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2020年2月11日 (火)

多様だが複雑ではない場合の考え方

 ネット社会では、色々な人の意見が出てくる。この人達が、

「自分の意見に従え」

と言い出すとトラブルが多くなってくる。特に、SNSの場合には、自分の書き込みや、閲覧履歴をサービス提供側が見て、自動的に

「その人に会う情報を提供」

ようになって、雪だるま式に膨れ上がっていく。

 さて、ここで大事なことは、

「人間の(経験の)多様性」

である。人の感じ方は、今までの経験や興味の持ち方で大きく異なっている。しかも現在のようにネット環境が充実し、更にゲームが普及しているので、そのゲーム内での経験が、蓄積されて考え方まで影響を受けている。ゲームの体験は、多様に渡るので、若い人でも、年寄りの予想できない観点で、深い考えにつながることがある。状況によっては価値観のような根本まで変えることもある。

 しかし、ここで言う深い考えは、価値観などと言う意味で、論理的な複雑さという意味ではない。見方を、その人に合わせると、すぐに理解できることが多い。例えば、ゲームの登場人物で、

「自分の夢を教え子に託す」

と言うストーリーを経験すると、色々な指導者との関係で

「夢の押し売りをしてくる」

と拒否感を持つ場合がある。

 このように、発想の多様化に対応すべきであろう。

 このとき、知識の扱いは、多くの物事を説明する一般原則から演繹的に展開する形ではなく、広く網のように広がる形で身につけるべきである。

「一羽の鳥を捕らえるのは一つの網目、しかしどこに鳥が入るかは解らない」

これは、天台の摩訶止観に出てくるが、多様化時代の知識はこのようなモノかもしれない。

 なお以下の記事も参考にしてほしい。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-473c.html

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