ご縁のあった人たち

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2020年4月30日 (木)

日本語をマクルーハンのメディア論で議論する

 日本語を、マクルーハンのメディア論の切り口で考えると、色々と見えてくる。まず日本語の特徴は

「表意文字の漢字と表音文字の仮名の混合」

である。マクルーハンは、

表音文字のアルファベットを使うことで、神職等の特権階級しか使えなかった表意文字から、大衆の文字利用文化の可能性を拓く

と指摘している。中華文明の影響下にある私たちなら、これは

「真名(漢文)を読める知識人の支配=科挙」

と言う実例が頭に浮かぶだろう。表意文字を全て覚えるのは大変な努力が必要である。そこで、

『知識人』と『一般人』の壁

が生じる。これは、中国や韓国では顕著である。

 しかし、日本では

「仮名と漢字の混合で、仮名文字による知識への門戸開放、そして漢字を徐々に覚えていくことで、表意文字のイメージ共有も使う」

という、中華文明の辺境の日本の立ち位置を十分活かし、よいとこ取りを行っている。これには、中国の文明以外に、仏教文明が入ったことの影響もある。日本に入った仏教は、大衆に広げるために、色々な説話を用いた。法華経、維摩経、勝鬘経 や阿弥陀如来の教えは、どれもイメージ豊かな世界を皆に伝えて、その中で『救い』や『慈悲』などの概念を伝え育てている。

 さらに、平安時代には日本独自の物語文化が花を開くが、これも仮名漢字交じりの文章の力である。完全な表意文字の漢文を使いこなすのは、限られた知識人だけであり、一方ある程度のイメージ共有がないと、物語は成立しない。例えば『竹取』と言う二文字でも、多くの人は竹の姿を思い出す。このような共有感覚を持つことが日本の文明の特徴である。

2020年4月29日 (水)

プラトニズムと日本教

 昨日思いついたが、プラトンの「国家」を本当に読むのは大変なことである。私は、マクルーハンの「メディア論」を読んで、一つ見えて来た。

 日本大奥の教科書には、

プラトンは国家で「洞窟の比喩と哲人政治を説いた」

と書いている。しかし、私はこれは日本の西洋文明吸収の悪い面が出ていると思う。つまり

思考過程を追うのではなく、結論だけを欲しがる

学習姿勢の問題である。私は、プラトンの「国家」を読むならば、

「何故イデア論になったか」
と言う問題意識で読み
「哲学者の教育が、詩人による教育より優れている」
と言う議論展開を見いだす

段階まで進んでほしい。もう一つ言えば、

プラトンのイデアは、幾何学の抽象的概念の普遍的汎用的であることの一般化

と言う状況を掴み、

抽象化して、きちんとして定義のある概念で議論する効果

が西洋文明の科学的思考法につながっていくことを見いだしてほしい。この文脈で、

教育は詩人でなく哲学者が行うべき

と言うプラトンの主張は理解すべきだと思う。

 さて、私が今まで何回か議論した日本教では、

物語で人を導く

と言う、プラトンが否定した、「詩人の教育」が「和魂漢才」や「和魂洋才」を通じて行われている。この教育が何故日本で成立したのか、これは日本語の「仮名漢字交じり表記」の力が大きいと思う。

 長くなるので言ったここで休憩する(続く)

 

 

2020年4月28日 (火)

自らを超えるモノを生み出すためには

 コロナ危機に関連して、『ウイルスと人類の共存』という人がいる。確かに、今までの人類の歴史において、ウイルスとの共存状態といえないことはない。しかし、

「ウイルスと共存というなら、ウイルスによる淘汰を認めるか?」

と言う大きな問題がある。宿命論的に

「定められた運命でウイルス感染で死ぬ」

と言う人ばかりではない。現在の医療や社会的な対応で色々と立ち向かっている。最後にはワクチンで、制圧することを目標としている。このような流れを『共存』と言えるのだろうか?

