傾向がある。水戸黄門が、その典型であるが、勧善懲悪型の話を喜び、勝者の側から書かれた話をそのまま受け入れる。

 これは、支配者にとっては都合のよいことであるが、支配者が決断できないような状況になると、

「神々の対決状況」となり「勝てば官軍」

となってしまう。明治維新の時には、黒船来航という大事件に、幕府が狼狽して判断力を失う。更に、強権政治を実行しようとして、大老井伊直弼が桜田門外の変で、水戸系の浪士により暗殺されてしまう。

 この後は、主義主張を通す人間が、相手側を「天誅」と殺す事態になってしまった。

 結局これは、明治天皇を報じた新政府側の勝利で事態が収束する。

 ここで大事なことは、

「天皇の権威の前に皆が従った」

と言うことで、主義主張の争いに関しても、

「天皇陛下のご意向」

という最終的決定手段が生まれたことである。

 つまり、

「神々の争うによる殺し合い」を避ける「絶対的な神の存在」

として、天照大神からの由緒正しい、現人神が皆に影響して、幕末の殺伐とした世界が、平和日本への動きとなった。

 このように考えると

「国家神道の出現は必然的」
であり
「本来の国家神道は平和を願った」

と言う議論ができると思う。

2019年12月24日 (火)

知恵と知識の違いについて裁判の形態で思うこと

 近頃のニュースとして、性的暴行(物理的な話だけでなく飲酒などのからみも含む)の話を考えていると,知恵の働きの大きな問題とつながった。

 まず,裁判の話で議論しておくと,刑事裁判と民事裁判の違いである。刑事裁判は、被害者が国家権力にお願いして,加害者を処罰してくれという発想から始まる。もう少し踏み込むと,被害者が復習する権利を国家が取り上げて,代行して処罰するという制度である。そこで裁判の形式は

   被告人 vs 国家

と言う図式になる。この場合は、「国家」の権力が強いから、被告側の弁護人は

「あらゆる手段で被告の権利を守る」

行動を取る。また裁判の原則として

「疑わしくは被告人有利」

がある。

 しかし、性犯罪の場合には、この「被告人有利」がとんでもない副作用を生む可能性がある。つまり、

「無罪判決をもって加害者が威張り出す」

危険性がある。つまり

「裁判で被害者との合意が認められた」

と主張し出す危険性がある。これは被害者にとって,セカンドレイプの可能性が大きな問題である。

 ただし、日本の司法運用には,変に曖昧なところがある。刑事裁判の結果を先延ばしにする不起訴対応である。ここで大事なことは

「不起訴は無罪ではない」つまり「一事不再審の原理は不成立」

と言うことである。実はアメリカでも、検事側が途中で不利を認めたら、裁判長に棄却を求めて、中断する手法もあるらしい。(ペリーメイスンシリーズの「吠える犬」の話は詳しい)

 そこで、性犯罪への対応は、被害者側が民事訴訟で訴える手がある。確かに懲役などは期待できないが、高額賠償金で社会的制裁を与えることができる。この場合は、

原告 vs 被告

と言う,平等な人間同士の戦いであり、お互いの弁護士同士の戦いで,立証責任もお互いになるので、刑事事件のような一方的な主張に反論できない被害者状況ではなくなる。少なくとも、性犯罪に関しては、このような民事的な追求で、被害者保護を重点に救済する手段を考えてもよいのではと思う。確かに民事裁判の負担は大きいが、少なくとも金銭的な負担を加害者に負わせるような仕組みで、性犯罪者被害者の救済を行うNPOと弁護士の組み合わせはよいのではと思う。

 さて、この刑事と民事のちがいは、法律の発想について,大きな違いがある。刑事裁判というのは,既に決まった法律で裁くのが原則である。一方民事の場合には,個別の事例に対して,お互いの主張ぶつけ合い、どちらがよいかを決める作業である。ここで,判例を積み上げて法律化していくこともある。

 この発想をもう少し図式化すると、

刑事裁判:お上が全て考えて作った法律が存在
民事裁判:その時皆が考える

となる。刑事裁判的発想には、

「(昔の)偉い人が考えた者が正しい」

と思考停止になる危険性がある。

 現在の状況に対して,智慧を巡らして考える。この発想が大事だと思う。

2019年12月23日 (月)

智慧の伝達方法としての仏の姿

 昨日書いた知識と知恵の問題に関して、真言宗などの仏教の密教に関して少し議論する。

 真言宗などでは、昨日書いた大円鏡智などは、それぞれを如来の形で伝える。これを五智如来という。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/五智如来

 さてこのように、知恵の働きを「如来」という、仏の姿で表すことの利点について少し考えてみた。このような如来は、色々な教えを説き、人を救う行動ができる。一つ一つの智慧を、言葉で説明するのではなく、それを実現する如来として伝える。こうして応用範囲の広い「智慧」についての伝達ができる。

 この伝達方式は、西洋文明では、古代ギリシャのプラトンが否定した

「詩による伝承」

と通じる。つまり

「ホメロスの詩で描く、英雄の行動から、勇気などを知る」

である。しかしながら、プラトンが描いた

「ユークリッド幾何学のようなきちんとした定義や論理展開」

で伝わる物は、「知識」が多くなっていく。

 こうしたことを考えると、その行動を体現した仏の姿を描き、自分をそれに近づける。または、自分のなかにある、そのような力を感じることは、有効な修行法だと思う。

 これを、

「単なる偶像崇拝」

と否定するのは西洋文明的な落とし穴にはまるように思う。

2019年12月22日 (日)

知識と知恵の関係

 仕事が出来る人材について考えていると、知識の有無よりも知識を使う知恵の有無が大切だと改めて知った。誰かが作り上げたモノを知る知識、しかしそれを現実の世界に合わせて、使えるようにするためには知恵が必要である。また、実世界での体験に対しても、その中での因果関係や、創刊的な関係を見いだすためには知恵が必要である。

