ご縁のあった人たち

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2020年2月29日 (土)

NET社会の効用について

 先日書いた、学校的理想社会の対応について、ネット社会の動きについて少し考えてみた。色々なトラブルが発生したとき、学校などでは、

「被害者側に対して冷たい」

対応を取ることが少なくない。この理由は、先日の記事にもあるように

「理想化したモノしか考えない」

現在の日本社会の本質的な欠陥でもある。このような社会の『立派な』教師達は

「いじめなど存在しない」
もしくは
「恨みの気持ちなど持たず直ぐに許す」

等という、『理想的社会』『理想的人材』発想でしか考えない。

 しかし、現実の人間の感情は多様であり、心の傷の影響も色々とある。

 現在社会は、これを受ける場所として、ネット空間が働いている。一昔前の2チャンネル、現在のSNSが、被害者の生の声を聞き、それに対して色々な反応を示す。確かに、被害者をもっと傷つける『セカンドレイプ』的なモノもあるだろう。しかし、被害者に素直に

「共感し受け入れる人」

 が存在するのもネット空間である。O市のいじめ問題も、ネット空間の力が問題明確化に大きく働いた。暴走も一部あったが、被害者遺族の応援もあった。

 このように考えると、ネット社会は今までの『理想社会』を変える力がる様に思う。

2020年2月28日 (金)

私たちの力が及ばないモノとは

 先日の続きで、私たちは、何を『不可思議』と思うか考えてみた。法華経の中には、

「無限の大きさ、久遠の時間」

が『不可思議』なモノとして示されている。

 また、摩訶止観の『不可思議の境』では

「三者は別のモノでもなく、一つのモノでもない」

を観る。

 前者は、現代人なら『無限の扱い』と言うことで、概念的に処理できるから、わかった気持ちになってしまうかもしれない。しかし、それを具体的に考えられないのであると、本当に解っているのだろうか?

 一方、後者は、『仏の智慧』を得て、『全てを創造する』立場になれば、一つ一つの存在だが相互に依存し、独立ではあり得ないモノが見えてくる。

 こうして考えると、現代の科学技術の成果を鵜呑みにしている私たちは、

「本当に解っているのか?」

と言う問題に常に向き合うべきでないかと思う。

2020年2月27日 (木)

支配者の指導力について

 私が考えている『日本教』は、

「神様は全て観て導いてくれる」

と言う根本的な教義(信仰)に支えられている。これは、西洋文明における、プラトンの『国家』が描く

「哲学者の指導」

にも共通するモノがある。ただし、プラトン以降の西洋文明は、『人間の到達不可能世界』への諦めがある。一方、日本においては、大乗仏教が六世紀に入り、小乗仏教の『彼岸への憧れ』を経由せずにいきなり『仏の智慧を得る』ことができると、

「完全な指導ができる」

と、純真な子供のように信じてしまう傾向がある。

 さて、今回は、このような指導者の力について、考えてみたい。皆は指導者に何を求めるか?

「暮らしを維持しできれば良くしてほしい」

これが一つの答えである。そのためには

「一般大衆よりもよくわかっている」

必要がある。この力の候補を考えてみると

  1. 今までの経験
  2. 経験の伝承知識
  3. 思考能力による推論・洞察
  4. 経験の一般化・応用能力
  5. 想像した世界での物語作成(シミュレーション)

等がある。プラトンは、3.の思考能力を重視した。確かに当時の幾何学の論証力は、従来の経験的な知恵を超える一般性を持ち、多大な成果を生んだ。一方、仏教の推論は、比喩的なモノ・現実的なモノが主体であり、西洋文明のような科学の世界を生み出すことは難しい。

 しかし、『法界を自ら造る』力が、人にもあると言うことで、5.想像した世界で物語を作り、展開できる力が人間にある。この力で人を導ける、と言う発想はあると思う。この問題は、もう少し深める価値があると思う。

2020年2月26日 (水)

近代科学の便利さで見えなくなったモノ

 現代数学を学ぶとき、きちんとした形式体系の力を、知るようになる。現実の世界を離れ、抽象化した記号の世界だけで考える。これは素晴らしい力を生み出す。しかし、このような抽象化した世界だけで考えることは、本当に良いのだろうか?

 先日から、法華経について考えていて、この問題を考え直すようになった。法華経では、『久遠の寿命』が主要な教えになっている。

「お釈迦様は、私たちが知ることができない、遠い昔から悟りを開き、法を説かれている。」

これは法華経の一番大事な教えである。さて、ここで『私たちが知ることのできない遠い昔』を、どうして表現するかという問題がある。

 これを現在の数学の知識で考えると、

「10のXX乗という、とても長い年月」
「無限大の数ω」

等という、便利な記号で記述できるかもしれない。

 しかし、この『無限大』という概念は、実体があるのだろうか?数学的な操作では、色々な対応を考えたり、連分数等を使って詰め込んでみたりして、色々な性質が記述されている。しかし、それが現実にあるモノだろうか?

