ご縁のあった人たち

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2020年1月31日 (金)

いわゆる『秘伝』の扱いについて

 昨日書いた、『情報の独占による権威維持』という問題について、もう少し議論を深める。今回議論するのは、武道などの『秘伝』の使いである。実は、武道の『秘伝の技』の伝え方には、大きく分けて二種類ある。一つは、初心者の習う技のなかにも、極意技が隠されている。ただし、その解釈が伝わっていない。この解釈は教わる場合もあるし、自分で掴んだことを師に示し、確認を得る場合もある。一方、技自体が冠¥全威嚇されていて、伝授されないとわからないモノもある。

 前者の例では、例えば剛柔流空手の入門で習う、撃砕という型には、相手の突きを受けて、中段蹴りを入れ、肘打ちをして、裏拳を打ち込み、払って中段突きを入れる動きがある。この技にも必殺という側面が隠されている。詳しく書かないが、空手の個人鍛錬器具には、中段受けの形から、相手の手を掴み、引きずりながら肘当てをする、このような道具で繰り返し鍛錬していることからも想像してほしい。単に受けるというのではなく、相手の手をつかみ攻撃する。これは、ボクシングなどでは反則だが、相手を倒すためには有効な手段である。しかし、単に受ける動作が、受けながら摩擦を上手に使って、相手の手を引き込むようにできるには、それなりの修練が必要である。そのように個人の鍛錬が、きちんとできたときに、この型の本当の意味がわかってくる。こうした意味は、準備ができていないときに知れば、かえって基礎鍛錬をおろそかにしてしまう。

 一方、後者の隠し技的なモノは、なかなか公開されていないが、柳生心眼流の小太刀の、左右遣いなどがあるだろう。右手で切りつけて、躱されたら、小太刀を体の後ろに回して、左手に持ち替えて左半身からの攻撃を行う。相手は右手を想定しているので、不意打ちの効果がある。しかし、これは知っている人間には通用しない。これは、隠していることの効果である。

 一般に、一つのアイデアだけに頼っているモノは、それが見えると、多くの人にまねされてしまう。従って必死で隠そうとする。太平洋戦争の敗戦後、アメリカは日本の潜水空母(爆撃機を搭載できる大型空母)を全て、と言っても二隻だが確保し、研究し沈めてしまった。これを、日本の技術が高いから、アメリカが勉強したという人もいるが、私は

「アイデアが漏れればまねされる」

ことを恐れたのだと思う。残念ながら、日本の潜水艦の工作技術は、ドイツやアメリカには劣っていた。そこから学ぶべきモノは少なかったが、

「大型潜水艦を作り実用的な爆撃機を載せる」

と言うアイデアが、ソ連に渡ることは、アメリカは避けたかったと思う。

 現在は、ネット社会であり、先ほど書いたように『秘術』も、どこかで情報漏れを起こしてしまう。

 しかし、基本的な技やスキルが身についていないと、使いこなせない技は、極意習得として差別化できる。この点をもう少し考えるべきだと思う。 

2020年1月30日 (木)

日本教の実力主義の裏面

 日本教は、「お上を信じる」大衆の力により支えられている。そこでは、リーダーに対して、実力を見せることが必要になる。ただし、日本の場合には、侵略された経験が少ないので、軍事的な力より、知的な力が必要になる。しかしながら知的な力にも、

  1. 考えて答えを出す力
  2. 色々な物事を知っている
  3. 経験がある

等色々な面がある。しかも、評価しやすいモノは2.の知識量となってくる。

 この弊害が、成績優秀だが仕事のできない人材の出現となる。

 ただし、ここでもう一つの弊害の可能性がある。それは特権階級の情報独占である。例えば、山本七平が指摘したように

「陸軍内部では乃木将軍無能論」
「一般庶民には軍神乃木将軍崇拝」

と言う形で、軍の幹部(士官以上)は、秘密を知っていることで一般人より優位に立っている。

 なお、乃木将軍に関してはこのブログで別の意見がある。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/6-da01.html

このように、「秘伝」を知っていない人間を軽蔑し、知っている人間の自己満足を誘う。このような弊害も出ているように思う。

2020年1月29日 (水)

日本文明の特徴の一つ『仮名漢字交じり表記』

 日本語の論理性に関して、色々な議論がある。しかし、西洋文明の論理に関して考える時には、記号の扱いについてきちんとした議論ができている点を、もう一度考え直すべきだろう。私も、パースの記号論は少しは学んだし、マクルーハンのメディア論も読んだ。更にフッサールの現象学は難しすぎるが、一般意味論は少しは理解した。直せまい意味での論理学は、古典論理と様相論理、そしてゲーデルの色々な数学的論理の議論も読んだ。これらを踏まえて、日本語の論理と言うことについて、私見を述べたい。

 まず、大事なことは、日本語の論理は、インドや中国の東洋的論理が、土台にあるが、現在の私たちは、学校教育で学ぶ西洋的な論理を重点的に学んでいると言うことである。比喩を主体の東洋論理は、日常会話で使っても、学問や法律論等の『論理的』な考えと言うときには、できるだけ抑えるようになっている。もっと言えば、禅の『不立文字』が尊ばれ、議論にならないところが、東洋的な美点などという面もある。

 さて、日本語の論理は、中国やインドから来た、東洋的なものだけだろうか?

 私は、日本語の特性からして、中華文明とも西洋文明とも違う、独自の論理があると思っている。

 これは、マクルーハンのメディア論が指摘しているが、表音文字と表意文字の文明の違いからの発想である。漢字のような表意文字は、習得が難しく、その文字を使う特権階級の独占になる。これは中国の科挙制度による、特権階級支配に当てはまる。一方、フェニキア文字等の表音文字は、誰もが文字を使えるが、文字自体の意味がなくなるので、記号としての使い方にきちんとしたルール付けを行わないといけない。

 つまり、文字に意味を込めてそこで考えるか、記号としての処理ルールを決めてその上で考えか、この二つの手段のちがいが、中華文明と西洋文明の違いにつながっている。さて、ここで日本の場合には、仮名漢字交じりと言うことで、両者の使い分けを実現している。仮名の表音文字としての、誰でも使えるメリットを生かし、その上で漢字に込められた意味を生かして伝達している。

 そこで日本的な論理というか、議論や推論は、

「多くの人が理解できる物語」

が中心になっていく。これは、中華文明とも異なり、西洋文明とも異なっていると思う。

2020年1月28日 (火)