 ただし、この議論も単純に割り切りすぎたかもしれない。中間的な発想として

「人間の命はできる限り救う、しかし今回の危機で社会システムの不備は淘汰する」
(例えば)「この危機をを乗り越えられない、経営基盤の弱い会社は淘汰する」
     「政治の形も見直す」

と言う形での『淘汰』はあり得ると思う。

 確かに、コロナ危機によって、新しい社会制度を生み出すことは、可能性として大きい。例えば

『ベーシックインカム制度』

の導入は、一つの候補だろう。

 さて、ここで大きな問題がある。

「現在の社会制度を超えるモノは、誰が生み出すか」

という問いにきちんと答える人がどれだけいるだろう。私が何を言いたいのかよくわからない人もいると思うので、これを極端な二つの例で考えてみる。

  1. 理論的に作り上げた理想社会を描き、それを実現しようとする
    (いわゆるプラトンの哲学者の支配)
  2. 色々な社会を実験的に作り、その中で一番良さそうなモノを選ぶ

実際には、ある程度理論的に見通しを立て、それを試行錯誤的に修正していく形が妥当かもしれないが、現状を超えるモノをどのようにして造るかは、現在こそ見直すべき問題だと思う。

2020年4月27日 (月)

コロナ危機に対する人材補給の一提案

 今回の、コロナ危機に対しては、日本政府の選択は、

「感染拡大を押さえながらの長期戦」

と言う選択と見える。これは、一部の国で起こった

「蔓延した後は、抗体を持った人間が多くなる」

と言う形での収束とは異なっている。私たちは、多くの死者や、医療崩壊という状況に、向き合いたくないのだから、この選択は正しいと思う。

 しかし、この選択を成立するためには、

「医療を重点とした、社会システムの存続」

をいかに維持できるか、このための戦略が必要である。確かに、一つの戦術として、

「ワクチンの速成開発」

は、大阪などで動いている。

 さて、私が提案するのは、

「医療を中心に、そのサポート人材確保」

の戦術である。具体的には

「医療関係の学生の戦力化」
「医療資格保持者の借金肩代わりによる戦力化」

を提案したい。現在の、コロナ医療に関しては、大量の軽症者、そして無視できない酸素呼吸の必要者、さらにICUレベルの患者と、多様なレベルでの対応が必要になっている。また検査作業など、人手を多く要する分野もあり、医療関係者の感染への、交代要員不足は既に起こっている。

 この状況を考えて、

「医療関係の学生を、限定範囲で業務従事させる」

と言う選択肢はあると思う。当然従事した方々への報償は、金銭的・キャリア評価としてきちんと行うべきである。

 さてもう一つの戦術は、露骨に書けば

「医療資格保持者だが、借金で風俗産業などに縛られている人の活用である」

これは、行政的な豪腕も必要だろうが、

「当人が医療関係で貢献するなら、行政的に借金返済など支援する」

等の手段で、人財を掘り出すことも必要だと思う。もっと言えば、今回の状況に対して、

「志願して感染危険など危ない作業に従事する人への借金返済への支援」

と言う政策もあって良いのではと思う。

 このような政策は、大阪の #吉村知事 #松井市長 には期待できると思う。

2020年4月26日 (日)

心に響く言葉で反省する時の注意点

 このブログでは、何回か反省について書いている。例えば

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-7943c3.html

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-738b.html

である。

 今回は、反省するときに『日本教的な実体観』を持つ危険について考えてみたい。このブログで先般書いた、心に響く言葉の問題である。

 http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-56b96d.html

このように、日本語のコミュニケーションには、心に響く言葉があることが少なくない。このような言葉には、具体的な体験などの生々しい感情がつながることが力を生むことが多い。

 さて、こうした実体験を思い出すことは、色々な傷を負うことになる。いわゆるフラッシュバック問題である。

 特に反省という状況は、

「昔の状況をきちんと思い出す」

必要がある。これを客観的に観ることができれば、心の傷を生むことは少ないだろう。しかし、

「具体的に詳細を再体験する」

形での思い出しには、色々な危険性が出てくる。一つの問題は、多くの事態では、一方的な加害者と被害者という区分でなく、どちらにも悪い面がある。このため、反省の前に自分の被害を思い出し、潰れて行く危険性である。もう一つは、自分の罪の重さに潰れる危険性である。

 この問題は、西洋文明的な、『客観的記述』の場合には起こりにくい問題である。これは、学校などでも起こり得るが、上っ面の言葉での反省なら、直ぐにできる。しかし、心のそこからの反省の時には、加害者としての自分と被害者としての自分、そして償いのできる自分の三者ときちんと向き合う必要がある。

 ここまでできないと、本当の反省にはならないと思う。

2020年4月25日 (土)

コロナ以降の社会について

 今朝の朝日新聞の耕論を見て、少し気になったことがるので書いておく。今回の論点は

将来ビジョンを示すのは誰の仕事か?

