ご縁のあった人たち

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2020年3月31日 (火)

反省するときの注意点 その3 反省の失敗

 先日の記事の続きとして、今回は反省の失敗について書いてみた。反省の失敗の本質は、

「過去にあったことに正しく向き合えていない」

ことにある。これには色々なパターンがあるが大きく分けて、以下のようになるだろう。

  1. 反省しようとする気が起こらない
    1. 気力が無くなる
    2. 自分は悪くないと言いつのる
  2. 反省したときに正しく向き合えない
    1. 他罰的に自己反省しない
    2. 自罰的になりすぎて本当の要因が見えない

まず、反省する気持ちになるためには、自らにある程度の強さが必要である。

 「昔の状況がフラッシュバックしたとき、自分の責任との重さに向き合うことができるか?」

この防衛反応として、まずは

 「反省などしない」
  そのため
 「思い出したくない」
 「記憶を改竄する」

と言う反応が起こる。状況によっては、鬱病が出てくる。

 次に反省を行うときに、自罰と他罰のバランスが悪くなることが多い。よくあるパターンは、

  はじめは
  「XXが悪い」
  「社会が悪い」

と他罰的に強く出るが、一度証拠を突きつけられたりして、自信が崩されると

  「全て私が悪い」

となり、外部にある真因までも自分に抱え込む場合がある。

 この対策としては、

「全体像を客観的に描いた上で、自分の責任を認めていく姿勢」

が有効では無いと思う。このバランスが悪いと、本当の反省はできないと思う。

2020年3月30日 (月)

コロナと原発事故 西洋文明的発想の落とし穴

 新型コロナウイルスの影響で、イタリアは医療崩壊したし、アメリカやフランスでもかなりの被害が出ている。1月や2月の段階では、

「中国の政治体制だから~~」

と、欧米の『先進国』は比較的甘く見ていたのではないだろうか?

 しかし、現在の状況は

「欧米の先進国でも医療崩壊まで起こりうる」

と言う厳しい現実に直面している。

 さて、イタリアなどのニュースを聞いていたとき、私は10年ほど前のあるニュースを思い出した。

福島原発事故の時
「日本ですら原発事故が起こった!」
(旧ソ連などとは違う西洋文明先進国で!)

と言う、驚きである。あのとき、多くの国が原発に対して腰が引けるようになった。

 さて、今回のコロナ対策に関しても

「中国のような独裁国で、隠蔽などしているから、コロナ流行を引き起こした」

と言う論法は、もはや通らない。それどころか、

「独裁国の方が、強引な手段で抑え込むから、早期収束させる」
(中国、北朝鮮・・・)

と言う結果すら出るかもしれない。

 これは極端だが、日本の対応は、まだ医療崩壊など、最悪の事態を逃げるよう、上手く踏みとどまっているように思う。

 この知恵は、西洋文明と一線を画す日本の力ではないかと思う。

「現実を見据えながらしぶとく妥協点を探す」

これが、

「机上の検討で方針を作る」
「個人の主張だけをぶつけ合う」

西洋文明との違いではないだろうか?

2020年3月29日 (日)

学問知識は成長したが感情面の豊かさは?

 昨日書いた、本当の納得に関する議論で、もう少し思いついた。つまり、

「現在の学校教育で成長するモノは何か?」

と言う問題である。もう少しこれを分けると

  • 学校教育に期待しているモノ
  • 実際に身につくモノ

の誤解があるように思う。つまり、多くの人が学校教育に期待するのは

「学校教育によって『全人格的に』成長する」

である。確かに、学校生活や交友関係、部活動などにより

「知識以外の面も成長する」

可能性は大きく、実際に成果が出ている。例えば、採用面でも

「四大卒の方が人間的に成熟している人が多い」

と言う感想がある。

 しかしながら、学校側の最低限の責任は

「知識などの教育」

であり、感情面や人格面の成長は副産物という扱いである。

 もう少し踏み込めば、

「経済面など家庭事情などで、友達交流できない子、部活もできない子」

等の、『知識外の成長』は学校の責任とはいえない。

 こうして

「感情面や対人スキルなどの成長ができなかった子」
特に
「成績だけが優秀な子」

は、この後

「自己責任で対人関係を切り開け」

となっているように思う。しかしながら、生活体験が貧弱な場合に、このような切り開きができるのであろうか?

 これで本当に上手くいかないから、色々な歪みが出ているように思う。

2020年3月28日 (土)

反省するときの注意点 その2

 先日から書いている反省の話にもう少し思うことを書かせてもらう。昨日までの話は以下のリンクを見てほしい。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-7943c3.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-db048f.html

 さて、今日気がついたことは、

「反省の前に『本当に良い』とは何か解る、納得するか?」

である。もう少し言えば

「『本当の幸せ』を知らない人間が、反省できるのだろうか?」

と言う問題である。

 この問題をもう少し突っ込めば

「『本心からの感動』を感じたことがあるか」 

と言う問題に行き当たる。『喜怒哀楽』と言うが、教科書の当てはめられて、強制的に

「『官製感動』を押しつけられている。」
(国語の試験で良い成績になるためには、教師の○が着くところで、『感動したと言う』)

のではないかと思う。

 自分の心に正直に向き合う。しかしそこで自滅しないし、他人を攻撃しない。このような道を求めることが本当の反省になると思う。

 まだ続きます

2020年3月27日 (金)