 一般に、学問の場では、知識を手に入れるとともに、その知識を生み出す先人の考えを知ることで、知恵の働きを知ろうとする。例えば、電磁気学の勉強では、静電気のクーロン力から、電磁気関係の経験法則を一般化し、数式的に記述できるようして行く.そして最後は、マックスウェルの方程式に収束させる。一方、別の流儀では、最初にマックスウェルの方程式を教えて、現実の現象を説明する問題演習を行っていく。

 この二つの流れでも、教えられたことを暗記するだけなら、知恵はつかない。しかし、何とか先人の考えを理解し、自分で説明できるようにすれば、知恵の働きが見えるようになる。

 さて、知恵については、大乗仏教が面白いことを言っている。

「転識得智」

である。大乗仏教は、私たちの考える意識の裏にマナ識・アラヤ識という大きな無意識の存在を考える。これを単なる情報の蓄積と考える状態から、構成する智慧に転じていく。例えば,全ての経験や宿業の入っている「アラヤ識」を

「全てを清らかに映す鏡のような、大円鏡智に転じる」

自我等から選ばれた「マナ識」は

「誰みが平等な機会を見いだす。平等性智に転じる」

私たちが考える「意識」は

「必要なよいモノを見いだす,妙観察智に転じる」

そうして,五感などの働きは

「実現するために、色々と努力する,成所作智に転じる」

と,与えられる知識から,自分が主体的に見いだし,作っていく智慧に転じていく。

 このような智慧が現在必要ではないかと思う。

2019年12月21日 (土)

鉄と島国の関係

 日本は、6世紀頃から「たたら製鉄」を行って、鉄の道具を色々と使っている。一方、西洋文明を見ると、いち早く青銅の世界から抜けて、鉄の道具に切り替えたのがイギリスである。両者の共通点は、大文明の辺境の島国という点である。

 文明の影響を受けて、色々な情報は入ってくる。しかし、モノの流通には色々と苦労する.これが辺境の島国である。そこでは、分業的な対応や流動的な人の流れも、ある程度制限されてくる。このような状況で

「一所懸命」

が成立する。つまり、

「自分たちの手元で手に入る最善のモノを使い、可能性を拓いていく」

努力を多くの人が行うようになる。また先行文明の

「よいとこ取り」

も可能になる。またこれに加えて、

「持続的な成長可能性」

を考えるようになる。

 そこで、「たたら製鉄」の事例で考えると、鉄鉱石または砂鉄の採集作業では、山を削ったり、川を砂で埋める等の環境破壊がある.沙汰に製鉄に必要な木炭も多くの木材を必要とする。このような環境破壊を見ながらも、鉄の力を活湯して行く。こうして、利益と損失のバランスを総合的、長期的な視点で見るのが

「一所懸命」

の成果だと思う。こうして、全てを自分の問題として主体的かつ総合的に考える。このような人在が地方の活性化に必要である。

2019年12月20日 (金)

地方の活性化のためには歴史の勉強が必要

 地方の活性化のためには、その地域に住んでいる人たちの

「誇りの活性化」

が大切である。さて、このようなことを、わざわざ言わないといけないのか?

「お国自慢」

と言う言葉がある。しかし、この言葉が大分力を失ったように思う。この理由と言うか、犯人の一部は明確である。つまり

「第二次大戦後の高度成長を指導した通産省」

である。第二次大戦での敗戦国日本の復興のため、敗戦原因である重化学工業と電機産業を強化する。そのためには、多くの熟練工を確保して、物作り日本を造る。これが、通産省のエリート達が描いた構図である。そのために、東京を中心とする大都市に、労働力を集中させて、大規模工場の力で技術的な突破を行う。突破した後は周辺にも波及が生じて皆が豊かになる、いわゆるトリクルダウン発想である。

 そのために、

「東京への憧れ!」

を全国にすり込むようにした。例えば、業界団体の中心はできるだけ東京に置くようにする。繊維業界の団体の本部が大阪にあったが、色々な圧力で東京に持ってこさせた。またマスメディアでは、東京のキー局に力を持たせる様にして、

「東京文化への憧れ」

を持たせるようにする。例えば、アナウンサー採用でも、東京のキー局で落ちた人間が、大阪などの準キー局に行く、そこで落ちれば更に地方へと回っていく。

 このような形で、中央への憧れをすり込んできたのが、戦後の体制である。

 しかし、現在は多様化しているし、大量の熟練工依存の物作りは限界になっている。つまり、トリクルダウン理論は成立しない。

 そうなると、もう一度

「地域の誇り」

を取り戻す必要がある。このため、20世紀以降の色々な刷り込みの危険性を排除し、もっと昔の先祖の智慧を知ることが大事ではないかと思う。実際、江戸時代には各藩独自の産業政策で繁栄した場合もあるし、開拓なども独自で行っていた。この地域の智慧を、明治以降は中央官僚の知識が押さえ込んでいったのである。

 このように、歴史を見て、地域のよいモノを見いだすことが、地方創生の原動力になると思う。

2019年12月19日 (木)

リチウムイオン電池の環境問題への活用について

 ノーベル賞がらみで、リチウムイオン電池の環境問題への貢献が色々と議論されている。実はこのブログでも2010年の8月に書いた記事があった。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-7944.html

この記事で議論したのは、

「通信技術で起こったように、電力の配電などでも、
蓄積交換の発想が使えれば、送電線等が有効活用できる。」

であった。確かに1970年代までなら、電話の回線も回線交換方式であり、通話中は一対一でお互いが電線を占有していた。現在は、情報を詰め込んだ、パケットを伝送することで情報を詰め込み、電線や電波の通信路を有効活用している。これと同じ発想が、電力でもできないかという議論は、昔からあった。

