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2020年2月 7日 (金)

「念仏」の意味について

 「念仏」という言葉から、現在社会に生きる私達なら、

「南無阿弥陀仏」

と言う言葉が浮かんでくる。

 しかし、6世紀の天台大姉の時代の「念仏」は、

「仏の姿を念じて観る」

と言う、とても難しい修行であった。止観の修行をして、心を動かさないように『止』める。その上で、仏の姿を『観』る。仏の姿を観ることは、仏の救いについて色々と知ることである。当時は、紙も貴重だったし、印刷技術なども未発達であった。従って、現在のように仏の教えを、

「読んで理解する」

等という贅沢は、写経を献上される、貴族階級より上の話であった、一般修行者は

「説法を聞いて覚える」
「寺の仏像を拝み、その姿を心に焼き付ける」
「自らの力で仏の姿を想像する」

と言うような努力をして、仏の教えを自分のものとしていた。

 このような学び方は、現在人から見ると非効率かもしれない。しかし、

「仏の姿とその行動を想像する」
例えば
「『慈悲』は、千手観音の姿を想像し、その一つ一つの手で救いを差し伸べる姿として観る」

と言うように具体的に観る.更にこれを通じて、

「観音様という一つの菩薩を心の中で作り上げる」

ことができれば、色々な救いが具体的に展開できるようになるだろう。

 これは

「紙の上で得る上滑り的な知識を超える胆に落ち着いた智慧」

である。

「座って瞑想をする」または「仏像を拝む」

等の時にも、このような『昔の念仏』を考えてほしい。

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