について議論してみたい。

 確かに、政治家が将来のロマンを語ることは、一つの仕事だと思う。しかし、もう一つ

学者にも政策提言や予測を期待

しても良いと思う。昔、某国の女王が、経済学者を前にして

「あなた方はこの経済危機を予測していた?」

と質問したとき誰も答えなかったと言う話を聞いた。

 確かに、学者達が、

「現在の政策を批判する」

ことは、一つの仕事であり、政治の見落としを避けるために有効である。しかし

「それだけか?」

と言う疑問がある。

 今回の事態に対しては

コロナ医療危機を抜けた後には経済危機が来る

と言う通説に対してもう少し提案があるべきだと思う。

 私の個人的な提案は以下の通りである。

  1. 赤字国債の大量発行に対してMMT等の理論がどこまで使えるかを議論する
  2. 現状の「働き方変化」を活用して、一気に働き方改革を推進
  3. 関連して、ゾンビ企業の淘汰を行う
  4. セーフティネットとしてのベーシックインカムの導入

なお、これと関連して、

明治維新の時の各藩および幕府の財政破綻を、新政府が上手く乗り越えた事例

(混乱はあれでも少なかった)

の教訓を生かすことも大事ではないかと思う。 

2020年4月24日 (金)

自宅待機中の大学生に対する助言

 コロナ対策で、大学に行けない学生さんも多いと思う。そのような学生さんに対して、私の経験から助言したい。

 私は、1968年に大阪大学に入学した。この年は大学紛争中で、大学も学生運動による封鎖の影響で、半年以上

合格浪人という自宅待機

を経験した。

 その時私は、その年に初めて行われた、情報処理技術者試験を受けようと思った。しかし、コンピューターとは何かも知らないので、色々と本を読みあさった。そこで読んだほんの一部が、コンピューターの基礎である、チューリングマシンに関する本である。当時完全に理解するレベルには至らなかったが、基本原理に少し触れたことで、後々のソフトウエア技術者としての基盤が、しっかりしたように思う。

 この経験から、現在の自宅待機中の学生さん達に言いたい。

この機会に基礎になる本をしっかり読む

これが生涯の基礎力として役立つと思う。

 しかも現在の環境は私の時代より遙かに良い。例えば、ちくま学芸文庫からは、多くの古典が翻訳されている。これが文庫本で読めるありがたさを知ってほしい。

 私のお勧めの品は以下の通りである。

 読書術 (岩波現代文庫)加藤周一

 数学序説(ちくま学芸文庫)吉田洋一/赤攝也

 現代数学概論(ちくま学芸文庫)赤攝也

 

2020年4月23日 (木)

「アベノマスク」に関する議論

 政府からの、布マスク配布について、色々な意見が出ているが、私の意見は

「これがクルーズ船トラブル直後か、せめて3月頭の配布なら、国民への意識付けとして意味があった」

である。マスク二枚程度なら、大したことにはならないが、

「政府がここまで危機感を持っている」

と言う意識付けにはなったと思う。しかしながら、

「緊急事態宣言」

と言う、より強いカードを切った後には、

「効き目が薄い無駄遣い」

となる可能性が高い。このよう考えると、コロナ対策全般に見える問題は

「政府の対応の遅さ」
「硬直した政策運営と、修正能力のなさ」

である。これは、大阪の吉村知事・松井市長のコンビが

「朝令暮改と言われても対応していく」

と言う覚悟と実行力に比べれば格段に見劣りする。

 さて、この問題に関して、今朝の朝日新聞の耕論に三人の意見が載っていた。

 私はその中でも、山口真由さん(信州大特任准教授)の意見が大切だと思う。なお、彼女の肩書きを、ニューヨーク州弁護士と書いた方が、この記事には説得力があると思う。

 批判すべき点はありますが、政府と国民の互いの期待の高さが浮き彫りになったことは指摘すべきです。

 政府は、欧米のように罰を科したりしなくても、国民が自主的に自粛をしてくれると期待しています。一方の国民も、政府への不満の裏には、「お上が何とかしてくれる」という強い期待があるのかもしれません。これは「政府にはそもそも期待しない」という米国の伝統的な価値観とかなり異なります。