反省するときの注意点 続きその1

 昨日書いた「反省するときの注意点」について、もう少し議論しておく。まず大事なことは、

「反省からよい方向に向かう」

ことである。昨日も書いたが、摩訶止観の懺悔に関する項目では

  • 悪に向かう流れ
  • 善に向かう流れ

の両方を示している。反省において大事なことは、「自分にとってよい方向に持って行く」ためにはどうしたらよいか、この軸をぶらしてはいけない。ただし、

「自分にとって『良い』とは長期的に良い」

でなければならない。確かに

「他人のせいにして、自分は悪くない」

と主張しておけば、その時は気が楽になるだろう。しかし、このようなことをしていると

「周囲の支持、信用がなくなり、結局悪意の目にさらされる」

ことで、自分が傷ついていく。

「長期的視点で自分のために何が良いのか?」

をきちんと考えることが必要である。

 その上で、自分を客観的に観て

「自分が原因のこと、他人が原因のこと」

「冷静に識別する」

様になれば、反省の第一歩が踏み出せる。 

2020年3月26日 (木)

反省するときの注意点

 昨年の3月に「反省する力について」書いた。それから1年あまりたって、色々と新しい考えが出てきたので、もう少し書いておく。

 今回の議論に関して、一つの刺激は「フラッシュバック問題」である。これは、特に「被害者」の立場で起こる。これを起こさないための、心の底に押し込めていく、ないし「記憶の改竄」が起こってしまう。もっと悪くなると

「感情の暴発を押さえ過ぎて無気力になる」(鬱病に至る場合も!)

と言う可能性がある。一方、自分が悪い場合にも、「記憶の改竄」や「忘却」が起こることが多い。

 さて、このような反省の難しさに対して、よい知恵は無いだろうか?大乗仏教は、これに対して色々と配慮している。まず法華経には

「深く罪福の相に達してあまねく十方を照らす」

とある。つまり

「自分および他人の罪に向き合いなさい」

と言っている。そのために「懺悔」について、色々と説いている。

 具体的な修行法は、天台の摩訶止観が詳しい。その中では

「悪く落ちていく心の流れ」
これを逆転する
「よく反省する心の流れ」

が書いてあり、段階的な対処についても教えてくれる。

 さらに、実際の瞑想を行うときには、観世音菩薩の救いを感じながらの三昧の修行をまず示している。自分の心に起こる、地獄・餓鬼に対しては、大慈悲の観音様が、畜生のように吠えるだけなら獅子の力を持つ観音様、一つの正義にこだわるなら十一面の多くの見方を示す観音様と、心の闇が出てきたときに、それを救ってくださる観音様を信じて、

「観音様と伴に自らの心を深く観ていく」

三昧の修行がある。このような、大乗仏教の智慧は、本当の反省ができるために大切だと思う。

 続きはこちら

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-db048f.html

2020年3月25日 (水)

AI時代には因果関係の単純化が使えなくなる

 仏教に関して色々と勉強するときには、現在の西洋文明的な思考法を、捨てるとまでは行かないが、ある程度押さえないと行けない。もう少し言うと、

「科学的な思考法の便利さ、力に頼りすぎる自分への反省」

が必要になる。つまり、

「太陽系のモデル、車のエンジンのモデルなどのように、単純化して理解する」
「原因ー結果」
が明白になっている

世界観を使うのではなく、

「一気に全体を観て、直接的な因果関係だけでなく間接的な縁まで考える」

必要がある。

 これを単純化した話で考えると

西洋文明的思考:「卵が原因、鶏がその結果」
仏教の思考:  「卵と鶏はお互いが原因であり結果でもある」

と言う図式になる。

 しかしここで、AI時代のビッグデータ活用となると、単純な

「原因ー結果」
図式でなく
「多くの縁の絡まり」

を見ることになる。多くの因子が絡まった結果が、今起こっていることである。

「現在発生していること自体が、次のことを引き起こすだけでなく、自分自身の強化や、フィードバック修正を行っている」

このような複雑なシステムと向き合うことは、既に六世紀に天台大師が摩訶止観で説いている。これをもう一度見直すべきではないかと思う。

2020年3月24日 (火)

本当の修行とは?

 先日、日蓮宗のお寺の春の彼岸の施餓鬼法要に行ってきた。コロナ対策と言うことで

「本日は黙読」

と書いてある。お経の黙読は解る。この寺では、百日行の経験者がお経を唱えるから、一般の信徒では口が回らないようなスピードでお上人達が、唱えるのを、黙読で追うことしかできないことが多々ある。

 しかし、お題目の黙読は聞いたことがない。そこで失礼ながら

「お題目も黙読ですか?」

と質問してしまった。お上人は、

「本日は全て黙読です」

と平然と説明された。

 私は、

「南無妙法蓮華経」

と腹の底から声を出して唱えるとき、全身で起こるモノを味わえないのでどうなるかと思っていた。

 しかし、唱題行が始まると、力強い太鼓の響きが伝わってきて、

「これも唱題行」

と言うことが解った。

 しかし思い起こすとこの寺では、

「お題目を唱えることは、霊鷲山でお釈迦様が法を説いている姿を観る修行」

と前から説いている。

 このように考えると、声を出して唱えることにこだわる必要が無い。

 口先だけのお題目と、本当のお題目の違いを解らせてくれた。

2020年3月23日 (月)

現在社会は西洋文明の限界を超える発想が求められている

 現在の社会は、高度な専門家の発言が力を持っているが、本当にそれだけでよいのだろうか?例えば、今回のコロナ騒動においても、病気の伝搬の専門、検査の専門などの各分野の専門家が色々と発言している。しかし、このような専門家は、自分の担当範囲の視点での発言が多くなる。例えば、

「コロナの検査をできるだけ広く行うべきである。現在の検査は少なすぎるから、潜在的な患者を見逃している。」

と言う発言は、感染状況を研究している立場では当然の発言である。しかし、現在の制度では

「コロナ感染した人全てを入院隔離させないと行けない」

となっているので、

「軽症者も含めて多数の入院患者が出ると医療が崩壊する」

と言う可能性がある。

 こうした全体像を見て、総合的な判断を行うのが政治である。

 さて、このような専門化は、やはり西洋文明の影響が大きい。使用文明の基礎にある物理学は、

「物事を単純に理想化し、その上での因果関係を明確にする」
つまり
「専門的な範囲に視野を絞って深く考える」

ことで大きな成果を生み出した。

 この発想が現在強くなりすぎている。

2020年3月22日 (日)

少しの幸せを味わえるか?