 一方、法華経では、世界をすりつぶし、それを遠くの国に行きながら、少しづつ落としていく時間など、具体的なイメージで話をしている。この具体性を維持しながら、私たちが考えている世界を広げていく発想は、西洋文明にはないものではないかと思う。現実に根ざし、しかもその後ろにある『不思議の世界』を観る。このような力が本当に必要ではないだろうか。

 

2020年2月25日 (火)

理想化した『社会』だけで考える人間の危険性

 日本の大乗仏教には『十界互具』という教えがある。つまり、

「仏の世界にも、地獄から仏界があり、地獄の中にも仏界から地獄がある」

と言う教えである。確かに

「地獄に仏」

と言うが、仏の『浄土世界』に、地獄があると言う発想は、なかなか理解しがたい。

 しかし、いじめ問題や犯罪被害者などの気持ちについて、考えていくときに少し解ってきた。

 このブログで何回か書いたが、

「現在社会は、『怒り』の感情を抑えすぎている」

状況にあると思う。確かに『報復の連鎖』が行われば、社会は不安定になり崩れるだろう。従って『復讐権』を一般人から取り上げて、司法の手に持って行く。これが現在社会の仕組みである。しかし、個人の感情はそのような理屈だけで収まらない。

 しかし、学校制度などでは、学校運営側の都合などで

「復讐心や憂身の心は悪い」
それどころか
「被害者にも隙があった」

等と押さえ込んでしまう。つまり、

「教科書に書いてある、『理性的行動』を取る人間に当てはめる」

ことで、組織運営ができるようにしていく。このように無理に押さえつけれた人間は、感情のエネルギーの吐けどころがなくなる。この押さえ込む体質になると、激しい感情にも押さえ込むようになり、鬱病になることも少なくない。この問題は現在社会の重荷になると思う。

 さて、最初に述べた、

「仏の世界にも地獄を観る」

と言う議論は、

「仏は世界全てを創造する力がある」

と言う観点で見ると、新しい解釈ができる。つまり

「世界にいる人間には、仏の心のある人間もいれば、地獄の心を持った人間もいる。悪事を行う人間もいれば、それに足して復讐心を燃やす人間もいる。」

と言う、

「心の多様性に向き合い、その上での皆の幸せを考える。」

力が本当の仏の力ではないかと思う。

 理想的に、『何でも許す人間』しか生存を認めない社会になっている現在は、多くの鬱病患者を生み出している。この反省ができていない。

2020年2月24日 (月)

使える知識についてもう少し

 昨日書いた知識の活用の話について、もう少し書いておきたい。今回書くのは

『知識の網』

と言う考え方である。現在の学校教育は、

『一つ一つの分野がバラバラ』

と言う状況である。しかし、知識というモノも総合的なに生かすためには、お互いの関連が上手く機能しないといけない。

 例えば、算数や数学の文章問題に解決には、国語の論理的な読解両区が必要である。逆に、算数の文章題を解くことで、どっかり欲とそのスピードも上がる。そうすると、理科や社会の問題もすらすら解けるようになる。また、数学の証明問題にも、論理的な文章の作成力が必要である。

 更に、大学などのレベルになると、物理学などの後ろに数学のきちんとした体系が見えてくる。こうして、

『抽象的一般原理と具体化への展開』
『各分野相互の関係』

の関係がつながってくる。

 こうした知識が

『網の様につながる』

『網の目のどこかが使える』

状況になってくる。

 このように、知識が整理されていることも、

『使える知識』

の条件である。

2020年2月23日 (日)

学問的知識の活用法

 先日から書いている、経験と哲学者の問題について、今日は別の切り口で考えてみたい。昨日までの記事はこちら

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-14ec1e.html

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-2c75c6.html

 今回議論するのは、現在あるモノや経験に対する知識の活用である。これは、とても大切なことであるが、このスキル教育が現在はおろそかになっているように思う。

 知識の活用の一つの場面は

『トラブル発生時の原因究明』

である。先日亡くなった野村克也名言の

『負けに不思議の負けなし』

にもあるように、トラブル発生時には何らかの原因がある。このような原因追及は、絞り込んでいけば、

『原因ー結果』

の明確な関係に追い込むことができることが多い。確かに複合的な要因や、不確定な外部環境の影響もあるが、多くは理論的に解明できることが多い。こうして

『物事を単純型モデルで説明できる』

状況になれば理論的な知識が有効になる。ここで『単純化』に関しては、経験要素があるので、先輩達から伝授を受ける必要がある。

 さて、もう一つの知識の利用は、

『成功体験の理由付け』

である。野村流の

『勝ちに不思議の勝ちあり』

『不思議を解明する』

ことができれば、経験の活用を間違えない様になる。過剰なまでの一般化による失敗、慎重になりすぎての機会損失、両者を防ぐために、

『どのようなからくりで成功したか』

を理論的に解明する。このためには、

『ある程度理想化・単純化したモデル』

を作り上げて、理論的な検討ができるスキルが必要になる。

 これが本当に役立つ知識だと思う。

2020年2月22日 (土)

新しいモノを作り上げる方法

 昨日の続きで、新しいモノを提案するための考え方を書いてみたい。私も40年ほどの会社員経験で、新しいモノの提案は難しいと言うことを、身にしみて知っている。その教訓の一つは

「斬新なものほど、完成度が高い形で提案しないといけない。」

これは、

「今までの常識を覆すモノは、多くの人には、ある程度の形にならないと、全く理解できない。」
「見える形になると色々とケチを付けたがる。」

と言う現状に対して、多くの人を巻き込むためには、

「ある程度の形を見せ、それに多くの意見を組み込んで、関係者としての応援者を増やす。」

と言う作戦である。

 さて、このように新しいモノを造るためには、以下の2+1の側面がある。

  1. モノができる可能性を示す
  2. できたモノが実用になるようにする
  3. そのモノの使える範囲を割り切る

この3つめ(+1)は、新しいモノを提案したときの失敗にある

「期待されすぎ、失望で全滅する。」

の対策である。世の中での、「XXブーム」が途切れるのは、このパターンが多い。

 さて、『可能性を示す』と『実用になるようにする』を分けたのは、これを分けると仕事がやりやすくなるからである。まず最初に、理想的な条件だけで組み合わせて、骨組み的なモノを造っていく。これは理論的知識の活躍が大きい。つまり哲学者的な思考も役立つ範囲である。

