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2020年2月10日 (月)

『日本教』の元で論争は上手くいくのだろうか?

 今年に入ってから、色々と議論している『日本教』の根本には、

「全てを知っている親のような神様がいる。この境地に人間でも到達できる。」
(神様と自然は日本教の信者に対して善意で対応する)

と信じている面がある。

 さて、このような条件で、論争などの争いごとになったら、どうなるだろう。日本教の図式で言えば

「子供と子供のけんか」

となので、

「親の裁定が必要」

となる。これが根本にあるから、自分が間違っていると言うことを、「相手の説得から受け入れる」ことは難しい。確かに力の差がある場合なら、「相手を親の立場と認めて従う」ことはあるが、平等な議論は難しくなる。

 一方、西洋文明は、

「神の下にいる不完全な人間同士」

の議論なので、お互いの意見を持ち寄り、よりよくすることも可能である。

 この違いは、色々なところに問題を引き起こしているように思う。例えば、日本の場合、「XXが悪い」と刑事訴追することが基本の発想で、民事で追い込むのは少ない。しかし、欧米流の法律の発想なので、

「疑わしきは被告人有利」(被告は弱い立場という原則)

が働いてしまう。これは、性犯罪などで顕著になるが、

「刑事事件なら十分な弁護機会があるので無罪」

と言う可能性が出てくる。一方、被害者側が民事で訴えると

「加害者側の主張はおかしい」

と言う判決になることも多い。(ただし、この前に刑事事件で無罪になっていれば、それを盾に主張する可能性あり)

 このようなことも考えて、検察側が不起訴にする場合もある。

 ただし、『日本教』発想では、お上に決めてもらう刑事裁判が多くなるだろう。

 この矛盾をよく考えておく必要がある。

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