 先日から色々と思うことがあったが、自分が今まで生きてきた中で、

「少しの幸せ」
「平凡な中の幸せ」

を感じ取る力が弱かった、と言うことが解った。

 これは、学校教育などで言う

「0と1をはっきりさせる」

考え方に、私が過剰適応していた結果でもある。

 しかし、人間が生きていく上では、色々な物事が起こるが、その中で

「小さな幸せ」
「少しの違い」
「小さな暖かさ」

これを見いだす力があれば、もっとよくなるのではと思った。

 別の見方をすれば、私は大学院の博士課程(現在なら後期)進学を諦めた身である。しかし、「在野の研究者」としての県産はある程度行っていた。しかし、在野の立場で博士号取得は並大抵のことではできない。そのため

「理論的研究の大テーマ」

に固執して、結局論文は書けなかった。大学院に行き直せば、適度なレベルの研究成果で論文をまとめて、段階的に成長することもできたであろう。

 このように考えると、「小さな違い」に敏感になって

「少しの幸せを味わい感謝する」

ことが本当の幸せを掴むために大切だと解る。

 なお、この話に関しては、僧侶・修験の大先達「かとうれい師」の説法で気がついたことが大きい。

 https://twitter.com/ReiTS14/status/1241302165127188480?s=20

 説法のYoutubeはこちら

2020年3月21日 (土)

25年前のオウム真理教サリン事件について

 地下鉄サリン事件から25年と言うことで

「風化させてはいけない」

と色々な報道が出ている。私はこの事件に関しては、

「風化どころか、当時から本質の解明ができていない」

と考えている。

 まず、今回の表題に注目してほしいが、「地下鉄サリン事件」だけに注意を向けると、多くのモノが見せなくなる。私の考える問題点は以下の通りである。

  1. 上九一色村でのサリン製造プラントの問題
  2. 上九一色村で製造された大量の上質サリンの行き先
  3. 松本サリン事件
  4. 地下鉄サリン事件

一番にサリン製造プラントを挙げたのは、このような設備ができた、それを見逃していた、治安体制の問題である。特に注意すべきは、プラントができたと言うことであり、これには高度の熟練技術者が関与した可能性が大きい。配管をきちんと行うと言うことだけでも、匠の技が必要であり、これは日本の大学で「XX学」を学んだと言うことだけでは、習得できないモノである。従って、オウム信者の「高学歴者」は、試験管レベルのモノを作れても、プラントを実現できたとは考えにくい。

 なお、このようなプラント実現に関しては、「安全重視」の日本の環境では、経験を積むこと自体難しいので年月での育成となる。一方、北朝鮮のように「人権に配慮しない国」ならば、被害者が出ても強引に作り、失敗を重ねながら経験を積むことで、早期育成が可能になる。従って、

「日本の高学歴者の言っていることを、北朝鮮の技術者が実現し、しかも日本の経済環境で原料を調達する」

と言うことは、北朝鮮の化学兵器充実には、特に有効な手段であった。

 もう一つ加えると、オウム真理教とロシアの関係を疑う人がいるが、サリン問題に関しては、ロシアのメリットはない。なぜなら、ロシアはアメリカに対抗できる、唯一の核大国であり、逆に核保有以外では経済的に考えれば、三流国扱いされないレベルである。従って、核のメリットを脅かす化学兵器などは、ロシアの眼中にはない。

 さて、サリンが実際に使われたことは、テロの歴史を変える大事件なので、これはまたこれで追求すべきことである。ただし、ここで大事なことは、

「地下鉄サリンは粗悪品である」

と言う事実である。つまり、プラントを破壊して、純正サリンはないが原料があるので粗悪品を製造した。これは、当時のオウム真理教幹部の技術レベルを示しており、高度の技術者は当時既に(国外)逃亡をしていた可能性がある。

 25年間には

「朝鮮民主主義共和国は理想の国、拉致はアメリカのでっち上げ」

と言う世論が強く、拉致被害者に対しての迫害もあった時代の空気を、もう一度見直してこの事件を考えるべきではないかと思う。

2020年3月20日 (金)

平安時代の日本は経済的にどうだったのだろう?

 平安時代の仏教を考えると、曼荼羅などの絵画、平等院の豪華な建築と言う風に、当時としては非常に贅沢なことをしていると思う。特に絵画は、現在の紙や布と比べものにならない貴重品である、布や紙に描かれている。このような、絵による表現は、当時としてはとても贅沢である。

 このような、絵による表現を使って、当麻曼荼羅による阿弥陀浄土の信仰が普及し、空海以降は更に多くの曼荼羅が生まれた。こうして、全体像を描いて説明する形式が、当時の仏教普及には定着している。

 また、空海が唐に渡った時には、多くの絵師を雇って、曼荼羅を模写させた。これは、短期に日本に密教の法具や曼荼羅などを持ち帰ったことから、多くの人が動いたのは間違いなく、そのための財力があったのだろう。更に、

「空海は、真言宗の八祖の立場を金で買った」

と言う人もいる。これは裏を返せば、それほどの金を持っていたと言うことである。

 当時の日本になぜこれほどの金があったのだろう。これには多くの側面があるが、まず日本列島には、水が豊かで、木や穀物が茂る環境があった。更に鉄鉱石などの鉱物資源も産出した。木材があれば、燃料として火をおこすこともできる。土地も比較的安定している。このような資源面での安定供給が一要因である。