 しかし、このような可能性を示す『プロトタイプ』は、現実の多様性に対して弱い物になりやすい。そこで色々な経験を加えて丈夫なモノにしていく。この段階では、色々な人の意見を聞くことも大切である。ただし、全てを聞いて取り入れる必要は無い。

「できないことはできない」

これを宣言していくことで、期待外れの敵対者を防ぎ、決められた範囲で良いモノとしていくことが大切である。

2020年2月21日 (金)

経験のある哲学者の支配が望ましいのか

 世の中には、

「博士号を持っているような論理的思考ができる人間を大事にしろ」

と言う議論がある、これをたどっていくと

「プラトンの哲人政治」

に行き着く。しかし反面では

「MBAの経営者に任せると会社は潰れる、経験が必要である」

と言う意見もある。また、哲人政治に関しても、あまり良い評価なはい。

 それでは、

「哲学的な思考の訓練を積んだ人間が、経験を積むと良い支配者になる」

のだろうか?

 私は、この問題に関しては、もう一歩の踏み込みが必要だと思う。つまり

  1. なぜ「しっかりした学問的思考」が必要か?
  2. なぜ「経験が必要か?」

この二つの問いにきちんと答える。これが必要だと思う。

 私の答えは、

  1. トラブル発生の原因究明や、新しいモノの提案に学問的知識を生かす思考力
  2. 全体像を見て総合的な判断を下すために経験

の両面が必要だと思う。

 なお新しいモノの提案に関しては、項を改めて書きたい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-2c75c6.html

 

2020年2月20日 (木)

『自分が正しい』と言い切れる条件

 あるところで、歴史的要素のある漫画に、『立派な学者』先生が『ご指導』されていた。彼女の作品には、独特の神がかり的な世界観がある。それを歴史の『立派な先生』達が、

「最新の歴史の研究と合っていない」

と色々とご指導されているようである。

 しかし、歴史研究と芸術創作は別物である。もっと言えば、政治的主張も別である。これが今の社会で混同されている人がいるので、話がややこしくなってくる。確かに、独裁的な政権では、体制批判に関する創作は認められていない。日本でも、徳川時代に

「将軍を馬鹿にした」

と言うことで戯作者に処罰を与えた例もある。

 さて、ここで私が書きたいことは、このように

「自分の考えている世界観だけが正しい」
(特に学問的な世界観)

と言う人の存在についての議論である。

 ここで私が思いついたのは、数学の基礎的な問題である、『連続体仮説』の議論である。連続体仮説の詳細は省略するが、この仮説は、

「肯定しても矛盾しないし、否定しても矛盾しない」
つまり
「基本としているZF公理系から独立」

と言う結果になっている。肯定側の証明はゲーデルが行い、否定側はコーエンが行っている。

 さて、今回の議論は二人の証明方法である。ゲーデルは、理論展開のため

「検討世界を狭く限定する」

ことで、連続体仮説をZFに加えても矛盾なしとした。一方コーエンは

「多様な仮想的な元を想定し世界を膨らませる」

ことで、連続体仮説の否定を加えても、ZF公理体系と矛盾しないことを証明した。

 今回の、

「自分が正しい」

と主張する人を見ている、どうもゲーデルの

「限られた世界での議論で証明」

と言う発想を信じている人が多いように見える。

 なおゲーデル自身は、コーエンの研究を高く評価したが、自分は連続体仮説の否定を証明したいと考えて、前提になったZF公理系を改造しようとしていたことも付け加えておく。

 数学と言ってもこのように多様な世界観がある。まして、文系学問では、もっと多様なモノに寛容になってほしいものである。

2020年2月19日 (水)

評価されるということ

 ここしばらく、「怒り」について書いている。現在社会での「怒り」の原因の一つは、

「正しく評価されていない」

と言う思いである。

 しかしながら、『正しい評価』というものがあるのだろうか?この問題を、もう少し考えてみた。

 私の現在の考えは、

「絶対的に、『正しい』評価などは存在しない」
「その状況に対応した、相対的な『正しさ』しかない」

である。人間の能力も、状況対応で必要と不要が変わる。チームを組むときには、同じ面の人材ばかりでなく、異なった力が必要になる。その時には希少価値が力を発揮するが、その力が不要なときには邪魔者となる。4番バッターだけでのチームはできない。しかし、

「XX殺しのワンポイント専門」

は、XX引退で不要になってしまう。

 さて、今までの議論は、

「当然のこと」

と言う人が多いだろう。しかし、

「実行できているか?」

と言うと困った顔をする人が多い。

 さて、このブログで今年になってから書いている『日本教』の観点から、評価問題について一言指摘しておく。

「日本教の信者には、全て解っている人がいる、と思い込む」
従って
「正しく自分が評価される、と思い込む」

危険性がある.これは西洋文明の

「人間は所詮不完全」

の割り切りがないので、とても怖い話である。この危険性を明確に意識するだけで、少しはトラブルを避けることができるだろう。

2020年2月18日 (火)