日本文明の特徴は「日本教」

 日本文明の特徴について考えると、前にも書いたが一般大衆

「お上を無条件の信じる心」

が大きいと思う。

 これはキリスト文明の契約でもなければ、儒教文明の理屈による押しつけでもない。これは、弥生時代からの指導者の実績が大きいと思う。また、聖徳太子からの仏教導入は、

「親の立場で全てを観る力」

の可能性を拓き、この力を加えていった。

 この結果、日本文明においては、

「大衆が心から動き従う」

ことが多くなっている。これは西洋文明の説得を超える、感情まで含めた自主的な働きである。

 この力を認識しないといけない。一方、これが悪い方に向かうと狂信になる。この危険性を忘れてはいけない。ただし、ここに一つの安全策がある。

「日本人は歴史を忘れる」
「歴史に学ばない」

この性格を指摘し、批判する人は多い。しかし、

「感情面まで一体になる国民性で歴史の恨みを持つ」

危険性を考えると、このような『忘却力』も、安全弁として有効だと思う。 

2020年1月27日 (月)

承久の乱に関して リーダーシップの観点で一考察

 承久の乱は、山本七平が指摘するように、

「武士が天皇(上皇)の権威を覆した革命」

と言うべきだろう。

 承久の乱については以下のウィキペディアの記事が詳しい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/承久の乱

しかし、ここで従来から議論のある一文がある。

泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(『増鏡』)

この記述は、増鏡の成立時期や、公家側の記述という背景を考えて、「公家の願望」という説も有力である。

 しかし、これは見方を変えれば、武家社会が考える、リーダーの姿でもある。つまり

「(天皇や上皇が)自ら先頭に立って、皆を率いる場合は、
武士達は従う。しかし、部下任せなら従わない。」

と言う考えは、武士の多くは納得したのではないかと思う。

 現在でも、

「先頭に立つリーダーには従うが、
安全地帯から指示するだけの(名ばかり)リーダーは無視する」

ことが多いと思う。

 

日本的リーダーについて

 『日本教』について、色々と考えていると、一つ見えてきたことは

「日本的な支配の根拠は、皆が役立つ指導を行う力を持っていること」

である。

 これは、西洋文明の

「契約に基づく指導」

とも異なるし、儒教文明の

「天の意向」

とも異なっている。

 私は、この原点を縄文から弥生時代の移り変わりにおいて、大陸から流れ込んできた人たちの働きが大きいと思う。彼らは、稲作文明を経験し、しかも鉄器を保有し、鉄の生産に関しても知っていた。一方、日本列島に渡った時から、この先の逃げる先はないと言うことも感じていた。つまり、大陸の戦乱を逃れてきた渡来人達は、

「自分たちの持っている、知識や道具の力を皆に与えて、
この地に常駐しながら住みやすくしていく(一所懸命)」

方法を選択したのである。これは、彼らに従っている人々にとっても

「従っていれば最後はよくなる」

と言う信仰につながっていく。これが日本教の根本だと思う。

2020年1月26日 (日)

時代の『空気が』薄れていく実感

 私が関西人だからかもしれないが、近頃、阪神大震災の関連のテレビ番組を時々見る。この番組を見て、25年前の今頃とは大分変わった取り上げ方だと思った。そこで、当時の私が直接感じたことで、現在は報道されなくなったことをもう一度書き残しておく。

 一つは、震災直後のテレビ番組での扱いである。私の印象に残っているのは一つ目は、○平連の活動で有名なO氏が

「土建行政の神戸に天罰が下った」

と番組中に言った言葉が印象に残っている。当時は、左翼系の活動家はこのような罵倒をしても、糾弾されることはなかった。同じ番組の中では、自衛隊の出動が遅れた件移管しても追及があった。そこでは、後に都知事になったM氏が、神戸市や国政の対応を追求していたが、神戸市は冷静に

「それは県のマターです。」

と対応し、一方防衛庁側は

「我々は、兵庫県に連絡官を派遣し
『何か役立てることは』
まで言ったのに兵庫県から依頼が出なかった。」

と証言していた。

 このような状況は、東日本大震災時は大きく改善されたと思う。

 また、今朝のNHKでは、神戸新聞の当時の活動を後輩に伝える状況を報道していた。これに関しては、当時『神戸新聞の100日』という本が出ていたが、これに東京のある大学の先生が

  「単なる感傷」か「自己陶酔」

という風な酷評をしていたことを思い出した。

 このような空気が25年前にはあったが、これが現在は報道されなくなっている。

 確かに、当時の様な発言をしたら、現在ならば、SNSの力でかなり叩かれたであろう。それでも、当時の「知識人」が動かしていた世論があったこと、これをきちんと残しておくことは大事だと思う。

2020年1月25日 (土)

明治以降の「日本教」はそれまでの日本教と変化した

 先日まで『日本教』について、山本七平の議論を踏まえて、色々と考えてきた。その中で、山本七平の議論は、主に明治維新以降の日本の体制に検討を加えているように思う。確かに、日本的革命と言うことで、承久の乱に関しての考察は鋭いが、『空体語』が猛威を振るうのは、明治維新以降の話だと私は考えている。

 そこで、明治維新以降の『日本教』と、それまでの日本教に関してはどこが違うのだろうか?私は以下の二点で違っているように思う。

  1. それまでの地方分権的発想での多様性が明治以降はなくなる
  2. 西洋文明の科学の力がかなり影響している

 まず、地方分権と言ったが、これは江戸時代の各藩の独自性が頭にあった。しかしそれ以外にも、武士の道徳と商人の道徳が独立した面もあるし、僧侶と儒者も独自の発想があった。これらが、互いの独立性を認めながら相互に歩み寄っていた。これが徳川の平和の一面だと思う。次に、西洋文明の科学は、圧倒的な力を持っていた。これを吸収できるように、学校制度などが急速に普及していく。それまでの、日本の文化吸収は、和魂漢才の時も、長い時間を費やして、咀嚼していた。このような悠長なことが許されないのが明治期であり、これに耐える学校制度などが無事展開したのは、それまでの『日本教』の力であった。

 しかし学校制度などで学ぶ、西洋文明的発想が強く入り込み

『正しいと言うことが西洋文明の理論的にいえる世界』

が部分的にでも展開した。

 このような影響を受け、『日本教』は、一様な西洋文明対応の『日本教』になったように思う。

 この結果、多様性への対応力がなくなったのが現在の問題だと思う。

2020年1月24日 (金)

一般意味論と日本教の関係

 私は、20代の頃からS.I.ハヤカワらが唱える、一般意味論に興味を持っている。この分野の古典である、「思考と行動における言語」は何度も読んだ。一方、山本七平の日本教に関しては「日本人とユダヤ人」や「「空気」の研究」は読んだが、深く読んではいなかった。特に、「日本教の社会学」は今年になってから読み、色々と見えてくるモノがあった。