 その上で、外部侵略が少ない環境となったので、兵役が少なくなっていく。これは経済面で大きな恩恵である。

 このように考えると、平安時代の日本は、中華文明の東の果てで、かなりの金満国だったのではないかと思う。

2020年3月19日 (木)

平安時代の仏教からわかること

 先般から書いている、昔の仏教の話に関連して、平安時代に起こった変化についてもう少し考えてみたい。従来から言われていた、平安時代の仏教の変化は、空海・最澄の唐からの正統的かつ最新の教えの伝来である。

 しかし、空海は既に、唐に入る前に密教修行を行っていたし、最澄も止観の修行を行っていた。これを考えると、

「遣唐使による文化交流で新しい仏教が日本に伝わった」

と言う表現が、正しいのだろうか?確かに

「曼荼羅や多くの経典により、体系的な仏教が伝わった」
「国家としてそれを受け入れた」

と言う言い方はできるだろう。

 ここで、一つの新しい文化が、導入されて成功するヒントがある。それは、

「既に部分的にいくらかの先駆者が触れている」
「彼らの支持者は存在するが多数派ではない」

と言う土台があると

「一気に新知識の体系を持ち込み、既存の活動などをまとめ込む」
「これで爆発的に普及する」

と言う手法である。今までモヤモヤとして持っていた者が、全体的な図式を見て整理されると、ブレークスルーを起こして一気に解決に至る。このような状況がある。

 新技術の導入などに考えるべき手法である。

 この応用として、新技術普及時に

「従来行っていたことも、新技術の不完全な利用で、あなたも先駆者です」

と言って、巻き込む手法も有効である。

2020年3月18日 (水)

主観的と客観的だけか

 先日から読み直している、NHK出版の「仏像ー心とかたちー」の最初の章「仏像のこころ」の中に、仏像の見方を

  1. 叙情詩を描く主観的な見方
  2. 美術史などの観点から客観的な見方

と二つに分けていた。私たちはこのように、主観的/客観的と対比することが多い。しかし、この二分法でよいのだろうか。私はもう一つの見方があると思う。それは

  • 創造者の観点から見る

見方である。これは法華経の教えがヒントになるが

「世界を造る親の立場で皆を見る」

と言う見方である。仏像の見方では、

  1. 仏の教えを伝えるために、どのような仏像を造るべきかを考える
  2. 仏像にどのような思いが込められているかを考える
  3. その仏像が造られた時代の状況を考える

等を考え、

「自分で仏像を造るならどうするか」

と言う風に「主体的」に考える。この発想があるのではと思う。クリエイター達は既にこれを行っている。

 現在社会を本当によくするのは、このような考え方ではないかと思う。

2020年3月17日 (火)

実用的でないものが尊ばれる

 昨日書いた、薬師信仰の現実主義に関して、

「戦前の日本では,功利主義や実用主義はほとんど思想として認められなかった」

と言う部分について,もう少し議論しておく。

 まず、戦前の日本という限定なら、この問題の原因は比較的明らかである。つまり、

「西洋文明を伝える学者様は、実現の細部などの下々のことは知らなくてもよい」

と言う発想である。例えば、工場などの物作りでも

「大学卒の設計者が概要を決める。それを現場の職人の技で実現する」

と言うことで

「実用化する匠の技」< 「高学歴者の思想」

と言う評価図式がある。極端に言えば

「英語が読めて、外国のお手本を紹介する人が偉い」
「実現するのは下々」

と言う図式である。

 しかし、これは戦前日本だけだろうか?

 私は,もっと深い理由があると考える。私の仮説は以下の通りである。

  1. 日本人の発想は,指導者に現実の解決を求める(実用主義)
  2. しかし、現実論として「指導者に解決できない問題」は存在する
  3. そこで、「指導者ができない」と追求すると指導者交代になる
  4. 指導者交代による混乱は、現状より悪くなる
  5. 従って、「実用的な答え」を求めないで黙っておく

と言う,「現実主義」的な発想があるのではと思う。

 この話、「なぜ安倍政権が続くか」という議論にも使えそうだな(笑)。

2020年3月16日 (月)

薬師如来信仰について

 昨日の続きで、薬師如来信仰について、NHKブックスの「仏像ー心とかたち」に面白い指摘があった。(私が読んだのは1965年版)

 「薬師如来像に心を探る 梅原猛」

薬師信仰は実利的合理主義に支えられた

抜粋

しかし薬師、それは病気を直す仏様なのだ。われわれは喜びの声をあげる。病気を直すばかりか、現世の利益を与えてくれる仏、それは誰にもわかりやすい。そして、仏教とともに医術が大陸から伝わり、僧は同時に医者であった。薬師崇拝の中に、こうした合理主義、実利主義への崇拝をみないとしたら、われわれは盲目なのである。

~一部略~

われわれの祖先が仏教を現世否定の教えでなく、現世肯定、科学的技術と結びつきうる現世の幸福促進の宗教として受容したモノであることを示している。

薬師信仰ははからずも日本人の魂の秘密を示す

戦前の日本では、功利主義だの実用主義だのという思想は、ほとんど思想として認められなかった。日本でもてはやされた思想は、人格だの、実存だの絶対矛盾の自己同一だのの思想であり、功利とか実用とかを口にするのは、自らの浅薄なる人格を告白するかのようであった。従って哲学史においても、それらの思想は、大抵数行で片付けられてしまった。しかもそれにもかかわらず、日本人は、公的にも、私的にも、大変功利的であり、実用的あったかに思われる。実用主義、功利主義こそ、日本人の魂の底にあり、しかもそれを浅薄、通俗として、公の価値から排除することが、日本人の魂の基本的羞恥であるように思われるが、今この薬師をめぐる評価の中に、この魂の矛盾の秘密が、解き明かされているように思われる。