怒りの発生について現在社会を見る

 怒りへの対照法について、考えるために天台の摩訶止観を読み直してみた。『瞋恚』の対処を見ると

「慈悲の心で対応せよ」

となっている。これは

「単純に甘やかして許せ」

ではなく

「法界を造る仏の立場で親として考える」

と言う大きな慈悲である。

 しかし、天台大師が摩訶止観を説いた6世紀と現在は大きく異なっている。これを比較しながら、『現在人の怒り』を見てみよう。

 6世紀と現在の違いは、社会構造の複雑さと、仕組みの違いである。学校制度という教育システムと、マスメディアやネットワークメディアによる多くの人からの影響である。

 ここでは、強制された人間関係や、評価がある。この強制による怒りは、直接の人間関係によるモノもあるが、制度上の問題が大きい。例えば、給与などで

「自分が正しく評価されていない」

と言う怒りを持つ人は多い。

 一方、6世紀の様に、面と向かって話す、直接的な人間関係なら、慈悲の心も起こしやすい。

 このように考えると、

「現在の『怒りの原因』は、間接的で絶対的ではない」

と言う見方で対応すべきではないかと思う。

「全てが『空』である」
「仏の目で見れば今まであったことは小さなことである」

このような見方で対応すべきではないかと思う。

2020年2月17日 (月)

怒りへの対処法 続き

 昨日の続きで考える。昨日の要点は、

「自分のことと距離を置ける場合は客観的に観る」

であった。

 今回は、怒りのエネルギーを、うまく活用できる場合について考えてみた。アイデアは

「怒りの、真の原因が観えれば、それに対して解決法が見える。」

である。このため、自分の状況を冷静に観ることが必要である。このため、自分に対して

「優しく客観的に観る」

ことが必要になる。

「あなたは、なぜ怒っているの?
何をされたの?
何が怖いの?」

これらの質問を優しく投げかける。そうすると自分怒りの、本音や真の原因が見えてくる。例えば、

「会社での上司に腹が立つ」

という表面的な怒りから、

「その理由は?」
と自問自答から
「仕事成果を評価されていない」
「同期と比べて評価が低い」

等の具体的な理由が見えてくる。

 ここまで来て、まだ元気があるなら、

「自分の力を客観的に評価した」
「自分のPR不足だった」

という、本当の問題につながる行動につなぐことができる。このように、上手く怒りのエネルギーを、自力でできる改善活動に持ち込めば、怒りが良い向きに働くことになる。

 真の『怒りの原因』を見いだし、『自分で解決できる可能性』が見つかれば、怒りのエネルギーで大きなモノを得ることができる。

2020年2月16日 (日)

怒りへの対処法

 昨日書いた、怒りに対する話をもう少し考えてみた。これは、色々と難しい面がある。まず、怒りの感情が暴走して、自分や他人を傷つける、これはできるだけ避けるべきである。しかし、

「怒りはいけません」

と無理に押さえつけると、鬱病にまで至る危険性がある。また、鬱からの回復が行き過ぎると躁状態になったりして、他人への攻撃的反応が出ることもある。

 このように考えると、怒りに対する対処療法は、どうも危ない。

 もう一つ、仏教の智慧を探ってみた。摩訶止観などでは

「瞋恚(怒り)が出れば、慈悲の心で対処せよ」

とある。これに関しては深く修行すれば、実行があるだろうが、中途半端に

「慈悲の心を持ちなさい」

だけでは対処療法にもならない。なお、天台大師が摩訶止観を説いた時代と現在は大きく変わっている。個人に対して、社会的な関与が大きく、しかもネット化した社会なので、個人が社会に発信する機会も増えている。このような時代の背景を考えた対応でないといけない。極論すれば、フロイトやユングのみた世界とも別の世界に生きている。

 さて、私が考える、怒りへの対処法のアイデアは以下の通りである。

  1. 自分に本当に降りかかっている問題への怒りに絞る
  2. 社会的な問題などは客観的に見る
  3. 自分で解決できることを明確にして対処する

つまり、感情を動かすことは、自分に直接かかっていること、しかも現実に今起こっていることに絞っていく。一方、他人の話や社会的な現象などには

 「距離を置いて客観的に見る」

ように努める。確かに、共感は大事であるが、取り込まれてはいけない。その人達を

「苦しんでいる!かわいそう!」

と見る。しかし、そこで自分を爆発させない.これが大事だと思う。距離を置いて、

「自分でできる本当の解決に役立つこと」

を見いだす。

 なお、過去の自分も.ある程度客観的に見るべきである。

「(子供のような過去の自分に)つらかったね!」

と語りかける。このような姿勢で、感情の爆発を抑えながら、

「本当に怒るべきことにだけ」

を見いだすことで、大分ましになるのではと思う。

(続く)

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-7e221b.html

 

2020年2月15日 (土)

「怒り」は悪いのか?

 現在社会では、怒りを抑える人が多く、そのために鬱病が増えているのではないか、これが昨日書いた内容である。

 しかし、

「怒り」は、悪いのか?