 しかし、通信の世界でパケット伝送が実用化したのは、大量のメモリが安価に使えるようになってからである。現在の技術では、電力の蓄積はまだまだ手軽にできるとはいえない。もしこれができるようになれば、確かに送電線の有効活用ができるだろう。

 ただし、リチウムイオン電池による電力の蓄積ができれば、もう少し別の形で環境問題への貢献ができるだろう。今すぐ思いつくのは、以下の二案である。一つは、ピークカットによる設備投資の最適化である。もう一つは、不安定な電源の活用である。

 ピークカットという話は、現在の電力供給は、蓄積が難しいために、最大負荷の対応力を設備として持っている現状を変える話である。この議論は

「XX電力は、真夏の数日の午後一時から四時までの負荷ピークに応じた設備投資をする。」

と言う状況の裏返しで、

「その設備は大部分は遊んでいる」

と言う状況を避けるため、

「そのようなピーク時は別にためた電力を使う」
「これで設備を減らせる」

と言う効果がある。またもう一つの面は、昼と夜の負荷アンバランスを避けるため、電池で平準化を行えば、火力発電などは、ボイラーの温度を一定しにた、最適運転を行うことができる。これで節約できる燃料は大きい。

 さてもう一つは、不安定な電源の利用である。太陽光発電にしろ風力発電にしろ、自然の気まぐれで発電量は変化する。これは電力の供給手段としては困った性質である。現在は、電力会社からの電力を、負荷変動に合わせて取り込むことで対策をしているが、これをいったん蓄電して置くことで、変動が少ない供給源とすることができる、不安定な塵も、たくさんまとめて山とすれば、そこから安定して使うことができる。

 このような活用策が見えてくると思う。

  なお以下の議論も参考にして欲しい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-08e7.html

 

2019年12月18日 (水)

解決できない問題にも向き合わないといけない

 先日、暴力を伴う発達障害者の息子を殺した事件の判決が出た。この判決に関しては、もっと軽くてよいのではと言う感じもするが、これでよかったのかなと言う感じもする。人の命を奪う重みを十分に感じている、被告に軽すぎる刑は、自殺などの危険性も否定できない。確かに、悪質な交通事故で人を死に至らせた人間より、重い刑と言うことには引っかかるが・・・

 さて、この事件に関連して、まず思い出したのは、

「長崎の発達障害の高校生による殺人事件」

である。この事件は、女子高校生が家庭内での暴力行為を行っていたので、

「医者のすすめで別居した」

結果、その子の殺人の衝動は他の人に向かい、

「同級生を殺した」

と言う最悪の結果となった。しかも、この事件では、父親は責任を感じて自殺したと聞く。

 この話が、上記事件の父親の頭に浮かんだ可能性は大きいと思う。彼が思ったことは

「医者のすすめで別居して、他人を殺す事態になるなら、自分の手で殺した方がまし。」

と言うことではなかろうか。

 この問題に関して、長崎の事件の反省、そして京アニの放火殺人事件の反省が、

「危険な精神疾患の持ち主への対策」

として生かされているのであろうか?この問題では、予防的な拘束をもっと行うべきであり、特に予兆である軽い犯罪に関しても、きちんと身柄を確保し、安全性が保証できなければ、外に出さないという、対策が必要だと思う。

 なお、この問題に関してもう一つ大きな話がある。

発達障害という言葉の乱用

である。他人に対して攻撃性を持ち、特に重症な障害を与えるような「発達障害」という人は、比較的少ない存在である。しかし、マスメディアが大きく

「発達障害」

と言うことで、世間を惑わせている。また、事件の弁護手段として、

「発達障害だから刑を軽くしろ」

と言う主張ばかりが報道されている感じもする。

 もしここで、

「発達障害者なら人を殺しても責任は問われない」
ならば
「発達障害者が攻撃してきた時反撃して殺しても、器物損壊のレベルの罪でしかない」
(犬にかみつかれたときその犬を殺した扱い)

となってしまう。

 このような重い問題があることを考えて、総合的な議論が必要だと思う。問題に目をつぶると、対蹠的な話になってしまう。 

2019年12月17日 (火)

昔の議論における「山上」の意味

 このブログで、何度も強調している「総合的な視野」の持ち方について、今朝一つ思いついた。

「お経でお釈迦様が霊鷲山上や虚空で法を説く意味」

「上空から見ることで全体を観る」

ことを示しているのではないか?

 現在の私たちは、色々なメディアにより、遠くの物を見たり、上空から全貌を見たりするのは、当たり前だと思っている。

 しかし、よく考えてみれば、昔はこのような見方は難しかったと思う。NHKの大河「真田丸」で、真田昌幸が関ヶ原の結果を、忍びから聞いて驚くシーンがあった。このように、その場を見た人間から教えてもらわない限り、その当時は状況を知ることはできない。現在のリアルタイムで何事も見える世界は数十年前にもなかった。真珠湾攻撃が奇襲と言われているが、1940年頃なら、大きな艦隊が太平洋を渡っている姿を、当時の先端技術を持っているアメリカですら探知できなかった。

 このように考えると、山上からの見晴らしというのは、

「広い視野で考える」

大切な機会であったと思う。

 そう言えば、京都の周りには比叡山や鞍馬寺など、都を一望する山の寺がある。

 これも全体を観て修行し、多くの人を救うようにという開祖の思いかもしれない。

2019年12月16日 (月)

北朝鮮への帰還事業に関して昭和の証言

 北朝鮮への帰還が失敗であり、帰還者に悲惨な体験をさせていることは、現在の共通的な認識になっているらしい。

 しかし、昭和の30年代に生きていた人間にとっては、これを報道するマスメディアの姿勢に、憤りを感じる。当時のマスメディアと言っても,私の家は貧乏だったからラジオしか聞かなかったが、ニュースの雰囲気は以下のようだった。