この話は、『日本教』の本質に関わる議論だと思う。

 なお、実用主義に関する遠慮については、もう少し議論をしたい。

2020年3月15日 (日)

平安時代までの仏教について

 今回のコロナ騒動に関連して、

「昔なら神仏にすがっただろう」
「薬師如来の信仰がある」

と考えた。現在のように科学的な医学知識や,医療技術が無い時代なら、神仏を拝むことが対処法の一つだと思う。

 そこで、病気なら

「お薬師さま、薬師如来にお願いする」

と言うのが一つのすがり方だと思う。例えば、天平時代などには、

「行基菩薩による薬師如来信仰」

が広く大衆に広がっているし、国の政策としても薬師寺など多くの寺院が建てられている。

 特に注目すべきは,比叡山延暦寺である。大雑把な歴史理解だと

「最澄は、遣唐使に従い唐に留学し、多くの仏典を持ち帰り、比叡山延暦寺を開いた」

と言う表現となっている。さて

「延暦寺のご本尊は?」

と言う質問に答えられる人はあまり多くない。正解は薬師如来である。これは、単純に納得しては困る問題である。なぜなら

「法華経を重視した、最澄がなぜ薬師如来をご本尊したのか?」
「法華経の中に、薬王菩薩が出ても薬師如来は出てこない」

と言う突っ込みがある。

 この問題の一つの答えは、比叡山の由来にある。つまり

「最澄は、唐に行く前から、比叡山で薬師如来を観る、止観の修行を行っていた」

であり、

「唐から帰ってから比叡山を開いた」

のではない。もう一つ言えば、

「最澄は、唐に行く前から『止観業』を行っていた」

と言う点も注目すべきだろう。

「空海は、唐に渡る前に、既に密教修行をしていた」

と言う話は、多くの人が知っているが、

「最澄も既に天台大姉の説く『止観業』を修行していた」

と言う話も併せて知るべきであろう。

 当時の『和魂漢才』は、このように

「日本で既に修行して自分の土台を作り、その上で唐の文明を移植する」

形で行われた。

 延暦寺の僧侶の位置を見ると、法華経の説く

「大地から湧き出る菩薩」

が実現しているのがよくわかる。しかし、法華経に忠実なら、

「ご本尊はお釈迦様」

でないとおかしいが、それを今までの自分の修行に合わせて、お薬師さまにする。この融通が日本文化の特徴だと思う。

2020年3月14日 (土)

『平均』に縛られていないか

 現在の科学的文明には、『数値化したモノ』が物を言うことが多い。そこで、社会科学などでは、統計的な処理を行うことで

『数値化して議論』

できるようにすることが多い。これは

「計れないモノは、計れるようにする」

の実践である。このように数値化すると、

『平均』『分散』『偏差値』等

の便利な道具が使えるようになる。確かに、マクロの視点で考えるときには、平均を見て成長や減退の傾向を掴むことは有効である。

 しかし、ここで注意しないと行けないのは、このような数値の一人歩きである。偏差値信仰の弊害は、色々と言われているが、

『平均』

の弊害も出ているように思う。

「世間の平均より劣っている」

これで、強迫的な行動になる人がいる。さらには

「平均的人材ができること」

ができなければ、

「落ちこぼれる」

と焦る人も出てきている。

 平均はあくまで状況をマクロに掴む手段であり、それに捕らわれてはいけない。

2020年3月13日 (金)

6世紀の仏教の修行法

 天台の『摩訶止観』を読むときには、天台大師が説法した六世紀の世界を思いやる必要がある。現在、私たちが当たり前と思っていることが、その時代にあるかよく考えてみると、現在の私たちの物の見方のひずみが見えてくる。

 当時の環境を考えると、紙は貴重品であり現在の学校教育はない。つまり、教科書もないし、ましてや懇切丁寧に説明した参考書なども存在しない。逆に、仏像を作る手間が、絵画での伝達と比べてても、それほどの負担ではなかった。また手書きで経典を写す手間も大変だった。この状況を考えると、教えの伝達に仏像の力が大きな意味があると解る。現在なら、『慈悲』という概念は、まず言葉による説明で伝える。このために、教科書などの道具がある。このため、

「私たち現代人は、学校教育で身についた思考法に縛られている」

ために、それ以外のモノが見えなくなる。例えば、近代科学的発想の一つ、ガリレオの

「測れるモノは測れ、測れないモノは測れるようにしろ」

の後ろには

「数値化できないモノは見落としてしまう」

と言う危険性がある。

 これを、六世紀の修行と比較してみよう。当時の知識では、

「科学的な知識による因果関係」

は私たちと比べれば、ほとんど持っていない。

 そこで、彼らが修行で得ようとするモノは何か?一つは

「仏の智慧を得て、この世界の苦しみから解放される」

ことである。そこで『仏の智慧』とはどのようなモノであろうか?

 この答えは、法華経にある。一つ目は、十如是の教えである。諸法の実相は、

相(外見)、性(本質)、体(構成)、力(潜在力)、作(働き)
因(直接の原因)、縁(間接的な影響)、果(直接的な結果)、報(間接的な影響)
が、本末究竟(総合的な作用している)

であり、このような複雑な相互作用を観るのが、『仏の智慧』である。大乗の教えは

「この智慧が、我々衆生にもある」

と説いている。

 そこで、このような智慧を自分で体感することができるだろうか。

 天台の摩訶止観が説く『円頓止観』は、全体像を描くことで、このような複雑な絡み合いを、観る智慧を体感させようとしている。その一例は

「心・意・識の三者は、一つではないが、三つバラバラでもない」

と観ることである。自分の心の中の感情が、意識の世界とどのように関わるか、別なモノでもないが一体でもない。このような、

「西洋文明の科学的思考法では矛盾」

を、全体像を見ながら体験する。

 この修行は現在こそ必要ではないかと思う。

2020年3月12日 (木)