この問題に対して、もう少し言えば

「誰かに都合のよい『怒り』だけが認められる」

と言う状況がある。

 この管理社会の問題は、人間の感情までコントロールしている点である。自分たちに都合のよい『怒り』だけを許す.このような社会に組み込まれている。

 しかし、本来は『怒り』のエネルギーは大きく、これで苦難を突破することも少なくない。

 理趣経の説く

「欲が世間を整える」

も大事だが

「怒りが苦難を切り開く」

面もある。そのためには

「広い視野を持ち、正しく怒ることが大切」

と納得しないといけない。

 さて、私はこれを「お不動様」のお姿を見ながら書いている。皆を、仏道に入れて救う.そのために「怒りの明王」の姿、これを体得できていない己の未熟さを嘆くばかりである。

2020年2月14日 (金)

現在日本社会と鬱病の関係

 昨日書いた、心の闇と綺麗事の議論に関連して、鬱病について考えてみた。現在の日本社会には、鬱病となっている人が少なくない。これをもう少し時間軸を巻き戻し、昭和の時代なら「躁鬱病」という言葉が多くあった。この変化に理由はあるのだろうか考えてみた。

 私の仮説は、

「道徳的に怒り抑える仕組みが強くなったため、鬱病が増加した」

である。具体的な例で考えると

「被害を受けた人間が、暴力などで報復することを禁止される。
そこで怒りからの行動を抑えるため、
脳内物質が出て無気力鬱状態になる。」

と言う状態である。これは、交通事故被害者、犯罪被害者や不倫の被害者などに起こる現象である。確かに、復讐のための暴力行為を許せば、社会が崩れていく。

 現在社会は、暴力による報復を禁じている。一方、言論による行動の自由度は高いが、言論できちんと自分の意見や、被害の感情について言うには、それなりのスキルが必要である。これができない人間は、感情が爆発してもはけ口がなくなってしまう。そこで、爆発しないように脳内物質が働き感情を抑える。これが、働き過ぎて鬱病になる。

 このような図式はあると思う。

 考えてみると、現在社会は腹の立つことが多い。就職氷河期問題に関しても、一つの原因は

「既に正社員になった世代の(組合委員の)既得権を守るため、若い世代の採用を抑えた。」

面がある。これに対して、「世代」という見えないモノには、怒りをぶつけられない。このようなとき、衝動を抑えるために、鬱系の引きこもりが出るのではないだろうか?

2020年2月13日 (木)

心の闇と綺麗事の関係

 人間の心には、色々な闇の面がある。この扱いについて少し考えてみた。まず、今の学校教育などでは

「正しい行動を取る子供を育てる」

と言うことで、

「闇の部分がない」

と言う発想で考えている。いわゆる

「綺麗事の世界」

である。しかし、人間には、色々な行動や考えがある。そうして

「傷つけられた経験、それに対する恨み」

等の闇の部分が出てくる。このような、闇の部分を無視して

「綺麗事だけで世界を考える」

是非を考えてみた。物作り、特に設計や開発をした経験者なら解ると思うが、更地でモノを考え出すときには、

「まず理想的な正常機能を動くようにするための本体を作る」

段階から始まる。この段階で色々な冷害を考えると収束しなくなる。しかし

「一度全体像ができれば、例外を考え色々と揺さぶり、それに耐えるように丈夫にする」

段階を経由しないと製品として売ると後でトラブルの山になる。

 この発想は社会的なモノでも同じではないかと思う。

 仏教では、六根清浄になれば、仏の世界が見えると言う。つまり「綺麗事の世界」で全体像を見る。しかし、仏は

「十界互具で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の全てを観る」

力で、地獄の心まで見ている。

 このように全体像を作るための「綺麗事」と、現実の多様性を見て「闇の部分の対策」の両面を扱う、本当のリーダーが必要になってくる。

2020年2月12日 (水)

深い穴を掘るだけの鍛錬であって善いのか

 昨日書いた、多様性の話に関連して、今朝のNHKの話でショックを受けたので、もう少し書いておく。

 今朝のNHKが取り上げた話は

オリンピックの空手の型選手が、琉球舞踊の膝の使い方を学んでいる

と言う話であった。

 これが、テレビで取り上げられたのは、

「犬が人をかんでもニュースにならない,人が犬をかんだらニュースになる」

と言う原則から、

「空手と舞踊は別」

と言う常識が育っているらしい。昭和の時代に育った立場では、

「空手の琉球舞踊は表裏一体、琉球舞踊の名手は空手もできる」

と言う常識をもっていた。もう少し踏み込めば

「沖縄では、武術禁止・武器禁止が厳しく、そのために素手の格闘技の空手が普及したが、空手すらも危なくなったので、琉球舞踊のなかに、体の使い方の極意を隠した。」

と言う伝説すらあった。

 このように,関連する物事の網をきちんと作らず、バラバラの専門家を育てているのが現在の教育ではないかと思う。

2020年2月11日 (火)

多様だが複雑ではない場合の考え方

 ネット社会では、色々な人の意見が出てくる。この人達が、

「自分の意見に従え」

と言い出すとトラブルが多くなってくる。特に、SNSの場合には、自分の書き込みや、閲覧履歴をサービス提供側が見て、自動的に

「その人に会う情報を提供」

ようになって、雪だるま式に膨れ上がっていく。

 さて、ここで大事なことは、

「人間の(経験の)多様性」

である。人の感じ方は、今までの経験や興味の持ち方で大きく異なっている。しかも現在のようにネット環境が充実し、更にゲームが普及しているので、そのゲーム内での経験が、蓄積されて考え方まで影響を受けている。ゲームの体験は、多様に渡るので、若い人でも、年寄りの予想できない観点で、深い考えにつながることがある。状況によっては価値観のような根本まで変えることもある。