朝鮮民主主義人民共和国への帰還事業が始まっています。
それに対して大患民国系の人たちが座り込みなどで妨害しています。

つまり、

「北側が善」対「南側が悪」

と言う図式である。もう一例は

韓国への帰還の船が出向しました。
これに対して、北側の人も見送りに来ていました。

と言う報道もあった。

 つまり

「暴力的な南」対「紳士的な北」

と言う表現である。このような報道をしたマスメディアの責任は大きい。

 ただし、当時は李承晩ラインの影響もあり、韓国側に拿捕された人もいた状況であり、韓国に好意的でなかった時代背景もある。

 もう一つ言えば、韓国からの工作員は、アメリカの意向もあり、日本には簡単に侵入できたので、色々な活動ができた、これは、北側施設なでへの破壊的な工作もある。一方、北側にはアメリカの目も厳しかったので、日本での破壊工作などは目立たなかった。また、韓国自体の民主主義は育っていないかったこともある。

 これらの状況も加味して考えるべきであるが、昭和のマスメディアは、戦後も色々と世論誘導をしていた反省をすべきだと思う。

立法と行政の分担について

 昨日書いた、議会などでの議論に関して、もう少し考えて見た。今回の切り口は、法律と言う形を決める立法府の役割と、現実の問題を解決しながら実行する行政官庁や司法との分担である。確かに、議院内閣制という制度なので、行政の長が国会に色々と問いただされることはあるだろう。

 しかしながら、あまりにも細部の議論を国会で行うことには違和感がある。例えば、台風の対応など、地方の行政が対応すべき話を、内閣に国会で質問する等である。また、選挙違反の話を聞いても、あまりにも細かく法律で決めすぎているように思う。

 この問題は、大きな方針を決める法律の役割と、具体的事例に対応する、行政や司法の立場の分担をきちんと理解していないから起こる。もう少し言えば、事例をつみあげて法律に仕上げていく仕組みも必要だと思う。

 例えば、ハラスメント問題や、ヘイトスピーチの問題は、まずは民事訴訟で事例を積み上げ、その後で法律化する「判例法」という考えもよいのではないかと思う。

 いきなり、色々な細部まで含んだ話を全て調和させた法律を作る、これは専門家にしか出来ないかもしれない。しかし、一般論だけの議論なら、多くの人が参加できる。このような分担も考えるべきではないかと思う。

 

2019年12月15日 (日)

本当の議論はどうあるべきか?

 昨日書いた、イギリスの混乱などの主たる原因は、民主主義政治の悪い結果だと思う。しかし、少し深く考えてみれば、

「本当の民主主義はどのように運営されるべきか?」
「まともな議論とはどのようなものか?」

と言う問いが出てくる。この答えがないなら、民主主義というモノが本当に成立しなくなる。

 ここでまずまともでない議論はどのようなモノか考えてみよう。一つのパターンは

「とにかく欠点だけを追求して足を引っ張る」
「あわよくば相手の政治生命を絶って引きずり下ろす」

と言うパターンである。これは、現在の一部野党の質問や、一部メディアの行動にも見える。また、韓国の大統領に関しては、実際自殺に追い込まれた例もある。このような行動を取られたら、

「防衛として全否定に走る」

と言う対応になってしまうのは当然である。

 さて、もう一つの形は、従来の自民党内などに見える

「色々な意見を出しているが、最後は有力者に一任する」

形である。これは前の「殺し合い型」よりは一歩進んでいるが、「密室の中で決まる」という点では、本当の民主主義とはいえない。

 さて、これらの形の議論では

「優れた者の判断が多くの人を支配する」

が根本にある。これは民主主義の平等性の精神と根本的に違う。

 本当の民主主義の議論は、

「色々な意見を公開し、その上で提案内容の利点と欠点を明らかにしながら、
皆ができるだけ妥協できる答えを作り上げていく。」

形が必要だと思う。

2019年12月14日 (土)

決められないよりは不本意な選択でもまし

 英国の選挙が終わった。結果は保守党の勝利だが、この後ろにある大衆のうめきが聞こえてくるように感じる。私が観じたのは

「決められずに前に進まないのは困る」
「不本意な決定でも進む方がよい」

と言う声である。

 この後ろには、EU離脱を政争の具として、

「とにかく政権にある者の足を引っ張る」

と言う動きがあり、政治が前に進まなくなったからである。このような状態になると、中間的な人は

「何でもよいから決断してほしい!」

となっていく。更に確信を持って一つの意見に執着している人以外は、

「不本意な決定でもないよりまし」

と言う状況になってしまう。

 ただし、このような状況が続くと、民主主義自体が崩壊していくだろう。

 日本の政治でも同じようなことが起こりそうである。

 特に、単純な問題として、一度謝罪すればよいことを、追求を重ねて、相手の政治生命を取ろうとする動きがある。これは政治家と、一部のマスメディアの中にいる、原理主義者的な人たちである。これを受けて、政権側では、何が何でも否定という議論となってしまう。

 間違いは正し、修正したらそれで次に行く、このような基本的なことができていないから、政治は混乱すると思う。

2019年12月13日 (金)

見えないところで決まる不満

 日本の刑事裁判での有罪率は99%を超えるという、異常な高さである。しかし、これに対してある司法関係者は、

「その前に検察の段階で不起訴にしている。
疑わしきは罰せずの原則は成立している。」

と反論していた。確かにこれは一理あるように思う。裁判にも費用がかかるし、それは国民の税金も絡んでいる。そこで、

「わざわざ敗訴になる裁判をすることは、税金の無駄使い。」

と言う論法である。また、専門的な話では、

「一事不再審の原理により、無罪が出てしまえば、後からどれだけ証拠が出ても
罪に問えない。不起訴ならもう一度訴追できる。」

と言うテクニック的な話がある。(トランプ大統領の弾劾でも、一度否決されれば次の弾劾はできないと同じ)