不倫の原因について

 先日書いた不倫について、もう少し動機面で考えてみた。私の考えでは、不倫は大きく分けると

  1. 元から結婚に不満であった 『確信犯』
    1. 偽装結婚(本命と結婚後も続く)
    2. 不倫相手のマインドコントロールが継続している
  2. 結婚後の不満から出た
    1. 精神的な不満
    2. 肉体的な不満

と言う動機がある。もっともこれの複合した複合もある。

 さて、ここで1.の『確信犯』の場合には、何かのタイミングでコロッと変わることがある。『確信犯』になるぐらいだから心は強い。その向きが変わると、不倫を反省しとことん尽くすタイプになることが多い。(相手が受け入れた場合)また、マインドコントロールがらみの場合には、一度解けると、コントロールした人間への憎しみが出ることが多い。このときも反省は深くなる。

 一方、2.の不満に関しては、精神的な不満をもう少し具体化すると

  1. 寂しかった
  2. 認められなかった

が多い。ここで大事なことは、現在社会において、

  • 自分に自信が無い
  • 人に認めてもらわないと行けない

人が多くいることである。伴侶に認めてほしい、しかもそれを言葉でほしい。更に、他人が褒めてくれるともっとよい。そこで舞い上がって『不倫に走る』というパターンが少なくない。馬鹿らしいおだてに乗ってしまう人が少なくない。

 このように考えると、このように

「自分に自信が無い、自分を客観的に評価し認められないから、ちょっとしたおだてに乗ってしまう」

 人は、色々な所にいるように思う。

2020年3月11日 (水)

人間関係を単純に見すぎる悲しさ

 昨日書いた『不倫』の話に関連して、ツイッターで気になる投稿を見た。

「男の人に誘われたら、『友達連れてってよい?』と返す。
 これで引くような男は、体目当てだから。」

これを見て感じた違和感の理由が少し明確になったので書き残しておく。

 私の言いたいことは

「貴女に喜んでもらいたくて、お誘いしました。
一緒にいる人に気を使う余裕はありません。」

と言う考えの人が、この返事でどれほど傷つくか考えてほしいと言うことである。

 私自身、貧困家庭の育ちなので、人に対する接し方は、下手と自覚している。そのため、相手の気持ちをできるだけ思いやり、『全力で』その人に対応しようとする。そこで、気を使う人が増えると言うことは、散漫で不十分な対応しかできなくなる。これはお互いの不幸だと思う。なお、これを

『発達障害者の過剰適応』

と言う人もいる。

 しかし、考え方を変えれば

「男女の関係は、体の関係」

としか考えられない人は、とても不幸ではないかと思う。現在の多様な価値観、幅広い文化を考えると、色々な話題もあるし、交流もあると思う。これが、『体の関係』だけしか考えられないのは、動物並の本能生活ではないだろうか?

2020年3月10日 (火)

本当の反省と謝罪

 ネット社会になって、色々な個人の問題も公開されるようになってきた。そのような情報を見ると、今までの教科書通りの人間像から、幅が広くなっている。まさしく『罪福の相』を見た。

 そこで、『不倫』関連の話から解ったことを書いておく。

 まず、『不倫』は家庭を壊し、しかも伴侶の心を傷つける。これは、多くは精神の被害をもたらし、伴侶に不倫をされた人が『心療内科(実質は精神科ただし消化器障害なども出ることもある)』に通う人が多い。

 さて、このような不倫関係で、その後に修復に成功した例もある。その多くは、

  1. 不倫した側が、心から反省している
  2. 再構築のために努力を惜しまない

を行っている。例えば、それまでは金遣いの荒かった妻が、再構築のために質素に暮らし、自力で慰謝料を貯める。このような、努力が『許される』条件となることが多い。また、不倫相手にマインドコントロールされていた場合には、それが解けると『復讐に協力』した後の謝罪で、再構築に至る例もある。

 しかし、これに至らない例も少なくない。多くは、『不倫をした側』に反省が無い場合である。つまり

   「慰謝料を払えば良いのだろう」

と言う言い方をする場合や、

   「弱い女だからこれぐらいは認められる」

と言う人間である。

 さて、このような人間の反省はどうしたらよいのだろう。

 二つヒントがある。一つは、親の問題であり、困った考えをする親と切り離す後は、本心からの謝罪に至る例がある。もう一つは、本人に『本当の幸せ』を味合わせることである。

   「体目当てでない付き合いを初めてした」

と言う経験から、不倫相手の元妻に、心からの謝罪ができた例もある。

 このように考えると、反省の条件に

 0.本当に善いモノを知っている

と言う前提が必要だと思う。

2020年3月 9日 (月)

十界を救う観音様について

 仏教では、私たちが生まれ変わる十界の教えがある。これは大きく分けると

  1. 解脱し悟りを開いた仏の世界 仏界
  2. 修行中の世界(輪廻の苦しみから抜ける)
    1. 皆を救うための修行中 菩薩
    2. 色々な縁で悟る    縁覚
    3. 仏の教えを聞いて悟る 声聞
  3. 六道輪廻の世界
    1. インドの神様など、感情が残り苦しみがある 天道
    2. 私たち人間の生老病死の苦しみ       人道
    3. 正義に固着し争う             阿修羅道
    4. 知性なく感情のまま吠える         畜生道
    5. 貪欲さの飢えに苦しむ           餓鬼道
    6. 色々な罪の報いで責め苦を受ける      地獄道

と言う、3分割になる。このうち六道輪廻の世界は、苦しみが多いので、観世音菩薩が救ってくださる。観音様は、変化の仏という力があり、状況に応じて姿を変えて出現する。一応次のような対応になっている。