 さて、今回は両者の関係で一つ発見があった。まず一般意味論では

「地図は現地ではない」

が、基本原則である。これは、

「抽象化した理論の限界、欠点」

を指摘している。そのための処方箋は

「抽象の梯子を下れ」
「現実の多様性に向き合え」

である。

 さて、ここで日本教の信者ならこれはどのようなものだろう。私が見つけた答えは

「神様が必要な地図を与えてくださる」
「我々はその上で考えればよい」

である。なお、ここで「神様」と言ったが、日本教の場合には、キリスト教の絶対神とは異なり

「XXの神様」

は気軽に出現する。ただ大事なことは、他力依存の地図をもらって、その上でしか考えない大衆の存在である。

 これが日本教の特質ではないかと思う。

追記

 一般意味論の応用に関しては、以下の資料も見て欲しい。

 http://manabizz.c.ooco.jp/TsukaeruChishiki.pdf

 

2020年1月23日 (木)

『日本教』の危機はなぜか

 昨日書いた、『日本教」の危機という話は、もう少し理由を解明することができると思う。まず昨日示した『日本教』の危機とは

「従来の、『空気』と『実体』のバランスが、崩れて『空気』の対決になっている。」

という状況である。私はこの理由について、日本の急速な高学歴化の進展、そしてネット環境の急速な進歩があると思う。この現象をもう少し説明すると

  1. 高学歴化したことで抽象化した概念での議論ができる人間が増える
  2. ネットの充実、特にSNSの力で、誰でも情報発信できる

状況になっている。加えて、実体験が少なくなったり、個人の中でも実体験の比率が少なくなっている。こうして、山本七平式の『空体語』だけで、議論が進む世界になっていく。

 さてここから、私の解釈の『日本教』について、少し議論したい。私の解釈では、『日本教』の主要要素に

「無邪気なまでのお上(神様)への信頼」

がある。例えば以下の議論

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f1d1d3.html

これを支えるのは、全体像を持った指導者の力であった。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-03ac57.html

しかし、現在このような全体像を持つことすら忘れられているように思う。これが

日本教の危機

の本質だと思う。西洋文明化した人間が多くなったとき、日本教が成立するのだろうか? 

2020年1月22日 (水)

日本教の危機について

 山本七平の『日本教』について色々と読んでいくと、山本七平が見た世界が、現在にもまだ残っているような気がした。山本七平は、明治維新での「攘夷から開国」、そして戦後の「鬼畜米英からマカーサー万歳」などの手のひら返しや、「60年安保闘争」の空虚な面も見ていた。しかし、私の考えでは、これらの状況の裏には

「政府幹部などの情報独占」
「大衆に知らせないであおる」

という状況があった。例えば、日露戦争の後の講和反対の世論や、戦後の反アメリカ思想に関しては、政府の意図的な扇動も会った。一例を挙げれば、吉田茂が対米交渉を有利にするために、社会党等の親ソ路線を利用がある。

 ただし、このような政府のあおりがなくても、空体語の暴走で色々なトラブルがまだ発生している。例えば

  • 朝鮮民主主義人民共和国は理想の国、拉致などは右翼思想のねつ造である
  • 学校教育の場は神聖な場でありいじめなどはない
  • 教育の場は神聖であり体罰は適切なモノである

等の空気から、被害者が抑圧されていた。しかしこれらは、今世紀に入ってから、どんどん崩れている。この崩れ方に関して従来と少し違う面がある。

 まず北朝鮮拉致問題に関しては、小泉訪朝での事実が、北朝鮮理想論に「水を差し」て、大きく変わった。しかし、これ以降もネット社会の世論の後押しが、今までの空気撲滅に役立っている。一方、いじめ問題や、教師の体罰問題に関しては、事実をネット側が広げる形で追求し、

「別の『空気』が今までの『空気』を潰す」

状況になっている。このように『空気』の扱いが変化しているように思う。

2020年1月21日 (火)

日本的な論理展開について

 山本七平の『日本教』に関して、私はキリスト教文明の人間の偏見を感じる。キリスト教だけでなく、プラトン等の西洋文明全体に関する違和感かもしれない。今回はその中でも、論理的な思考法に関して議論してみたい。山本七平の概念装置の一つに『実体語』『空体語』とそれを扱う『天秤なる人間』がある。『実体語』と『空体語』の対立は、明治維新の過激な議論、その後の文明化、そして軍事拡張、更には敗戦後の急激なる転換と、冷戦構造の活用などの、

「強烈なる思想が力を持つとき」

には有効だったと思う。

 しかし、安定時期に多様化するときは、このような単純な二項対立というか、バランス論では言い表せないモノがあるように思う。

 一方、もう一つ別の見方をすると、二項対立ではなく、極端な思想の『空体語』の力があるから、現実を上手く認識できるという面もある。これは、西洋文明の単純な

「0か1か式論理」

で表現できないモノという問題が根底にあるように思う。現実社会を切り出して議論するとき、

「一つの側面は明確になるがそれ以外が複雑なまま」

という状況がよくある。そこで、過激な『空体語』表現が明確になれば、『実体』が見えてくると言う発想はあると思う。

 もっとも、インドの論理的な発想では、比喩で説明するとき、肯定側と否定側を両方使うという発想もある。天台の摩訶止観でも

「『不思議の境』の説明の前に『不思議でない境地』を説明する」

という手順を踏んでいる。このような反対側から、上手く説明する智慧が、複雑な現実対応には必要だと思う。

 西洋文明は、ある意味で理想化した社会を考えるから、過激に走ることが多いように思う。

2020年1月20日 (月)

禅の教えを武術で考えて見た

 昨日までの続きで、武術を通じての悟りについて、考えて見た。武術家が禅を修行した事例は多くあるが、私の知識では、禅の影響に二つのパターンがあるように思う。

 一つは、自分が今まで持っていた、こだわりや恐怖を捨てることである。これは、山岡鉄舟の体験が有名である。自分が、圧倒された相手の幻など,自分が作ったモノで苦しめているなら,それをなくすために

「すべてが空である」

と言う悟りは、効果があると思う.これは現在にも通用する。

 さてもう一つは、少し物騒な話だが、針ヶ谷夕雲の無住心剣の悟りがある。これは極端に言うと

「自分の命も人の命もないもの」

と言う物騒な悟りである。現在の研究でも、

「戦場で、敵に向かって、銃を撃てるのは五人に一人」

と言う話がある。これを

「普通の人間が,自分を捨て相手も殺す」

という気持ちを持てば、平和な時代では大きな力を持っただろう。

 禅の悟りと言っても,このような怖い面もあることは知っておくべきだろう。

2020年1月19日 (日)

「禅の悟り」についてもう少し

 昨日は、「禅の悟り」について、西洋文明の関係で議論したが、よく考えてみると、禅の高僧が「悟った」と思うことに関して、色々と注意している。

 例えば、江戸時代初期に徳川幕府に影響を与えた、沢庵禅師が柳生宗矩に送った、「不動智神妙録」に

「不動とは石や木のよう動けないモノではない」

という教えがある。

 これを、「不動心」という言葉だけを取り出して、

「集中力が大切」

とだけ教える人もいる。

 確かに心がふらつくようでは困るが、一つのことにこだわる人も困る。一事の迷いに対して、「動かない」と言うことは、その場では効果があっても、その後は悪影響を引き出すこともある。

