『日本教』の危機はなぜか
昨日書いた、『日本教」の危機という話は、もう少し理由を解明することができると思う。まず昨日示した『日本教』の危機とは
「従来の、『空気』と『実体』のバランスが、崩れて『空気』の対決になっている。」
という状況である。私はこの理由について、日本の急速な高学歴化の進展、そしてネット環境の急速な進歩があると思う。この現象をもう少し説明すると
- 高学歴化したことで抽象化した概念での議論ができる人間が増える
- ネットの充実、特にSNSの力で、誰でも情報発信できる
状況になっている。加えて、実体験が少なくなったり、個人の中でも実体験の比率が少なくなっている。こうして、山本七平式の『空体語』だけで、議論が進む世界になっていく。
さてここから、私の解釈の『日本教』について、少し議論したい。私の解釈では、『日本教』の主要要素に
「無邪気なまでのお上(神様)への信頼」
がある。例えば以下の議論
http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f1d1d3.html
これを支えるのは、全体像を持った指導者の力であった。
http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-03ac57.html
しかし、現在このような全体像を持つことすら忘れられているように思う。これが
「日本教の危機」
の本質だと思う。西洋文明化した人間が多くなったとき、日本教が成立するのだろうか?
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