  1. 地獄道には、何も飾りのない聖観世音菩薩 地獄では状況に耐尾するため
  2. 餓鬼道には、千手観世音菩薩が多くの手から救いを差し伸べる
  3. 畜生道には、馬頭観世音菩薩が、怒りの姿で従わせる(力には力)
  4. 阿修羅道には、十一面観世音菩薩が、色々な見方を示して救う
  5. 人道には、准胝観世音菩薩が、善悪両面への道について導く
  6. 天道には、如意輪世観音菩薩が、仏の教えを聞くように導いて 

この対応はよくできていると思う。特に現在は、色々な『正義』の戦いがある。

   「自分だけが正しい」

と主張して、戦う人には、十一面観世音菩薩の色々な顔、そこから見える多様な見方を考えるべきだと思う。

2020年3月 8日 (日)

キリスト教的世界観との比較

 先日までの、善悪の天秤のはなしについて、キリスト教的世界で考えてみた。

 キリスト教の世界観では、死後の世界は、

  • 天国
    • 煉獄 これは「未決囚」の扱いで、最後の審判では天国か地獄に分かれる
  • 地獄  

と2分割+1と言う形になっている。

 このような単純な2分法による割り切りが、西洋文明の推進力なっている。

 しかし、ここでもう一つ大事なことは、天国と地獄の振り分けは、

   「神の心のままに」

行われる。人間はこれに対しては、

   「神との契約をきちんと守る」

ことで、何とか救われるように努力する。

 仏教の十界も仏の心の中にあるが、仏の智慧は衆生が得ることができる。

 この違いをきちんと見ておく必要がある。

2020年3月 7日 (土)

善悪の天秤について(続き)

 昨日の善悪の天秤について、もう少し書いておく。今回書くのは、十界の教えである。仏教では

  1. 地獄 苦しみの世界
  2. 餓鬼 飢えの世界
  3. 畜生 動物的な叫びと戦い
  4. 修羅 自分の正義に執着し戦う
  5. 人  現在の生きている人間・・・天秤の中心
  6. 天  人より良い状況
  7. 声聞 仏の教えを聞いて悟る
  8. 縁覚 何らかの縁を自ら見いだし悟る
  9. 菩薩 人を救う立場になる
  10. 仏  法界全てを作る

と言う、10の境地があるとしている。しかし、全てを造るのが、仏の力なので、それ以外の地獄から菩薩の9の境地を見ると、丁度真ん中に人間の世界がある。そこで、この世界を折り返すと

  • 地獄ー菩薩 地獄レベルの苦しみは菩薩の力が救う
  • 餓鬼ー縁覚 餓鬼道は悟ったら救われる
  • 畜生ー声聞 畜生の怒鳴り合いは、仏の教えを聞く声聞になれば救われる
  • 修羅ー天  自分一人の正義に捕らわれる修羅は、天の世界の多様な見方で変わる

と言うペアが見えてくる。これらの釣り合いがとれないと一方だけなら落ちていく。

 こうして菩薩の助けまで解っていると、自分の心の闇、つまり地獄にも向き合うことができる。

 これが、本当に

「深く罪福の相に達する」

ではないかと思う。

 

2020年3月 6日 (金)

善悪の天秤

 天台の摩訶止観を読んでいて、今までの自分の心への向き合い方が、浅かったと言うことがよくわかった。法華経で言う

「深く罪福の相に達して」

と言う意味が、ようやくわかったと言うべきだろう。大乗仏教では

心:感情等の全て
意:考える舞台(考慮すべき物事で心から浮かぶ)
識:意の上での判断、識別

の三者をきちんと分けて、しかも相互の深い交わりをみる。三者であり一でもある。

 こうした考えは、いわゆる『理性的意識』しか考えない、今の教育の毒された人間が、根本を見直す契機となる。

 しかし、ここで大事なことは、深い心の底を揺さぶったとき、『パンドラの箱』を開く可能性がある。昔の恨み、怒りなどの感情を、理性や社会制度で抑えつけている時、これが爆発したら、自らを支えきれない可能性がある。逆に、自分の罪を認めて、責めすぎると、最悪自殺にまで至ってしまう。

 ここで大乗仏教の智慧をもう少し見ないといけない。法華経では

  仏知見を開き清浄ならしめる 仏智見を示す 悟らせる 道に入れる

と言う段階で、人を導いている。最初の仏の力を示し、安全を確保する。その上で、自分の心の中の地獄まで見ていくようにする。このように、先に救いを示し、その後で罪や恨みに向かわせる。

 このような仕組みが、善悪の天秤のバランスを取って、深く心に入っていけるようにする。

 ありがたい教えだと思った。

 続きはこちら

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-246ede.html

2020年3月 5日 (木)

議論の底にある「日本教」的発想

 先日書いた,論破による分断の話に関連して、「日本教」の発想で少し見えてきた。

 今回議論したいのは、「日本教」の影響下の議論と,西洋文明の前提での議論の違いである。つまり

  1. 「日本教」の発想では、神様とその代理の人間が、全体像を持っている
    この場合、決められた枠の中で正解が存在する
  2. 「西洋文明」の発想では,人間は有限の部分的知識しか持っていない
    従って,お互いの知識の持ち寄りで,少しでも善くしようと努力する

と言う違いである。なお、「日本教」でも,同じ「世界観」の中での,見落としの修正や,精度向上などでは協力関係も成立する。しかし、世界観の違う者の間では,戦いしかなくなってしまう。

 一方、人間の限界を信じている場合には、お互いの断片を持ち寄って,全体像を構成する協力関係が成立する。弁証法はこのための道具である。この違い意識することで,もう少しましな議論ができると思う。

 

 

2020年3月 4日 (水)