 「広く深い悟り」を求め、指導するときには、

「人の心とは何か?」

という問題にきちんと向き合うことが大事だと思う。大乗仏教には、このような教えも充実している。狭い視野の

「悟り体験」

に縛られないようにしてほしい。 

2020年1月18日 (土)

西洋文明の影響下における「禅と悟り」の役割

  新潮選書の大竹晋著:「悟り体験」を読む、を読んだ。色々な人の、座禅体験から、悟りに至った経験談がある。私個人の感想では、例えば、植芝盛平や山本鉄舟など武術関係者など、もう少し広い人を書いてほしかったが、色々と参考になる話があった。

 特に、「平塚らいてうが、禅を経験していた」と言う話を、不勉強で知らなかった。ここから、一つ思いついたことは、

「西洋文明の不備を補うための禅体験」

である。このブログでも何回か書いたが、

「西洋文明は、一部を切りとって、厳密に議論する。
日本文明は、全体像を持っている人を求める。」

傾向がある。そこで

「自分が全体像を持っているという自信がほしい」

人が、禅に頼るのではないかと思う。確かに、座禅で、

「世界が自分のなかに入ってくる」

というような体験をすれば、

「私は全体像を持っている」

と強くいえるだろう。しかし、この強さが思い込みとなると、とんでもない暴走に通じる。西洋科学と禅のミックスで

「科学的宗教カルト」

に陥るととんでもない暴走になる。

 このような暴走対策として、大乗仏教では天台大姉が「止観」の修行を進めている。この点は、臨済宗の中興の祖である、白隠禅師も「法華経を学ぶ」ことで、毒の中和を図ったが、もう一度

「現在人が、なぜ座禅に惹かれるのか?」
「求めるモノは何か?」
「いわゆる『悟り』に危険性を考える」

という振り返りが必要だと思う。

2020年1月17日 (金)

日本的な論理思考

 論理的思考に関して、このブログでも何度も書いている。

 まずは、三段論法の使い方について

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_e3c4.html

 狭い意味の論理でなく、物語の使い方について

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_0101.html

 類推などの総合的な考え方とその可能性について

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-1edb.html

 仏教の顕教と密教の関係から

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-1203.html

等がある。

 これを見直すと、西洋文明の

 A ならば B (IF A THEN B)

A AND B,A OR B

等の論理だけでなく、類推なども論理と考えるように広がり、さらに、物語的に色々な動きを確認する思考法まで考えるようになった。しかし、思考実験と言う手法は、ガリレオ以来、西洋文明の科学的議論でも色々と使われているので、『日本的思考法』とまではいえない。

 さて、今回は、山本七平(イザヤ・ベンダサン)の『日本教』での議論も考慮して、日本的思考法をもう少し明確にできないか、考えてみたい。

 まず日本的思考法の根底には、大乗仏教の深い影響がある。もう一つは、無邪気なまでの『お上への信頼』がある。実はこの両者が、見事に絡み合っているのが、日本的論理思考の基盤である。もう少し具体的に言うと

「私たちより優れた方が、世界を準備してくださる。
その中で、私たちは『あるべき姿』を求める。
その世界を私たちは想像し、その上での物語を
試しながら考える。あるいは比喩を使うこともある。」

という形が、私たちの納得のいく思考法である。

 このような『理想の世界』を造る方法は

「色々なエピソードを持ち寄り、それを重ねていくことで、
登場人物の人格や舞台背景である自然環境などを明確にしていく。」


するとあるところで、登場人物が自動的に動きだす。この動きを知っている人を信頼し、その人に従う。これが日本的論理ではないかと思う。

 なお、このようなエピソードの持ち寄りから、人格を創造していく方法は、大乗仏教の経典の手法でもある。例えば、法華経には色々な物語が入っているが、これを聞いていると、

「この世界を創造する仏の智慧が何となくわかってくる」

瞬間がある。更にその智慧を自分も持つことができる。これが大乗仏教の教えである。

 ここで、西洋文明と決定的な違いは、

「絶対的な創造者の智慧を人間でも持つことができる。」

と可能性を信じることである。プラトンの洞窟の比喩や、キリスト教の神とこれが違うので、日本の場合には

「絶対神への契約」

という概念はない。

 逆に、

「誰か完全な智慧を持って皆を救ってくれる人がいる」

という無邪気な信念が生まれている。このような考え方の人間が集まる日本は、西洋人には理解不可能な面があるだろう。

 日本教については山本七平の著作「日本教について:イザヤ・ベンダサン」を参考にしてほしい。

2020年1月16日 (木)

均質化した社会しか見ない人が増えているのではないか?

 昔ある学会で、ある大学教授と論争したとき

「あなたたちは『会社』と『社会』を混同している」

という,『会社人間』にとっては痛い指摘を受けた。

 しかし、この問題は近頃の世相を見ると、もっと深く考える必要がある。例えば、『地方創生』に関連した『都会化』という問題でも、

「地域の独自性を無視し、東京だけを見ている」

という批判が出てくる。このような問題の共通的な原因は、

「均質的なモノへの押し込め」
または
「逸脱者の排除」

という発想である。会社の場合になら、

「採用試験という選別を通し、一つの目的に合わせた社会」

であり都市化の場合でも

「都市に住みたい者だけの社会」

「逸脱者は帰れ」

という発想になることが多い。(逆に、某市に逸脱者を押し込めようとした例もある)

 この様な、『均質人材社会』は、『社会の高学歴化』でますます進行しているように思う。

 「学校で学んだ理論が成立する社会」

このような社会を『理想的』と思ってよいのだろうか? 