 相互の期待の高さを信頼に結びつけていけないか――。これがコロナ後を見据えた課題ではないでしょうか。

私は、山口真由氏の待機した問題に関しては、「日本教的発想」で答えることができると思う。

 西洋文明を体感している人に、日本の今までの伝統が「プラトンの洞窟の比喩」の呪縛を超える可能性を示していきたい。

2020年4月22日 (水)

「人物」という表現について

 先般から書いている、数値評価などの話に関連して、

「人物」

と言う表現について考えてみた。まず、一つ目は

「人は物ではない」

と言う反論である。もう少し言えば

「人には感情も知性もある、物と一緒にしてはいけない」

である。しかしながら

「成績だけ、金銭収入だけ、地位だけ・・・」

だけしか見ない人は

「物に対する見方もできていない!」

のではないかと思う。物作りに携わった経験からすれば、物に対しては

「外形、内部構造、機能、外部からの影響、経年変化・・・」

の多面的な見方が必要である。このような多面的な見方もせずに、

「人は物ではない」

と言っている人が多いと思う。とりあえず、

人物という多面的な要素

を一体に見る。ここから始めるべきではないかと思う。もっと言えば、

「他人の行動や感じ方を思いやる」

時にも、上記の「人物という見方」で多面的に考えるべきだと思う。  

2020年4月21日 (火)

感性が鈍いから改善ができない

 昨日書いた,人間への感性について、もう少し話を一般化して考えてみた。

 色々な物事に対して、

「微細な違いを感じる力があるか?」
と言う問題は
「成長を見いだす力」

と関連している。学校教育のように

「決められた教材をこなすことでの成長」

ならば,このような微細な感性はいらないかもしれない。もう少し言えば

「教材の中に確認事項が入っているので成長が解る」

と言う仕組みがある場合も多い。

 しかしながら、新しい分野を切り開くときや、自力で成長するときには

「自分で成長したことを評価」

しないといけない。このためには

「できるだけ細かな成長・改善を感じる力」

があれば、段階的な成長が可能となる。感性が鈍い場合には

「大きな違いが出る場合しか解らない」

ために、小さな改善の積み重ねができなくなってしまう。

 日本企業が,改善上手だったのは,このような

「小さな進歩を確実に認める」

現場の指導者の力が大きいのではと思う。

 実は私自身、大学を離れたとも、個人的に色々と考えていた。しかし、大学の指導者との関係が密では無かったため、論文としてまとめるとき,どうしても大技を狙ってしまった。この結果、最後まで書けなかった悔いが今も残っている。

2020年4月20日 (月)

人間関係に関する感性の問題

 人に対しての感性について、少し考えている。

 まず、数値化できないものに関する、感性の弱さである。科学的な扱いということで、数値化したものだけを重視している弊害がある。

 さらに、

「言葉に出して言う」

事に対する要求が強くなっているように思う。

 これは、裏返すと、

「声に出さない者を無視する」

傾向につながっている。

 この結果、人間関係の口に出さない、感謝や不満、この積み重ねで動いていた部分が、徐々に弱くなっているように思う。

 しかし、声に出せないレベルの「感情の動き」が人々に影響を与えるものはあると思う。

 これを上手く使う必要がある。

学校的社会等の単一価値観への過剰適応について

 昨日、テレビ朝日のしくじり先生山口真由先生編を見た。私は、山口真由氏については、知性面では尊敬すべき人と考えているし、テレビ画面で時々見せる『かわいい!』雰囲気には好感を持っている。