 しかし、ここで言う深い考えは、価値観などと言う意味で、論理的な複雑さという意味ではない。見方を、その人に合わせると、すぐに理解できることが多い。例えば、ゲームの登場人物で、

「自分の夢を教え子に託す」

と言うストーリーを経験すると、色々な指導者との関係で

「夢の押し売りをしてくる」

と拒否感を持つ場合がある。

 このように、発想の多様化に対応すべきであろう。

 このとき、知識の扱いは、多くの物事を説明する一般原則から演繹的に展開する形ではなく、広く網のように広がる形で身につけるべきである。

「一羽の鳥を捕らえるのは一つの網目、しかしどこに鳥が入るかは解らない」

これは、天台の摩訶止観に出てくるが、多様化時代の知識はこのようなモノかもしれない。

 なお以下の記事も参考にしてほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-473c.html

2020年2月10日 (月)

『日本教』の元で論争は上手くいくのだろうか?

 今年に入ってから、色々と議論している『日本教』の根本には、

「全てを知っている親のような神様がいる。この境地に人間でも到達できる。」
(神様と自然は日本教の信者に対して善意で対応する)

と信じている面がある。

 さて、このような条件で、論争などの争いごとになったら、どうなるだろう。日本教の図式で言えば

「子供と子供のけんか」

となので、

「親の裁定が必要」

となる。これが根本にあるから、自分が間違っていると言うことを、「相手の説得から受け入れる」ことは難しい。確かに力の差がある場合なら、「相手を親の立場と認めて従う」ことはあるが、平等な議論は難しくなる。

 一方、西洋文明は、

「神の下にいる不完全な人間同士」

の議論なので、お互いの意見を持ち寄り、よりよくすることも可能である。

 この違いは、色々なところに問題を引き起こしているように思う。例えば、日本の場合、「XXが悪い」と刑事訴追することが基本の発想で、民事で追い込むのは少ない。しかし、欧米流の法律の発想なので、

「疑わしきは被告人有利」(被告は弱い立場という原則)

が働いてしまう。これは、性犯罪などで顕著になるが、

「刑事事件なら十分な弁護機会があるので無罪」

と言う可能性が出てくる。一方、被害者側が民事で訴えると

「加害者側の主張はおかしい」

と言う判決になることも多い。(ただし、この前に刑事事件で無罪になっていれば、それを盾に主張する可能性あり)

 このようなことも考えて、検察側が不起訴にする場合もある。

 ただし、『日本教』発想では、お上に決めてもらう刑事裁判が多くなるだろう。

 この矛盾をよく考えておく必要がある。

2020年2月 9日 (日)

『日本教』の影響下での社会分断について いわゆる『高学歴者』の思考限界

 昨日書いた、日本教と正義の問題は、悪影響を及ぼすと、社会分断になる。

 これは、少し前に書いた『高学歴』という議論とも重なるが、

「現在の学者達の思考法には、決められた範囲での厳密な思考法」

を重視している。

 このような思考の厳密さは大事なことであり、何もかも鵜呑みにするよりは、きちんと資料評価する姿勢は大切にしないといけない。

 しかしながら、この時とても危険な現象が起こる。それは

「考慮にそれたモノに対する配慮がない」

と言う事態である。この問題は、『日本教』の根本仮定である

「全てを観てくださる神」

の範囲から出てしまうと言うことであり、この人達の苦しみなどは考えないようになってしまう。

 悲しいことに、このような事例はたくさんある。切実な話では、

「精神の疾患のある患者の家族に、
『その人の言うことをできるだけ聞きなさい。』
つまり奴隷になるぐらいの気持ちで」

と指導する精神科医の話もある。某殺人事件でも、引きこもりの人間のために、家族に自殺者が出ているが、その自殺者に対する同情の論地はなく、『引きこもり者を殺した父親』を責める、立派な精神科医がいる。

 また別の見方では、

「受験に対して社会活動などを考慮せよ」

と言う議論が出ている.これに対しては

「家庭の事情で社会活動などできない子供はどうなる」

と反論が出ているが、中高一貫校などの『恵まれた環境』で学んだ人間が、自分たちの尺度で、このような制度をだすことが怖い。

 また国会などを見ていると、一部野党の人たちは

「国家公務員(キャリア官僚)の人権はない」

と考えているのではないかと思う。と言うより、『人間』と思っていないのではないだろうか?

 この発想は、西洋文明の『人間の限界』を心得ている場合より、『日本教』の方が深刻だと思う。

2020年2月 8日 (土)

『正義』の『日本教』の元での暴走

 ヘイトスピーチ問題、SNS上での追及問題、これらのなかには

「自分は『正義』を行っている」

と言う思い込みのある人間がいる。このような人種が出てくる一つの理由は、

「国会等の政治家の一方的な追求」
「知識人と称する人種の反対派への追求」

をみて、まねしているからである。

 しかし、もう一つ『日本教』の立場で考えると

「『日本教』信者の『正義』の追求は危険性が高い」

と言う議論が必要である。理由は

「『日本教』の信者は、正しい真実を人間が知ることができると信じている」
特に
『自分の信じ込んでいるモノが『絶対的な真実』と信じる」

傾向がある。例えば、山本七平が描くように、2・26事件の首謀者達が、

「天皇陛下や軍幹部は解ってくれる」

と思い込み行動を起こしたのである。彼らにとって、

「昭和天皇が怒って近衛師団を率いて討伐する」

等の事態は思いもよらない。

 さて、『日本教』の信者でないなら、どのような行動になるだろう。西洋文明の場合には

「人間の知恵は神の智慧に遙かに及ばない」
つまり
「人間は完全なモノを知らない」

と言う前提があるので、『正義』の遂行に当たっても

「神との契約の元で行う」
つまり
「明文化した範囲で行う」

と言う歯止めがある。

 このような、『日本教』の暴走も感がないといけない。

2020年2月 7日 (金)