2020年1月15日 (水)

日本文明の二通りの参加者

 日本文明においては、大乗仏教などの影響もあり、

「全知全能の仏の智慧を人間も持てる」

という信仰がある。これは西洋文明の『洞窟の比喩』などが示す、

「人の不完全さの諦め」

とは根本的に違っている。しかしながら、ここで大事なことは

「だれでも仏の智慧を得ることはできない」

という現実的な問題である。しかし

「誰かが神仏の智慧を得ることは否定しない」

点が西洋文明と大きく違っている。つまり交流分析で言えば、

「誰かが親の立場で皆を良くしてくれる」

という、『無邪気な信仰』がある。特に指導者と思い込んだ人には、そのような『全知全能』を求めてしまう。このように日本文明の参加者は

  1. 指導者(親の立場で全てを観る)
  2. 従属者(子供として従う)・・・こちらが大多数

という二通りの人材構造になる。西洋文明の、

「皆が成人として対等の関係」
神の下での平等

という発想と根本的に違っている。

 しかし、現在の日本の政治は、西洋文明的な民主主義である。そこでねじれが生じているように思う。例えば

  1. 国会議員は皆を指導するだけの力のある人であるべき
  2. 国会議員は、国民のある部分の代表(代弁者)

という二つの考えがある。1.は『親としての議員』であり、2.は『子供の立場での議員』と言うことになる。

 この点を誤解し混同するから、議論が乱れると思う。『子供の立場』の議員がいても良いとは思うが、政権を取ることは難しいと思う。

2020年1月14日 (火)

西洋文明と日本文化の違いを宗教で見る 特に偶像崇拝

 西洋文明には

「神の世界は,人間には到達不可能」

という発想がある。一方、日本の大乗仏教には

「誰もが仏になれる」

という可能性を開く教えがある。

 これを,キリスト教やイスラム教にある

「偶像崇拝禁止」

と関連して考えた。確かに、キリスト教でも『十字架のキリスト像』『聖母マリア像』等を拝むことはある。しかし、これは『神』自体ではない。つまり、

「神の姿は人間にはわからい」

という原則は生きている。

 一方、日本では

「仏師が木の中に入っている仏様を掘り出す」

という風に、

「仏の姿を我々は観ることができる」

という信仰がある。それどころか、仏像の色々な姿や持ち物が

「仏の救いの力を表す」

というビジュアルなイメージでの伝承も効果的に使われている。物語による伝承、ビジュアルイメージの伝承、そして経典という、総合的な教え方が、日本の伝承法の強みだった。

 これが明治以降の学校教育重視で,バランスが崩れたように思う。

2020年1月13日 (月)

交流分析の考え方で日本文明と西洋文明の発想を整理する

 日本文明は、

「全体像を見て議論する」

と言ったが、これを全ての人が行うのではない。このような議論は、限られた

「有能な指導者が行う」

仕事であり、

「多くの人はそれに従えばよい」

と言う発想がある。これは、前にも書いたが、「日本人のお上に対する無邪気な信頼」として実現している。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f1d1d3.html

 これを、交流分析では「親ー子」の関係と言う。これは、法華経にある

「この三界は全て我が有なり その中の衆生は全て我が子なり」

と言う発想と見事に対応している。このように

「全てを知っている親のような存在」

が可能であることを信じるのが日本の文明である。

 さて、ここで交流分析では、親に「厳格な親」と「優しい親」という二つのパターンを考える。この二つについて、今までの議論を踏まえて説明すると、

  • 自分が全てを見通し皆を導く優しい親
  • 自分の地位などの権威だけで押さえる厳しい親

の二つに分かれる。なお全てを見通しても、言うことを聞かない子供には厳格になるだろうし、自分がわかっていないことを自覚して、優しく振る舞う人もいるだろうが、権威依存か見識による導きかという違いは大きい。

 一方、西洋文明を交流分析で考えると、

「神の立場は人間には到達不可能であリ、親にはなり得ない」

と言う限界がある。そこで、

「全てではないが、出来る範囲は努力して知る」

「成人」の態度が必要になる。このような、「成人の集団」として社会を考えるのが、西洋文明であり、その成果が民主主義である。そこでは、支配者といえども全能ではない。間違えばすぐに交代する仕組みが民主主義である。

 この発想の違いを知らずに、西洋文明を全能の神的に考えたのが、明治以降の日本の流れだと思う。

 マックス・ヴェーバーは、

「社会を見る考え方として自分の見方を示した」

しかし日本の一部は

「それを社会のあるべき姿を教える教本」

とみた。これが、日本文明の迷走状況を示している。

 

西洋文明的発想について

 今まで、日本文明の発想法についていろいろ議論したが、比較のため西洋文明的発想について、歴史的に考えた。

 まず西洋文明の歴史を考えると、古代ギリシャの哲学が一つの基礎である。古代ギリシャの哲学者として、プラトンの名前を知らない人は少ないだろう。彼が作ったアカデメイアの門には、

「幾何学を知らぬ者くぐるべからず」

という記述があった。つまり、ギリシャの哲学の基本的な考え方は、幾何学的な議論法にある。

 さて、この幾何学は、古代エジプト文明から影響を受けている。古代エジプトは、『母なるナイルの恵み』である、『定期的な氾濫』によって、土地を肥沃にして、農耕を可能にしていた。しかし、このような氾濫が発生する状況では、氾濫後の土地の復元が大切である。そのために測量の技が進歩しその一般理論としての幾何学が進化してきた。幾何学の最初に学ぶのが、『合同の概念』なのは、氾濫後に同面積の土地に復旧する必要があったからである。

 ここで、もう一つ大事なことは、ナイルの恵みを受ける土地が、毎年氾濫でリセットされるということである。このような状況なら、直線などの理想的な図形が使いやすくなる。ここから、直線や点という理想的な概念が、現実のものに対応しやすくなる。

 このように、現実の複雑さ、多様さを無視した、理想的なもので考える発想が、西洋文明の根底にある。これに関連して、プラトンの有名な『洞窟の比喩』という発想がある。これは西洋文明のもう一つの根底である、キリスト教にも共通である、

「神の世界は到達不能」
つまり
「現実の複雑な実態は人間の力では知ることができない」

というあきらめである。

 従って、

「解りやすい因果関係」

を探すことで理論を造ろうとする。これが西洋文明の力である。

 この割り切りが、悪く出たのが、アフリカの地図である。直線的な国境線は、植民地支配時代の支配側の妥協で、地図上で線を引いた分割結果である。これでは、地形の複雑さや、種族の集まり具合などの、現地の状況を無視しているため、現在でも紛争が起こっている。

 私たちは、この西洋文明的な割り切りの弊害を,しっかり認識して、上手に使う必要がある。

 

2020年1月12日 (日)

日本的な意思決定の成立条件と限界

 昨日まで何度か書いた、日本的な議論と意思決定方式が成立するためには、

「ぼんやりとでも全体像」
例えば
「先行した成功事例の存在」

が必要である。つまり、

「中華文明を追いかけた時代」
「西洋文明を追いかけた明治以降」

のどちらも、先行した文明があり、それを冷静に評価しながら実現させていく。このために

「多数の体験や知恵を持ち寄って、良い物に仕上げていく」

ことが日本的意思決定であった。

 しかし、ここで大きな問題がある。

「日本人は西洋文明の根底にある、ギリシャ哲学、キリスト教そしてローマ法の全てを表面的にしか知っていない」

特に、プラトン以降の哲学と、キリスト教の示す

「神の絶対性と人の知識の限界」

に対する配慮がなく、逆に

「今あるモノが最善で変えられない」

という自縄自縛状態に陥ることがある。アメリカ人は、日本に「平和憲法」を与えたが、それを今でも保持していることに驚いている。

 これは、

「余所の良いと思うモノをつまみ食いしたから、本質を考えていない」

日本的思考の悪影響だと思う。

 ただし、『和魂漢才』や『和魂洋才』を唱えた人には、本質まで考えて換骨奪胎をした人がいた。これがおかしくなったのは、明治以降の

「効果的な教育システムによる知識付与」

の結果ではないかと思う。昭和の『空気の暴走』は、

「本質を考えず与えられた知識を絶対と考える」

人材多発が一つの条件となっている。

2020年1月11日 (土)

