交流分析の考え方で日本文明と西洋文明の発想を整理する
日本文明は、
「全体像を見て議論する」
と言ったが、これを全ての人が行うのではない。このような議論は、限られた
「有能な指導者が行う」
仕事であり、
「多くの人はそれに従えばよい」
と言う発想がある。これは、前にも書いたが、「日本人のお上に対する無邪気な信頼」として実現している。
http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f1d1d3.html
これを、交流分析では「親ー子」の関係と言う。これは、法華経にある
「この三界は全て我が有なり その中の衆生は全て我が子なり」
と言う発想と見事に対応している。このように
「全てを知っている親のような存在」
が可能であることを信じるのが日本の文明である。
さて、ここで交流分析では、親に「厳格な親」と「優しい親」という二つのパターンを考える。この二つについて、今までの議論を踏まえて説明すると、
- 自分が全てを見通し皆を導く優しい親
- 自分の地位などの権威だけで押さえる厳しい親
の二つに分かれる。なお全てを見通しても、言うことを聞かない子供には厳格になるだろうし、自分がわかっていないことを自覚して、優しく振る舞う人もいるだろうが、権威依存か見識による導きかという違いは大きい。
一方、西洋文明を交流分析で考えると、
「神の立場は人間には到達不可能であリ、親にはなり得ない」
と言う限界がある。そこで、
「全てではないが、出来る範囲は努力して知る」
「成人」の態度が必要になる。このような、「成人の集団」として社会を考えるのが、西洋文明であり、その成果が民主主義である。そこでは、支配者といえども全能ではない。間違えばすぐに交代する仕組みが民主主義である。
この発想の違いを知らずに、西洋文明を全能の神的に考えたのが、明治以降の日本の流れだと思う。
マックス・ヴェーバーは、
「社会を見る考え方として自分の見方を示した」
しかし日本の一部は
「それを社会のあるべき姿を教える教本」
とみた。これが、日本文明の迷走状況を示している。
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