評価されるということ
ここしばらく、「怒り」について書いている。現在社会での「怒り」の原因の一つは、
「正しく評価されていない」
と言う思いである。
しかしながら、『正しい評価』というものがあるのだろうか?この問題を、もう少し考えてみた。
私の現在の考えは、
「絶対的に、『正しい』評価などは存在しない」
「その状況に対応した、相対的な『正しさ』しかない」
である。人間の能力も、状況対応で必要と不要が変わる。チームを組むときには、同じ面の人材ばかりでなく、異なった力が必要になる。その時には希少価値が力を発揮するが、その力が不要なときには邪魔者となる。4番バッターだけでのチームはできない。しかし、
「XX殺しのワンポイント専門」
は、XX引退で不要になってしまう。
さて、今までの議論は、
「当然のこと」
と言う人が多いだろう。しかし、
「実行できているか?」
と言うと困った顔をする人が多い。
さて、このブログで今年になってから書いている『日本教』の観点から、評価問題について一言指摘しておく。
「日本教の信者には、全て解っている人がいる、と思い込む」
従って
「正しく自分が評価される、と思い込む」
危険性がある.これは西洋文明の
「人間は所詮不完全」
の割り切りがないので、とても怖い話である。この危険性を明確に意識するだけで、少しはトラブルを避けることができるだろう。
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