人間の多様性について

 ネット社会では、色々な情報が出てくる。そこでは、人間の多様性も見えてきた。

 例えば、罪を犯した人の行動に関しても、その後に自らの非を認め、しっかり償おうとする人、自分の犯したことに向き合わない人、色々な人がいる。

 これを見たとき、昔カウンセリングについて習ったときの『性善説』的な発想

「人は自ら良くなろうとする潜在的な力がある」
だから
「自分のことを受け入れてくれる人の力があれば良くなっていく」

の限界を感じてしまった。

 しかし、一部でも

「自分のしたことに向き合い反省し、善くなっていく人もいる」

ことも確かである。これは、学問と関係する(高学歴補でも品性下劣者はいる)問題ともいえない。ただし、周りの扱いで、少しでも善くなる場合もある。本人が気づくことでの変化も大きい。

 これができない人が一部いるが、その一部に捕らわれて、救える人を救わないのはだめだろう。このような、「悪の多様性」にもきちんと目をむくれるべきだろう。

2020年3月 3日 (火)

社会の分断を招いたのは誰か?

 今朝の朝日新聞を見たら、(争論)ネットが社会を分断?と言う記事があった。偉い大学の先生達の議論なので、謹んで読ませていただいたが、その中で分断の理由の一つに

「相手を論破しようとする」

傾向があるという指摘がある。これは確かに、現象的にはそのような、『論破』の試みの後、自分の意見に賛同するコミュニティに入り込み、分断が進むという傾向はある。

 しかし、この原因をもう一歩踏み込んで議論してほしい。なぜ『論破』にこだわるか、この議論が必要だと思う。

 私がこの記事を見て、笑ってしまったのは、『争論』という言葉が示すように、この記事構成が対立した意見を述べ、しかも

「お互いが相手より正しい」

と言う、『論破』の形になっていることである。この記事を見ても、相互の歩み寄りなどが見えてこない。

 こうして、社会の模範になるべき、大学の先生達が、お互いに『論破』使用とする姿を見せる。これを見て、まねをする人が出てくる。特にネット社会ではSNS等で、情報発信のハードルが低くなっている。この状況を考えると、『論破』したがる人間は増えてくると思う。

 この問題に対して、一部の知識人達からは

「博士課程の訓練を受けていない『低学歴者』は、黙って我々『高学歴者』の言うことを聞け」

と言う、論争資格を制限する向きもある。確かに、ヴィーコが指摘したように、学問の方法として、『聴講生』段階を重視し、論争方法を理解した人間だけに発言を許す制度はあると思う。

 しかし、現在の一部知識人の言い方は、

「分断を招く」

発想ではないかと思う。

2020年3月 2日 (月)

『日本教』の革命について

 『日本教』の特徴について考えたいると、『日本教』は本質的に『保守的』な体質を持っている。この理由は以下の通りである。

 まず、『日本教』の教義は

「全てを見通した神様がいて、皆のために力をかけてくれる」
「そのような神の力を持った人間がいる」
「社会の支配者はそのような人たちである」

と言う風に、

「全てに目を配り、皆をよくしてくれる指導者に従う」

と言う信仰である。ここで大事なことは、

「全体の図式を知った人が指導者」

と言う発想である。このような全体像を、人間が得ることができるかどうかの議論は、プラトンが否定したが、大乗仏教は肯定した。しかも、円頓止観や即身成仏と言うことで、そのような力を得るための具体的な方法まで示している。

 しかしながら、このような『全体図式』を一から描くことは難しい。しかしながら、ここで日本の地政学的な利点が出てくる。つまり、中華文明の辺境の地であり、しかも島国という閉鎖性も持っている。更に言えば、木火土金水の全ての資源が手に入る。こうして、

「模範となる、先進中華文明を見て、自分たちの国家イメージを作る」

と言うのが律令制度の導入であった。こうした

「模範を見て自分向けに変更する」
「その後も現状に合わせて成長させる」

と言うやり方が『日本教』の信者の生き方である。これは

「現状を肯定する『保守』の発想」

と親和性が良い。

 さてここで、『日本教』では革命は起こるのかという議論がある。私は二つのパタンがあると思う。

 一つは、平安末期から鎌倉武家政権の成立である。これは、平将門の先行失敗例から、平家の力による平安貴族の没落、そうして鎌倉幕府の政権が独自の御成敗式目という法制度を作った一連の流れが、

「独自の思想による革命」

であったと考える。これは『一所懸命』に自分たちのあり方を考えた武士が、『あるべきようは』を知ることができるという、宗教的な支えもあって、実現した。

 もう一つのパタンは、明治維新や昭和の敗戦など、

「圧倒的に優勢な外国文明の受け入れ」

である。これは律令制度の導入時にあった、『和魂漢才』を『洋才』に変えただけである。確かに、学校システムなどのメディアが進んだので、高速転換ができたが、本質は

「まねして変える」

従来手法である。

 このように考えると、現在の社会で『革新』を行うために必要なモノが見えてくる。

それは全体像を描く力である!

2020年3月 1日 (日)

現在日本社会の問題の原因

 現在の日本社会の問題点は、『和魂洋才』の失敗にあると思う。特に、『和魂』と『洋才』の正体を知らないことが原因だと思う。

 『和魂』に関しては、今まで書いてきた日本教の発想で、

「神様は全て知っている。そのような智慧を私たちでも持てる。」

と言う考えが土台にある。

 一方、『洋才』の方では、プラトン以来の

「人間の知恵は、神の領域の及ばず、部分的に見ているだけ。」

と言う発想がある。

 ここで、西洋文明は、上記の

「部分的知識しか無い」

と言う謙虚さの上に成立しているが、日本人は『和魂』で

「完全なモノが与えられる」

と信じている。この結果の一つが

「平和憲法信仰」

である。この問題点を意識するだけでも、色々な見方が変わると思う。 

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