「念仏」の意味について

 「念仏」という言葉から、現在社会に生きる私達なら、

「南無阿弥陀仏」

と言う言葉が浮かんでくる。

 しかし、6世紀の天台大姉の時代の「念仏」は、

「仏の姿を念じて観る」

と言う、とても難しい修行であった。止観の修行をして、心を動かさないように『止』める。その上で、仏の姿を『観』る。仏の姿を観ることは、仏の救いについて色々と知ることである。当時は、紙も貴重だったし、印刷技術なども未発達であった。従って、現在のように仏の教えを、

「読んで理解する」

等という贅沢は、写経を献上される、貴族階級より上の話であった、一般修行者は

「説法を聞いて覚える」
「寺の仏像を拝み、その姿を心に焼き付ける」
「自らの力で仏の姿を想像する」

と言うような努力をして、仏の教えを自分のものとしていた。

 このような学び方は、現在人から見ると非効率かもしれない。しかし、

「仏の姿とその行動を想像する」
例えば
「『慈悲』は、千手観音の姿を想像し、その一つ一つの手で救いを差し伸べる姿として観る」

と言うように具体的に観る.更にこれを通じて、

「観音様という一つの菩薩を心の中で作り上げる」

ことができれば、色々な救いが具体的に展開できるようになるだろう。

 これは

「紙の上で得る上滑り的な知識を超える胆に落ち着いた智慧」

である。

「座って瞑想をする」または「仏像を拝む」

等の時にも、このような『昔の念仏』を考えてほしい。

2020年2月 6日 (木)

管理職と双極性障害の関係

 双極性障害、昔の言葉で言えば「躁鬱病」について、躁鬱病の時代には時々話題になったが、現在は「鬱病」だけが取り上げられることが多い。しかしながら、現在も潜在的に双極性の障害を持っている人は少ないと思う。ただし、一般に「躁状態」の人は、極端にならない限り

「元気のよい人」
「頑張る人」

等と積極的な評価を受けていることも少なくない。

 それどころか、

「仕事で成果を出す人」

と期待される人になってしまう。しかし、このような人に過剰な負荷がかかっていると、体が悲鳴を上げパニック発作になったり鬱状態になったりしてしまう。現在の「鬱病」が多く出る状況には、このような期待過剰に耐えかねている人も少なくないと思う。

 さて、仕事を管理する立場をもう少し見てみよう。仕事を与えるときは、

「仕事をする人間のやる気が大切」

とはよく言われている。しかし、このやる気が、冷静なモノか、一時的な熱情によるモノかを、きちんと判断している管理職はどれほどいるだろう。一時的な熱情依存なら、「躁状態」が役立つことになる。確かに、一時的な熱情でも成功して心の安定を得る場合もある。しかし、多くは、

「前に成果を出したから次はこれ」

とだんだんハードルをあげていく。そうして、最後は能力限界に達する。これが、

「人は無能を証明されるまで出世する。
従って組織幹部は無能者の集団になる。」

と言う、ピーターの法則が成立する様になってしまう。

 このようなことがないように

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
から
「英国は各員がその義務を果たすことを期待する」

とすべきである。

2020年2月 5日 (水)

西洋文明について記号の影響を考える

 西洋文明と日本文明の違いについて、日本語の特徴からもう少し考えて見た。マクルーハンが指摘しているように、エジプトなどの象形文字は、文字自体の習得が難しいので、神官など特権階級の専有物になっていた。これを、フェニキアなどの表音文字に変えることで、文字を使うことを大衆化した。

 このような文字利用の特権化は、中国の科挙による上級階級選別にも伝わっている。

 さて、我が国は、仮名漢字交じり表記という、中間的な手法で対応している。ここでは、文字を特権階級から解放しながら、漢字の表意文字としての、意味情報を伝える利点を残している。

 一方、ギリシャ・ローマに始まる西洋文明の文字は、表音文字になっている。そこでは、単語の分かち書きで情報を区切るが、どうしても、言葉の定義をきちんと行う必要が出てくる。これは、象形文字の子孫である表意文字に、何らかのイメージの尻尾が残っているのとは大きな違いである。

 従って、日本人のコミュニケーションは、どこかで共有イメージに甘えて、定義の明示化が弱くなる可能性がある。西洋文明は、アルファベットという表音文字の特性上、単語の定義をきちんと行う癖がついている。

 この違いが大きいのではないかと思う。

2020年2月 4日 (火)

「低学歴者」と馬鹿にされた人間のひがみ 今朝の日経BPから

 今朝の日経BP社の「低学歴化進むニッポン」という記事を見て色々と思うことがあるので、書いておく。なお私は、大学は修士課程修了でメーカーに入ったので、著者の河合薫PhD.の言う「低学歴者」であることを、お断りしておく。