 しかし、この話が検察の中だけという、一般人に見えない密室で決まることへの不満は大きい。

 さて、この話は他にもあった。

「日本の政治は自民・公明の与党が強いので、
国会議論は意味をなしていない。
多様な意見が吸収できていない。」

と言う批判に対して、ある自民党議員は、

「自民党の部会の中できちんと議論し、多様な意見の妥協案を探っている。」

と説明してくれた。確かに、昔の自民党には派閥があり、その中では実質上の政権交代的な変化もあった。また派閥間の議論は激しいモノがあった。

 しかし現在の、自民党内での議論は一般大衆には見えてこなくなっている。この問題は、マスメディアの取材力の低下もあるだろう。

「週刊XXの記事について大臣のご意見を?」

等と質問する記者がいるらしい、「自分で取材しろ」と指導する上司がいない現在のマスメディア大手の状況らしい。

 さて、このような結果だけ見せる形の原型はどこにあるのだろう。私は

「江戸時代の将軍に見せる将棋対局」
(事前に対局し将軍の前では棋譜通りの駒を動かし見せるだけ。
考慮中の姿は退屈なので見せない)

に原型があると思う。

 しかし、このようなすらすら流れる対局ごっこを見ても、本当に強い将棋指しは出てこない。

 この教訓をしっかり考えるべきだろう。

2019年12月12日 (木)

物語としての伝承を超える

 このブログで何回か取り上げている、『物語としての伝承』は、総合的な視点での思考法を育てる有効な手段だと思う。しかし、これを使いこなす人財を育成するためには、もう一歩進むべきではないかと思う。

 私の現在のアイデアは、

『人格を生み出す』

ことである。

 その状況に応じて、適切な行動を取った人、その人と同じような考え方になる。その人の価値観や、それまでの経験的なモノを引き継ぎ、色々な状況で同じような行動をする。これは、

「XXさんがこの場にいたらどうしただろう」

と言う言葉と同じである。

 しかし、これは既に大乗仏教、特に密教では行われていることである。

 如来や菩薩そして明王の力、これを自分の中に観じ、ふさわしい行動をしていく。『慈悲』と言う概念を、皆を救う観世音菩薩で観じて、自分おなかに観音様を見いだす。

 このような発想で、理想的な人格をきちんと描き。その行動を自分が行えるようにする。この気持ちが必要ではないかと思う。

2019年12月11日 (水)

古代の鉄器について

 昨日の続きで、古代の鉄についてもう少し考えてみた。弥生時代の鉄器は、

「朝鮮半島などから輸入した」

という学説が有力である。確かに、当時の日本の技術水準と、大陸の技術水準には、大きな格差があるので、弥生時代の火力では、製鉄ができなかったから、鉄器は輸入品であったという意見には納得する。

 しかし、この意見には、

「当時の流通状況を考えると、大陸から大量の農具が運ばれたのだろうか?」
「交易手段はどのような形か、物々交換の代償はあるのか?」

と言う疑問がある。現在の環境では、流通がしっかりしていて、貨幣経済も成立しているから、『よい品を安く』作れるところからっちょうたつすることは理にかなっている。しかし、当時の丸木舟が少し進化した船で海を渡る交易では、貴重品しか入手できなかったであろう。

 ただし、ここから

「日本の技術で鉄が生産できた。農具も日本で生産した。」

と言い切るのも危険である。少なくとも、模範となる鉄器は、大陸からの輸入品であったろう。そのためには、奴隷などの貢ぎ物をして、鉄の道具を下げ渡されるという関係であったと思う。しかし、このような模範品を見て、自分たちの力でなんとか同じようなモノを作る。これが私たち日本の先祖の力であったと思う。

 「古代の鉄と神々」の中には、

「800度程度の熱を加えて、鉄を鍛造する。」
つまり
「弥生式土器製造と同程度の温度での鍛造が可能」

と言う可能性を示している。

 このように、量的な実現性を説明する議論も大事だと思う。

 なお、全てが日本製という議論にも、難点がある。やはり模範品を大陸の文明国からもらったのだろう。

 1か0かという極論でなく、色々な妥協を考えると現実の姿が見えてくると思う。

2019年12月10日 (火)

古代のメディアとしての祭り

 ちくま学芸文庫の「古代の鉄と神々 」真弓常忠著を読んだ。

 色々と深い教えがあるが、今回はこの本の

「古代の伝承は祭祀に伝わる」

という主張について考えた。

 これは、昔の状況を考えると、紙などは貴重品であり、一般大衆に文字を知る人間は少ない。従って、言語体系もそれほど成長していない。

 また、紙が貴重品と言うことは、絵を描いて広く教えることも難しい。そのような状況では、祭りへの参加を通して伝承していくことは、貴重な機会だったし、祭りというモノはとても有力な伝承メディアだったと思う。

 これは、プラトンが「国家」で描いた

「詩人による伝承」

にも通じるモノである。祭りのなかにでは『詩』が歌われる。そしてそれを芝居等の形で再現していく。

 また祭りには、多くの人が参加していく。このように参加という形で、主体性を持って、自分のがその中に身を置くことで、色々と感じ取っていく。これは、文字という記号上での厳密なる伝承とは別の、総合的な伝承手段であると思う。

 プラトンが、西洋文明を得るために、押さえ込んだモノを、祭りを通して私たちは見直すべきではないかと思う。

2019年12月 9日 (月)

地球温暖化の問題に関して海をどう考えるか?

