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2020年1月21日 (火)

日本的な論理展開について

 山本七平の『日本教』に関して、私はキリスト教文明の人間の偏見を感じる。キリスト教だけでなく、プラトン等の西洋文明全体に関する違和感かもしれない。今回はその中でも、論理的な思考法に関して議論してみたい。山本七平の概念装置の一つに『実体語』『空体語』とそれを扱う『天秤なる人間』がある。『実体語』と『空体語』の対立は、明治維新の過激な議論、その後の文明化、そして軍事拡張、更には敗戦後の急激なる転換と、冷戦構造の活用などの、

「強烈なる思想が力を持つとき」

には有効だったと思う。

 しかし、安定時期に多様化するときは、このような単純な二項対立というか、バランス論では言い表せないモノがあるように思う。

 一方、もう一つ別の見方をすると、二項対立ではなく、極端な思想の『空体語』の力があるから、現実を上手く認識できるという面もある。これは、西洋文明の単純な

「0か1か式論理」

で表現できないモノという問題が根底にあるように思う。現実社会を切り出して議論するとき、

「一つの側面は明確になるがそれ以外が複雑なまま」

という状況がよくある。そこで、過激な『空体語』表現が明確になれば、『実体』が見えてくると言う発想はあると思う。

 もっとも、インドの論理的な発想では、比喩で説明するとき、肯定側と否定側を両方使うという発想もある。天台の摩訶止観でも

「『不思議の境』の説明の前に『不思議でない境地』を説明する」

という手順を踏んでいる。このような反対側から、上手く説明する智慧が、複雑な現実対応には必要だと思う。

 西洋文明は、ある意味で理想化した社会を考えるから、過激に走ることが多いように思う。

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