 まず私自身の経験から言うと、大学での研究生活で論文作成のために必要な検討能力は、物事の根本を見直したり、報告書を作成したりするために有効活用できる面もある。これは厳密な検討能力という,一つの必要条件を鍛える訓練でもある。

 しかし、物事を成し遂げるためには,もう一つ大きなモノが必要である。それは

「全体像を描く総合的な検討力である」

大学の研究生活では、この部分の力が身についていない。従って、博士課程で訓練された以外の大事なモノがあると言うことを

「謙虚に認めてもう一度学び直す」

ことができるかという問題になる。これができないと、

「博士号はあっても使えない」

と言う状況になる。

 なお、大学に残っている場合には、教育の仕事に従事することも多いので、

「教えるために広く学ぶ」

ことが必要になり、自然と広い視野が身についている。こうして大学の中では問題が見えにくくなる。

 このような観点で、博士課程から企業という問題を議論すべきではないかと思う。なお私の経験談を参考にあげておく。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-d2ac04.html

また、博士号取得者が企業向けの思考法になる勉強を、シミュレーションしてみたのでこれも見てほしい。

http://manabizz.c.ooco.jp/IppanSystemKatuyou.pdf

http://manabizz.c.ooco.jp/IppanSystemKatuyou1.pdf

 

 

2020年2月 3日 (月)

管理という発想から人材活用に切り替える 「引きこもり対策」

 今朝のNHKニュースを見ていたら,「引きこもり」者の就労支援が取り上げられていた。引きこもり者の、ソーシャルスキルを訓練し,就労後のメンタル面まできめ細かくサポートする,派遣会社の話である。

 これはとても善い仕組みだと思う。一般に就労支援というと、就職口を見いだすだけ。もう少しサポートすると言っても、定時的な面談ぐらいしかしていない。しかし、現状の引きこもり者は、電話の対応や名刺の出し方など、基本的なソーシャルスキルを身につける機会も失っている人が少なくない。そうして就労しても、色々の対人トラブルに遭う。このようなときに、速やかなサポートが必要であるが、それを、今まで均質な人材の効率向上を見ていた、一般企業の管理者に求めるのは、現実的には難しい。確かに大企業なら、そのようなメンタルサポートを置けという、行政指導もあるだろう。しかし中小企業、特にスタートアップの時などには、そこまでの力はない。

 そこで考えを変えて、

「人材活用のプロ的な会社」
(メンタル面のサポートを含めた人材派遣)

と言う発想はあるのではないかと思う。

 このような動きについて、厚労省のサポートが有効だと思う。幸いにも、労働問題の専門である労働省と、メンタル面の専門である厚生省が一体になったメリットは、このような面にあるのではないかと思う。管理者や経営者視点の経産省より、人を見る厚労省に期待したい。

 もっと過激なことを言えば、ハローワーク等の関連事業で、引きこもり者を一旦抱えて、ソーシャルスキル訓練をし、更に就労時のメンタルサポートを行う派遣業と言うのも現実的な問題解決の一案かもしれない。

 

2020年2月 2日 (日)

西洋文明と日本文明の比較 彫刻の例

 日本文明の思考方法は、西洋文明と違った面がある。今回は、像を彫る等の事例で考えてみたい。

 日本の文明は、

「あるべき姿を探り出す」

と言う発想がある。例えば、仏師が仏像を彫るときには、

「木の中にいらっしゃる仏様を表に出すように木を削っていく」

という感じで余分な木を除去するのが、仏師の仕事である。

 一方、西洋文明の場合には、部分を積み上げていくという発想がある。人物像を作るなら、

「まず骨格を勉強する。次に筋肉の付き方を知る。・・・」

と言う形で、段階を経て積み上げていく。この根底には

「部分に分けて、きちんと学んでいく。」
「分けることで解る。」

と言う発想がある。

 一方、日本文明の発想には

「分けたらなくなってしまうモノがある。」
「一度に全体を悟ることができる。」

と言う信仰がある。天台の摩訶止観の説く、円頓止観が一度に全てを観る可能性を示している。この発想の違いを、私たちは心しておかないといけない。

2020年2月 1日 (土)

日本教における空海と最澄のちがい

 今年に入ってから、日本教について色々と考えている。今回は、日本の仏教に大きな足跡を残した、空海と最澄について考えてみた。日本文明において、空海の果たした役割は大きい。中華文明圏内で、中国に戦いで勝つことなく、独自の地位を保つことはとても難しことである。日本はこの何時を成し遂げた。その一つは、真言宗の八代目を正統に継承した、空海の存在である。仮名文字の発明者を、空海というのは無理がある。しかし、普及させるために、真言宗の八祖を継いだ空海が認めたと言う権威を使うことは大きな効果があった。

 一方、最澄は、天台宗を日本に広めたが、中国の教えを伝えただけであり、伝達者というレベルに止まっている。

 さて、ここで後世の影響を考えてみよう。高野山真言宗は、空海の教えが完全であったがために、その後の拡張は限られた範囲でしかできない。一方、比叡山からは多くの日本の仏教が生まれた。念仏、禅そして法華題目、さらには天台独自の密教もある。ただし、これらの日本仏教は、日本教の中の仏教と言う展開になっている。典型は

「浄土真宗など仏教か?」

である。

 このように考えると、本家の教えを部分的に、つまみ食いして、日本教に取り込んでいくためには、大量のお経を持ってきたが、体系化できなかった最澄が、完全系を持ち込んだ空海より、日本教にはふさわしかったように思う。 

 

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