 地球温暖化の問題で、「日本は石炭火力を使っている」等と責められている。

 確かにCO2排出量が大きい石炭火力発電を運転させることは、環境問題的にはよろしくないだろう。しかし、燃料として存在する、石炭を使わないと言うことも、もったいないことである。従って、出た以上のCO2を吸収する仕組みを考えることも重要な施策だと思う。

 CO2の処理と言えば、緑化という手段がある。食物の力で、CO2を吸収分解してもらう。これは有効な手段だと思う。そのためには、砂漠の緑化や、森林の保護などへの取り組みも重要である。緑化のためには、水をどのように確保するか、これが進むと多くの地域の食糧難にも役立つ。

 さて、緑化と言う言葉だけでは見落とす、大きな世界がある。それは海である。地球の半分以上を占めている海、そこには多くの植物性プランクトンもいる。植物性プランクトンがCO2を吸収している効果も忘れてはいけない。しかしながら、この植物性プランクトンは、どうも減少傾向にあるらしい。この問題を新家に考えるべきだろう。

 確かに、温暖化で海水温の上昇の結果、海の植物プランクトンが減っている、と言う仮説もある。

 一方、日本近海などでは、水がきれいになりすぎて、栄養分不足が起こっていると意見もある。

 これらの説は、色々と絡み合っているので、総合的な検討が必要である。まさしく全てを飲み込む海であり、そこから多くのモノが生み出される海である。このような対象には、部分的な議論ではなく総合的な観点での議論が必要になる。

 一方的な主張では、海の問題は解決できないように思う。

2019年12月 8日 (日)

原因結果の関係をしっかり表現していないから読解力テストがだめになる

 今朝の朝日新聞の #天声人語 を読んで、違和感を感じたのは私だけだろうか?今日は12月8日で、太平洋戦争開戦の日である。真珠湾攻撃でもあり、マレー半島への強襲上陸の日でもある。このようにして、英米に対して戦いを挑み、悲惨な敗戦に至る一歩を踏み出した日である。

 さて今朝の天声人語の論調は、戦争開始前には

  「アメリカと戦って勝てるわけがない」

と言っていたが、戦争が始まると熱狂に巻き込まれたと書いている。

 しかし、この問題のすくなくとも1/3は,当時の新聞に責任がある。

 当時の戦争は「空気」が起こし、「空気」が講和への動きを止めた,と言う議論は山本七平の意見である。その後空気の県境も少しは進み、有力な説は、

 『空気』は、『権力』『マスメディア』『大衆』の、少なくとも2極が動くことで発生する。

である。つまり3極の一つ、マスメディアの責任をきちんと反省せずに、軍部だけに責任を押しつける。この姿勢が、

 「正しく原因と結果の関係に向き合わない」

姿勢とつながっていると思う。

 これでは #PISA の読解力試験で、悪い成績になっても不思議はないと思う。

2019年12月 7日 (土)

昔の欲と現在の欲

 昨日書いた歴史の話に関連して、私たちの現在社会の複雑さを考えてみた。今私の前には、胎蔵曼荼羅がかかっている。これは、慈悲と理智を上手く配置した、システム思考の教本としてもよいと思う。しかし、この曼荼羅で、人間の知識はどこに収まるのだろう。「般若の智慧」という「智慧の場所」はある。しかし、「学校教育などで得た知識」が、私たちに色々な影響を与えている。このような、現在社会になって積み重なってきたモノは、昔にはなかった。

 曼荼羅だけでなく、仏教の教えには、貪欲・瞋恚・痴愚の三毒をなくせという。しかしながら、仏の教えや大乗仏教の教えの時には、よくと言っても、個人的な食欲・性欲などの生存のための欲が中心であった。しかし現在は、社会のシステムが複雑化し、これを運用するために、人間関係にも序列化などが行われている。

 このような状況で色々な欲が増えてきている。出世欲・名誉欲など・・・

 このような複雑化した「欲」への対応は、単に「障害を除く」または「蓋を除く」という対応でよいのだろうか?

 胎蔵曼荼羅を見て、

修行の障壁を除くためにはどうすべきか?
自分の知識が造った世界はどこにあるのか?

の答えを探している。

2019年12月 6日 (金)

歴史を学ぶことは先人に敬意を表し自分たちの誇りを取り戻すこと

 歴史を学ぶと言うことは、その時にあったことを学ぶことでだけではないと思う。その時代に何があったか、その時代の人が何を考えたか、色々と学ぶことでもある。私は、現在の多様化した価値観の時代こそ、歴史を学び、自分たちと違う環境での「その時代での知恵の働き」を知る。このような経験が重要ではないかと思う。現在のように、便利なモノが少ない、社会インフラもない、そのような状況で、生き残るために色々な考えを出し工夫した先人達の功績、これを見ることが大切だと思う。

 現在の歴史教育は、客観的な内容を重視し、結果だけに執着している。従って、「戦って勝ったのは誰だ」と言う話や、「XXは何年だった」という、年表に毛が生えた内容で試験が行われる。もう少しましな形になると「XXの理由は何か?」という形の記述試験になるが、それでも単純な因果関係に帰着する問題が多い。

 私は歴史を学ぶとは、

その時代を想像し、その環境でどのような考えで行動したか、自分をそこに置いて考える。

修行だと思う。

 歴史を物語としてみる。しかもその環境は現在と違う。例えば、弥生時代を考えると、鉄はとても貴重であり、農具としても限られた使い方になっただろう。このような状況での生活を考える。そこで、

「土地を耕す場合には、畑より水田の方が柔らかく作業しやすい。」
「鉄を使って木製の農具を作れば多くの作業ができる。」

等色々と想像できる。

 こうした先人の苦労を知ることが、本当の歴史ではないかと思う。

 こうして先人の知恵を知れば、彼らに対する尊敬が生まれる。そのような智慧ある民の子孫としての誇りも生まれるだろう。

 地域活性化には、その地の先人の智慧を知り、その子孫としての誇りを持つことも重要だと思う。

2019年12月 5日 (木)

