『日本教』の影響下での社会分断について いわゆる『高学歴者』の思考限界
昨日書いた、日本教と正義の問題は、悪影響を及ぼすと、社会分断になる。
これは、少し前に書いた『高学歴』という議論とも重なるが、
「現在の学者達の思考法には、決められた範囲での厳密な思考法」
を重視している。
このような思考の厳密さは大事なことであり、何もかも鵜呑みにするよりは、きちんと資料評価する姿勢は大切にしないといけない。
しかしながら、この時とても危険な現象が起こる。それは
「考慮にそれたモノに対する配慮がない」
と言う事態である。この問題は、『日本教』の根本仮定である
「全てを観てくださる神」
の範囲から出てしまうと言うことであり、この人達の苦しみなどは考えないようになってしまう。
悲しいことに、このような事例はたくさんある。切実な話では、
「精神の疾患のある患者の家族に、
『その人の言うことをできるだけ聞きなさい。』
つまり奴隷になるぐらいの気持ちで」
と指導する精神科医の話もある。某殺人事件でも、引きこもりの人間のために、家族に自殺者が出ているが、その自殺者に対する同情の論地はなく、『引きこもり者を殺した父親』を責める、立派な精神科医がいる。
また別の見方では、
「受験に対して社会活動などを考慮せよ」
と言う議論が出ている.これに対しては
「家庭の事情で社会活動などできない子供はどうなる」
と反論が出ているが、中高一貫校などの『恵まれた環境』で学んだ人間が、自分たちの尺度で、このような制度をだすことが怖い。
また国会などを見ていると、一部野党の人たちは
「国家公務員(キャリア官僚)の人権はない」
と考えているのではないかと思う。と言うより、『人間』と思っていないのではないだろうか?
この発想は、西洋文明の『人間の限界』を心得ている場合より、『日本教』の方が深刻だと思う。
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