日本的な意思決定の成功

 昨日書いた日本文明の意思決定論について、今回は上手く働く条件を明らかにする。日本文明の意思決定は、聖徳太子の一七条憲法にもあるように『話し合い重視』ということで、多くの人が絡んでいく。そこで悪い例だと、

「責任の所在が不明」
「状況不適応でも変更不可能」

という事態になる。

 しかし、このような多数の意見を交えることで、

「見落としが少なく完成度が高くなる」
「当事者意識を育てる」
「主体的な参加が促進される」

という利点も生じる。さて、このような『多数による創造』のメカニズムについて、もう少し踏み込んで議論してみよう。

 ある問題について解決策を話するとき、まず問題になった事象について提示される。これは極端な事例も多いだろう。さてここで、今の学校教育や、MBA等の訓練を受けた人間なら

「その問題の本質を見いだす」
ことに注力し
「一般化した規則性などを発見する」

ことを目的に頑張るだろう。これを『西洋文明的な解決』とする。

 しかし、もう一つ別の道がある。そこでは、

「関係者が関連する経験などのストーリーを思い出すままに発言していく。」

という形で話し合いが進んで行く。こうして、事例を多く積み重ねていくことで、

「問題となっている事態の舞台背景が見え、典型的な登場人物が明らかになってくる。」

段階になる。このような舞台の上で、解決策を考えていくことは、多くの参加者の共感を得るようになる。登場人物の考え方などが、参加者の脳内に展開して、共感を得るようになれば、

「皆が納得する解決策に近づく」

ことになる。このように、

「種々のストーリーが収束して、舞台や登場物に結晶化していく」

作業は、多分クリエイター達の作業にも類似するのだろう。

 さて、ここで大切なことは、西洋文明的発想と、日本文明的発想の根底にある宗教的な違いである。

「西洋文明の根底にある、神の世界への到達不可能性」

「日本文明の根底にある、皆に存在する仏の力」

つまり、西洋文明は古代ギリシャでプラトンが『洞窟の比喩』で諦めたように、

「全体を知ることは人間にはできない」
従って
「部分的に厳密な理論を展開したら満足」

という形になる。一方、日本の文明には、

法華経など大乗仏教が説いた
「皆には仏の力がある。全ての世界を知ることができる。」

という信仰が根底にある。このように可能性を信じ、物語を展開しながら、本質的な答えを探す。これが日本文明のよいところではないかと思う。

2020年1月10日 (金)

日本文明の意思決定論

 昨日書いた、日本文明に関する話について、今回は意思決定の部分で議論していく。山本七平が指摘している、

「日本人の責任者不在形式」(雨傘連判状的持ち回り)

について、色々と思いついたことがある。ここで書いた、『雨傘連判状』というのは、江戸時代などの百姓一揆などで使った物で、関係者が署名する連判状を、円状に配置することで、筆頭者をなくし首謀者を隠す形式である。この理由は、百姓一揆の時には、領民全員を処刑することはできない。そこで、中心となった者だけを処刑する。それを防ぐ手段である。連判状に記載した者全てを処刑したら、大事件として幕府から責任追及される。しかし、雨傘連判状で、皆が一体と言い張れば、処刑すべき犠牲者が出せなくなる。このような仕組みである。

 しかし、山本七平が描いた、『責任者不在』の図式は、もう少し悪い。つまり、

「皆が責任逃れをしている」

形になっている。これを

「『空気』が発生してそれに皆が縛られている」

と表現している。

 確かに、明治以降の日本的意思決定には『空気』が発生して、それが暴走したという図式があった。そこで、このような『空気』発生のメカについてもう少し考えてみよう。まず、議論すべきことは

「多数が意見を言う形の意思決定は悪くない」
「特定の決定者に依存するのでなく多くの人の納得による決定はよい」

という日本的な慣行である。これを

「稟議と根回し文明」

という人もいるが、このような納得による物事の推進は『全員参加の力』を発揮しやすく、実現への力が大きい。ただし、この方式の運用において、

「間違ったときの反省と修正をきちんと行う」

という条件が満たされていないと、トラブル発生時にも

「惰性で止まらなくなってしまう」

弊害がある。

 この理由は、

「意思決定のプロセスや検討事項が明文化されていない。
決定の前提が明らかになっていない。」

ことが大きい。このような欠点を補うためにも、日本的意思決定についてもう少し深掘りする。(続く) 

2020年1月 9日 (木)

日本文明の特徴に関する私見

 山本七平の『日本教』の話には、賛成できる部分もあるが、何となく不満を感じる部分がある。そこで、私なりに『日本文明』について考えてみた。私の考えでは、日本文明の特徴は

「無邪気なほどのお上への信頼」

である。これは、儒教の

「徳のある人間が支配する」

と言うような、理性的に作られたモノでなく、心からの信頼があるように思う。例えば、大岡裁きや、北条泰時の政治に対する信頼感は大きい。テレビの時代劇でも、水戸黄門しても、隠密物にしても、体制側が皆を救うという話である。また、明治維新があれほどスムーズに進み、更に戦後はあっという間に体制改革が行われた。逆に言えば

「自分に都合のよいように判断する神様がいる。」

っという風に考える危険性もある。

 このような、『お上への信頼』はどうして生まれたのだろう。

 私の一つの仮説は、弥生時代からの大陸からの文明流入の歴史にあると思う。つまり、

「弥生時代から古墳時代に、日本列島に渡ってきた『文明人』は、鉄器などの道具と、農耕技術の指導ができる力があった。」
「彼らは、島国の日本と言うことを理解していたので、これ以上の移住を諦め、『一所懸命』に自らの血をよくするように努力した」

と言う二つの条件があったと思う。つまり、

『皆をよくしてくれる指導者』

という原体験があった。これは、世界の歴史でも珍しいことだと思う。大陸的な文明では、多くの侵略者がやってきて、過酷な支配を経験している。そこでは『無邪気なお上の善意』などを信じることは難しい。

 一方、日本列島の支配者は、道具や技術指導などで皆をよくすることができた。これは、徳川幕府の場合でも、単なる平和だけでなく関東の開拓や、貨幣制度の充実など、多くの恩恵を皆に与えている。このような実力ある支配の恩恵を、素直に受けたのが日本文明ではないかと思う。

 先行文明からの導入という利点を生かし、その地をよくする努力を行う。このような支配形態が日本文明の力だった。

2020年1月 8日 (水)

地域の創生のために江戸時代の勉強

 地域活性化という議論をする時には、江戸時代の藩制度を見直すことも大事だと思う。徳川幕府は、時々は国替えを行ったが、原則として諸藩にその土地で継続的に支配させた。そこ結果、『一所懸命』の統治は、殖産興業という形で地域の繁栄に貢献している。従って、江戸時代の制度を見て、これを地域活性化の理想的な形と言うべきだろうか?