唯一絶対の正解を求める教育の原点は明治維新後の新政府にある

 昨日書いPISAの読解力試験の最後の問題に関して、正答率が悪いと言うことで色々と論評されている。私は,この問題の正答率の低さの一要因として

唯一絶対の正解へのこだわり

があると思う。

 この問題の正解例を見ると、

  1. 人間原因説
  2. ネズミ原因説
  3. 判定不能

のどれでも、

根拠と結論の関係がしっかりしていれば正解

となっている。しかし、日本の学校教育では,少なくとも高校ぐらいまでは

『唯一絶対の正解』

を求めるような,価値観が支配している。芥川の『藪の中』のような作品もあるが、それでも『正しい犯人』を求める人は多い。

 さて、このような正解にこだわる教育は、どうして生まれたのだろう。私は,この原点を明治維新後の新政府の教育体制にあると考える。明治維新の種々の状況が重なって、このような『正解主義』教育が生まれた。

 まず一つ目の理由は,文明開花が,

「西洋の先進文明への追いつけ型」

であった。追いかけるのだから,先行した正解を求めるだけでよい。二つ目は、このような情報を急速に普及させるためには、多くの指導者を確保する必要があった。そのため、

『お上が決めた正解を詰め込む』

ことができる教師をそろえて、学校教育を確立していった。(根本的な思考ができる人材は、一部の限られた人である)

 さて、ここでもう一つ、正解主義の推進者とその動機を解明しておきたい。私の仮説は、

「伊藤博文などの元下層武士達が、
実力主義を推し進めるため、
テストの点数を絶対的な価値とした。」

そのため

「試験制度は正解がきちんとした厳密なモノが望ましい」

と言う発想があったと考える。

 総理大臣にもなった,伊藤博文のような権力者も、江戸時代の身分制度では、下級武士の生まれであり、明治時代になっても,士族や華族のなかには、生まれを持って軽んじる人がいた。また、西南戦争時にも一部の旧公家は、

「士族中心の兵隊でないと,西郷軍には勝てない」

と旧身分制度の復権を主張した人がいた。これに対して、長州の下層武士や武士以外から出てきた,伊藤博文や山県有朋達は激しく抵抗した。

 彼らの

「身分制度から実力主義へ」

と言う思いが、成績による人材登用であり、そこでは試験の公平性、客観性を重視して,厳密な採点を求めた。

 この文脈で考えると,日本の学校教育の正解主義が解ってくる。

2019年12月 4日 (水)

PISAの読解力問題を見て

 今話題になっている、PISAの読解力問題を自分で見たら、とてもよい問題であった。

 http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/04_example.pdf

 この問題は、科学者のブログから、参考図書の意見を書評で示し、対立する意見を科学レポーターが紹介する別の説を紹介する形で進む。

 私は、NHKニュースなどから、この問題の最後の部分しか知らなかったので

「科学者のブログ、書評、科学レポーターの記事の三者に対し、その信頼性評価まで高校生にさせるのか?」

と言う違和感を描いていた。しかし実際の問題を見ると、

「科学者のブログで参考になる文献の書評を紹介し、そのブログのコメントで紹介された異論が、
科学レポーターの紹介による二人の科学者の成果」

 

と言う見事なストーリー展開となっている。

 ただし、この形のストーリー展開型の設問は、受験テクニックの

「全部見て、解けそうなモノから解いていく」

という手法とは合わない。この点でも答えにくかったのではと思う。

 なお、この問題を通して「事実と意見の分離」について、しっかり要求している.このスキルも日本の教育に関しては弱いと思うが、さすがに、ここの正答率は触れていない。

 さて、今回の調査で正答率が低かったのは、最後の問題である。

三つの資料を読んで、あなたはラバヌイ島の大木が消滅した原因は何だと思いますか。資料から根拠となる情報を挙げて、あなたの答えを説明してください。

この問題は本当に正解を求めるなら、単に読解を求めるだけでなく、情報の評価能力まで求めている。私の個人的な答えは、以下の通りである。

「この問題に提供されている二つの説は、どちらも根拠が、
書評と科学ライターの紹介記事という、間接的な情報であり、判断の根拠とすることは難しい。
従って、判断は保留とします。
今後、人間が大木を大幅に伐採したという証拠か、
ネズミが木の種を食べたという証拠が出てくれば、判断します。」

ただし、採点基準は二つの説のどちらでも、そして判断保留も、論拠と結論の関係が明確なら正解としている。高校生レベルと言うことで、情報の評価能力についての論評は逃げたという感じがある。

 さて、この問題の正解率の低さには、日本特有の問題があると思う。

 それは、

「唯一の正解へのこだわり。」

である。

 唯一の正解を求めると、このような問題では判断ができなくなる。この問題については、長くなるのでもう一度改めて議論したい。

就職氷河期世代の採用に関して

 就職氷河期世代の採用に関して、もう一つ大きな問題が起こりそうである。私の予言は

「新卒の採用者数が大きく減る」

で、この理由は、

「成長した氷河期世代と比較される」

からである。先日もNHKのニュースで、氷河期世代の採用に当たった人が、

「経験を積んだ人の魅力に気がついた」

と言っている。このような気づきは、一般的な採用にも影響するだろう。特に総合職として採用するときに、

「一から育てる必要があるか?」

と言う議論になる。もっと言えば、従来なら

「若いときから育てて長く貢献して貰う」

が合ったが、現在の技術革新や、社会の変革が激しくなってくると、

「即戦力性を重視し、短期の貢献で十分」

と言う結論になる。

 こう考えると、来年度の新卒採用は、かなり厳しい状況になるかもしれない。

 

2019年12月 3日 (火)