 ところが、一つ大きな突っ込みどころがある。

「幕末には多くの藩が経済的に破綻していた」

と言う事実である。徳川幕府自体もかなり破綻に近かったが、地方ももっとひどい状況であった。確かに、色々な開墾や、地域独自の産業を興すことで、江戸時代の初期からは生産性の向上は行われた。しかし、制度的に破綻しかかっていた。

 さて、もう少し江戸時代を見ると、徳川家康は関東地方を、多数の人間が住める土地に仕上げている。これは、治水・利水をきちんと行い、貨幣制度を確立するなどの政治的な指導力のたまものである。この『先行的成功事例』を学んで、各藩は独自の開拓を行っていった。このように、

「中央の模範例を見て、地域ごとの独自性を付け加える」

形で江戸時代の初めの方の地域の活性化は、多くの所で上手くいっている。

 しかし、その後は

「名君や天才的な指導者が出たところ」

はなんとか経済的に立て直したが、多くは破綻寸前となっている。

 この原因には色々な理由があるが、やはり

「時代環境を見て適切な指導する人材が不足している」

点が致命的だった。

 「XXの田舎者」の「有力者」

と言われる人たちが、考える力なしに権威を振りかざすと、分権しても失敗するだろう。 

2020年1月 7日 (火)

空海が現在に活躍したら

 総合的に考えると言うことでは、一つの事例として真言密教の曼荼羅を取り上げることがある。確かに、両界曼荼羅は仏の教えを,見事に多様な方法で表現している。胎蔵曼荼羅は、大日如来が発した菩提心が、慈悲の心で展開して、更に種々の方便で多くに人の状況に合わせて届く様子が描かれている。金剛界曼荼羅では、仏の心を求める修行のあり方を、九通りの図式を持って描き,全ては大日如来の力であり、それが自分にあると言うことを教えてくれる。

 このような仏の力、働きを、絵画や仏像で描き皆の心にそれがあると示す。この密教の教えは素晴らしい。空海が活躍した時代では、絵画や仏像はその時代の最先端メディアであった。当時は紙も貴重品だったので、お経なども絞り込んだ表現になっている。そこでは「慈悲」という概念を伝える場合でも,仏の姿や持ち物で象徴的に表現し、詳細は師から弟子への指導という形で伝承していっただろう。

 さて、現在の情報伝達のメディアは多様化している。また印刷技術の高度化と、紙の普及は書物などでも、十分詳細な記述が可能になっている。

 このような状況で、大乗仏教の教えを説くなら、どのような形なるだろう。

 弘法大師空海が、現在の世界に真言密教を広げようとしたら、どのような手段を採用したか、少し想像してみた。説法の動画を公開する、これは手始めで、実際の仏の力の展開を、ストーリーを作って公開していく、これも行うだろう。

 一歩進むと、ゲームの形で、色々な仏の救いを体験したり、自分の心の中を探検し、悟りに近づいていく形もあるように思う。

 弘法大師空海監修の「自分探しゲーム」などがあってもよいだろう。真言宗の皆さん、高野山に今も生きていらっしゃる、お大師様に一度相談されたらどうですか?

2020年1月 6日 (月)

地域創生のためには過去の清算が必要

 昨年末の紅白を見て、石川さゆりの「津楽海峡冬景色」を聞いたら、

「上野発の夜行列車も、青函連絡船もなくなっている。」
「この歌が見ている風景はもうない。」

と強く感じた。更にここから思いついた歌が

1964年、伊沢八郎の「ああ上野駅」

である。この歌が見た世界は、中学卒業したばかりの子供達が、集団就職で東京に出てくる姿であった。このような子供が親元を離れて働きに出る。この理由は

「当時の高度成長では、工業化が進み多くの職人をそろえる必要があった。
そこで中学卒業などの若い世代を訓練し、終身雇用で抱え込む。」

と言う、高度成長が背景にあった。ここで、「ああ上野駅」の時代には、親元を離れることへの寂しさや、抵抗があった。

 そこで通産省などが取った政策が

「憧れの東京戦略」

である。つまり、

「憧れの東京に喜んで出てくる」

「空気」を日本中に作ったのである。例えば、地方年にも「XX銀座」という通りを作る、これで

「まがい物の東京」

に慣れている人間は、東京に出ることに喜びを感じるようになる。その一つの成果が

1984年 吉幾三「おら東京さ行ぐだ」

である。

 このように、通産省などの頑張りで、東京の憧れをあおった後遺症が現在も残っている。

 この過去の清算をきちんと行わないと、地域創生は難しいと思う。

2020年1月 5日 (日)

基礎の教科書の二つの形

 先日、大学の教科書について少し考えた。そこで気になったのは

「XXの基礎」

と書かれていても、2種類の教科書がある。つまり

  1. 基礎事項の項目を列挙しているだけ
  2. 本当に身につけておくべきことを絞って丁寧に教える本

である。特に、東大の先生が書いた本は、前者の重要項目を、洗いざらい述べる形の本が多かったように思う。つまり、

「これだけの基礎知識のない人間は、議論に参加する値がない。」

と言うラインを示している。確かにこれは、

「基礎のラインを示す本」

である。しかし、これでは上滑り知識をそろえただけの人材を作る危険性がある。一方、懇切丁寧な基礎の本は、確かに入門にはよいのだろうが、いつもこのような本を求める人材なら、自分で切り開く力がなくなっていく。また、丁寧な基礎作りのためには、

「狭く深くなる」

傾向がある。確かにきちんとした土台作りのため、狭くてもよいから深く堀る必要はある。しかし、広く全体を見ておかないと足元をすくわれる。ある程度土台ができれば、

「基礎として必要な物を網羅した本」

で整理することも大切である。現在のネット社会は、このような全体像を描くことも弱いし、深く掘る力も弱くなっている。 

2020年1月 4日 (土)

日本語の会話について

 しばらく前に、ツイッターの上で、

外国の方
「日本語のアクセントを表記してもらわないと、『橋』と『端』などの区別がつかない。」
答え
「そうしたら方言でバラバラになって収拾がつかない。」

と言う議論をした。

 しかし、この話をゆっくり考えると、日本語の会話に関して、もう少し深い物が出てきた。まず最初に思いついたのは、

「私たちの会話には、漢字のイメージが入っている。例えば『橋』など。」

と言う感覚である。自分の感覚をもう少しモニターしてみると、耳で聞こえる音が、文字情報に整理されて、頭の中に入っている。この動きを見ると、文字と音声が同時に動いている。

「会話が音声だけでなく、文字の形を想像しながら進むから間違いがない。」

と言う発見であった。

 しかし、これはまだ浅い見方である。なぜこれができるのか、もう一歩進まないといけない。そこで解ってくるのは、

「日本語の文脈依存の高さ」

である。これが前提にあるから、

「今までの川の話から『橋』であり、道路走行の話なら『端』である。」

と判断ができる。文脈による判断力が一体になっているから、アクセント表記などで、個別の単語識別は不要になる。

 しかし、日本語がある程度国際化するなら、この問題はもう一度考え直すべきかもしれない。

  1. 文脈依存の少ない、『国際版日本語』を作っていく
  2. 『文脈情報を上手く伝えるコミュニケーション法』を編み出すのか

私は、日本のソフトパワーの伝達などを含めて、2.の『コミュニケーション法』創出がよいと思う。

この問題も今年よく考えてみたい。

2020年1月 3日 (金)

議論の正しい形について

 議論の正しい形について、年末に緒方貞子氏の業績を、たたえるテレビを見ていて思いついた。そこでは

「多くの人が自分の主張をする。」
これに対して
「リーダーは皆の言うことをきちんと聞く。」
その上で
「決断はリーダーが下し、皆に従わせる。」

と言う形で、しっかりした議論が行われていた。

 私は、これが議論の本当の姿だと思う。色々な見方から、多様な意見が出る。その主張自体はきちんと聞かれないといけない。しかしそれを採り上げるかどうかは別の問題である。採択の決定権は、リーダーにある。

 ここで大切なことは、参加者の姿勢である。

「参加の目的は、会議に貢献すことである。」

この大前提を忘れて、

「自分の主張だけする。」
「自分の主張が取り入れられないと不満に思う。」

と言う、参加者がいると創造的な議論は難しくなる。特に

「自分の意見が完全に受け入れられない限り反対する。」

妥協のない人間は、扱いに困ってしまう。

 なお、

「部分的にでも自分の意見を取り入れれば満足する。」

人は、ある程度は貢献する可能性もあるが、妥協的な議論となって、

「根本的な問題を解決できない。」

状況になる。

 このように考えると、

「議論の成立のためには、参加者の成熟が必要である。」

となるが、もう一つの道は

「リーダーが一人一人の意見をきちんと聞くことで個人としての尊重を示す。」
(意見の採択と個人としての尊重は別と示す)

ことも大切ではないかと思う。

 現在の国会答弁では、このような面がお互いに抜けているように思う。

 確かに、「総理の首取り」ばかりを狙う一部野党の質問に、真面目に付き合えというのは難しい物があるが・・・

2020年1月 2日 (木)

「AI美空ひばり」が引き起こすAIバブル崩壊

 昨年末の紅白で「AI美空ひばり」が登場した。私は音痴なので,音楽の面はよくわからないが,耳で聞く限りは素晴らしい物だったと思う。

 さて、この「AI美空ひばりは」NHKの番組で、何度か出ている。私が紅白で見たのは3度目であった。

 最初の、NHKスペシャルでは、「AI美空ひばり」の開発秘話などもあり、人工知能学会の創立年からの会員としても、

「ここまでAIが来たか」

と素直に感動した。

 しかし、その後テレビの画面を見ながら、「AI美空ひばり」の歌っている姿を観ると、違和感を感じるようになった。言い方は悪いが

「表情の乏しいまるで幽霊の顔」

という感じで,これは紅白の画面を見たときにも同じ感じである。

 実はこの理由は既にNHKスペシャルで明かされている。「美空ひばり」の音楽を再現させたのは、単にAI技術を使ったのではなく、ヤマハの技術者の高度な力が、

「道具としてのAI技術を駆使」

して実現した。

 さて、表情に関して、これと同じように、労力を費やすことができていたであろうか?時間的にもこれは難しかったであろう。従って、

「今のAI技術にお任せの表情」

となり、

「高度の音楽性の実現とのアンバランス」

となってしまったのではないかと思う。

 さて、この話はとても大きな教訓を残している。つまり

「AIお任せでは高度な物はまだ難しい」
「高能力の技術者がAIを補助に使うとすごい物ができる」

と言う状況である。これは当たり前と思う人が多いだろう。しかしながら、ここで私はこの話より

「AI人材バブルはじけが発生する」

と言う予言を行いたい。これは、

「単にAIの使い方を知っているという人材への過剰要求」

が、はじけると言うことである。

 この前例は、既に前世紀末ぐらいに騒がれた

「カオス理論によるブーム」

がある。当時、このような高度の数理モデルを理解する人材が必要と

「数学の大学院卒業者などをシンクタンクが迎えた」

が、結局このような理論の力が,現実に適用できず、

「文化人類学の経験者の方が数学よりよい」

と言う話が,計測自動制御学会誌に載ったりした。

 私は,現在の「AI人材」に関しても,同じようなトラブルが起こると思っている。特に現在のAIでは,モデル作成が機械任せの場合も多く,そのような技術者の使い道で企業は困ると思う。健全なAIの発展のためには,このようなバブル的な者が早くはじけて

「地に足の着いた基礎力充実」

に戻ることが大切だと思っている。

2020年1月 1日 (水)

令和2年を迎えて

謹賀新年

 今年が皆様にとってよい年であるように祈っています。

 昨年末にこのブログを色々と見直しました。同じようなことを何度も書いていますが、新しい見方や事例が増えて,少しは進歩しているようです。そこで、今年はもう少し焦点を絞り。知恵の働きという面で、実例や考え方について,できるだけ書いていきたいと思っています。

 今のところ注目しているアイデアは、親の立場の智慧です。西洋文明で言えば、交流分析の親子と成人の関係がよく表していますが、大乗仏教の教えの方が、方向付けとしてはよいように思います。親の立場で、全てを造り衆生を我が子として見守る、これを知恵の働きとして考えると、一つのアイデアにまとまります。これをまとめると

「物を、自分の力で全て創造する」
「この上で、色々な動きを想像する」

となります。

 このように、自分で作ることで「主体性」を、想像した世界を「客観的」にみることで、両立させることが出来ます。

 西洋文明的な教育は、客観性は大事にしますが、評論家的な態度に見えることもあります.一方、自分の問題として取り組む人は、主観的になりやすく、冷静になれず客観的な見方が出来ないことがあります。

 これを解決する「親の立場」が、今年の一つの課題だと思い頑張ります。

 最後になりますが、皆様の今年一年のご多幸をお祈り申し上げます。

令和2年元旦

鈴木良実

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