就職氷河期の人の採用には履歴書に変えてスキル一覧などで対応すべきでは

 昨日書いた、就職氷河期の人たちの活躍の話について、履歴書の作成に関する問題の議論をもう少し深めるべきだった。

 私も昨日のブログを書いた後、履歴書の可否について、今仕事を求める人の気持ちを想像して考えてみた。そうすると、

「正規雇用経験がないので履歴書の欄が埋まらない。空白があるといけないのか?」

というためらいが出てくる。更に私も昔の経歴を整理するときには

「あのときXXに邪魔された。XXに潰された。」

等の怨念が浮かび上がってくる。私は、そうはいっても無事定年まで勤めることができたのだから、彼らと比べれば幸せである。そのように考えると、

『就職氷河期の被害者が履歴書に込める怨念』

はとても大きなモノとなってしまう。

 さて、このような悪いモノを出さないようにして、前向きに持って行くためには

『現在保有しているスキル一覧表』
『コンピテンシーを示す行動成果の事例集』

等を提出するようにしたらよいのではないかと思う。

 これを書けない人も多いと思うが、ハローワークなどの就活支援の部門で、相談者と一緒に今までの経験から身についたモノを抽出し、文書化する支援を行った行けば、当人の自己認識が変化し、前向きになる糸口になると思う。

 なお採用側目線で、コンピテンシーを引き出すBEI(行動に基づく面接)についてまとめた資料があるので参考にしてほしい。

 http://manabizz.c.ooco.jp/BEIshuhou.pdf

 http://manabizz.c.ooco.jp/new/?page_id=171

極端な話、この資料にあるBEI面接結果を自分と就活支援者で完成し、採用側に持ち込むのも一つの手段ではと思う。

 

2019年12月 2日 (月)

就職氷河期の人達の活躍について

 昨日書いた、平均値や分布の話から、書いておきたい話が『就職氷河期の正社員化』である。私は,この問題に関しては、かなり現場を踏んでいる人間である。このブログの多くの訪問者は『正社員登用』や『正社員登用の推薦書の書き方』を探してくる人たちである。色々な記事を見てくださる、コアな読者もありがたいことにいらっしゃるが、一見のお客様の大部分は『正社員登用』関連である。

 また、私は10年以上前だが、経験者の中途採用に関与した経験もあり、いわゆる氷河期の方の採用面接にも携わった。例えば、その時に面接した一人と

「派遣先の切り替わり時期の不安に耐えられない。」
私の質問
「当社でも人事異動はある。専門性の変化はあるが耐えることはできるか。当然必要な研修などのトレーニングは行う。」
彼の答え
「安定した環境なら、仕事の変化はかまいません。」

と言うような問答を行ったことを覚えている。別の面接官が、

「あの質問を受けたとき、彼はほっとしたようでした。」

と言っていたが、『安定』と言うことは、当時から求められていた。

 さて、この採用時の経験で言うと、採用枠の10倍以上の人間が来ている。そこで採用されるのは、1割以下である。今回の、地方公務員の場合にも同様の難関である。そうしたときには、多数の中で『光るモノを持っている人材』が選ばれるのが自然な動きである。私の経験でも、ほしいと思う人材の比率は全体の2割程度であった。

 今朝も、NHKニュースで

「氷河期世代の今までの経験を生かした活躍」

と報じていたが、そのような経験を生かせる人材は、全体の2割に達するだろうか?残りの8割の人たちをどのようして、安定した立場に定着できるようにするかである。

 一つの方策は、就職前のスキル訓練である。ハローワークなどが色々の施策を行っているが、地道な活動が大切だと思う。もう一つは、雇用側のスキル向上である。つまり、今までの新入社員からの均一育成人材とは別の、『多様である意味使いにくい人材』の活用スキルを付ける、三番目の方策としては、そのような人と会社の間での緩衝材になって、お互いの意見を聞きながら、双方のサポートを行う機能などを設ける。これは、公的機関でもよいし、公的支援を受けたNPOでもよいだろう。

 このような施策を多面的に活用していくことが大切ではないかと思う。

 最後に、もう一つ提案であるが、履歴書の代わりに、スキル一覧表の提出に変える。このような発想もいかがだろう。正社員でないことにコンプレックスのある場合には、履歴書を書くことが苦痛な場合がある。このような対策がよいのではと思う。

2019年12月 1日 (日)

総合的に考えるときは平均値と分布の形そして逸脱を見る

 昨日の記事に少し補足しておく。

 政治問題のような、多数を相手に考えるときには、全体の多数派の傾向を知ることは大事である。そのために、平均的という観点で考える。そこで平均値という話が出てくる。しかし、この平均値が本当に使えるかと言う点を、きちんと考察しないといけない。つまり、平均値で考える時には、前提として

「多数の集まりの分布の形は正規分布に近くなる。」
従って
「平均値の近くに多くのモノが集まる。」

と言う『大数の法則』がある。この考えが成立するなら、平均値だけを考え、後は個別の逸脱の対策をすればよい。

 しかしながら、2極化などが行われたときには、単純な平均値では、一般的な話ができなくなる。このようなときには、どのような分布形式になっているのか考える必要がある。2極化や、小数の高額収入者のために収入平均が上がったなどの状況は、少し踏み込むと平均の落とし穴を示す。

 ただし、もっと危険なことは、極端な事例に振り回されることである。昨日も書いたが、

「ごく一部の副作用のために、多くの人を救う薬が使えない。」

と言う状況が現在の政治にも見える。マイノリティの声を無視してはいけない。しかしそれに振り回されて、多数の人間を犠牲にしてもいけない。特に、学問はどちらかというと『逸脱事例の研究』が強く『平均特性の研究』は声が小さくなる傾向がある。『ソーシャルマジョリティ研究』は、マイノリティ側の必要から生まれたことからも、この事態の深刻さが解る。

 現在もう一度、『平均的な人材』などの、マジョリティを考えるべきではないかと思う。

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