 しかし、彼女の話を聞いていると、このブログで近頃注目している

「単一価値観への過剰適応」
「感情を学校制度などで押し殺す危険性」

の副作用についての典型例として、色々考えるべき問題が見えてきた。なお、山口真由氏は、彼女のたぐいまれなる能力(努力する力も含めて)により、現在社会への適応問題をクリアしているが、彼女ほどの力(努力)がない人のトラブルが問題と考えている。

 さて、「単一価値観への過剰適応」という硬い表現を書いたが、もう少し掘り下げると

「学校の成績だけで、全ての順位を付ける。極端な話、恋愛対象も成績で決める。仕事も成績対応で決める。」
つまり
「自分が『ほしいと心から思うことではなく成績という客観的なモノで決める」

という、学校の運営側には非常に便利な特性である。

 しかしこれが行き過ぎていると、

「大学の成績が全て」
さらに
「研究生活に入らないと存在価値なし」
「研究成果が人間の価値全て」

と言う、大学文明への過剰適応人材になった人もいる。実は、私も数十年前に、大学から企業に入ったとき、そのような挫折感を持っていた。

 このような、過剰適応を避けるためにも、

「人間の多様性に触れる」
「多様な立場を理解する」

機会を子供の時から与えて、また成人になるときにも、継続した人間関係による育成を考えるべきだと思う。

 なお、山口真由氏に関しては、テレビ番組での言動を見ても、少なくとも現在は、

「他人の立場に関して、きちんと思いやりができている」

と思う。

2020年4月19日 (日)

IT技術による多面的な記述(再現)の可能性について

 昨日書いた、ゲームが人間の成長に与える影響について、もう少し議論していきたい。ここで、影響と書いたが、現在の状況は

「IT技術による、人格に対する多面的な見方を開く、可能性

の段階である。

 まずは、多面的な見方の重要性を認識するため、現在の「教科書的一面性」の弊害について考えてみよう。

 現在社会は、物事を単純に見るとこで、因果関係を明確にして、一般的な知識を引き出し、予測や説明ができるようにした。こうして、物理学が生まれ、機械化した文明が力を持つようになっている。そこではガリレオの原理と言われている

「計れるモノは計れ、計れないモノは計れるようにしろ」

が力を持っている。そのため現在社会では、

  • 子供の成長段階では成績
  • その後は給料
  • 帰属社会のランク付け
  • 政策評価はGDPの上下

等の単純化した尺度による物事の把握が行われることが多い。特に、人間に対する動機付けが、このような単純な尺度で行われることが少なくない。成績だけでの評価、所属会社だけでの評価(内定先だけでの評価)、地位だけでの評価などである。

 しかしこれで本当に良いのだろうか?人間というモノをこのような一面的に観て良いのだろうか?

 ここから、少し私の過去の状況をシミュレーションしてみたい。

 私は、学校成績はかなり良い方であり、大学もいわゆる旧帝大で、大手のメーカーに就職した。このスペックで、中学や高校の「憧れの人」に対して、結婚を申し込んだらどうなったであろう。ここでもう一つ付け加えると、当時の私の価値観は、成績が大事であった。従って、相手側もかなり『成績優秀者』である。従って、向こう側も『良い学校』というモノに、引きずられた可能性はある。従って、交際結婚という可能性はある。

 しかし、私自身の個性や家庭状況を考えると、これが結婚まで無事行ったか、結婚後の生活が無事行ったかは大いに疑問である。それどころか、破綻した可能性は大きい。前にも書いたが、私の家庭は貧困であり、対人スキルや色々な体験を、子供時代や学生時代に過ごすことはできなかった。

 さて、人間の多様性について私に

「文学作品を多く読んで、人間を広く理解しろ」

と助言してくれた先生がいた。確かに、文学作品を深く読み、その人の心に寄り添うことができれば、多面的な人間理解ができるようになったかもしれない。しかし、このことには想像力などの多大な力がいる。

 そこで、私が可能性を見いだしたのは、ゲームの世界である。ゲームの登場人物に、色々な側面を入れて人格として充実させていく。多様な価値観を入れて、矛盾した価値観の間で色々な悩みも体験させる。一方、他人との関係で、お互いの感情の交流や、相手側がどのように 感じているかも、後からの反省などで観ることができるようにする。

 このような、人間関係を密に提示する育成が、ゲームにはできる可能性があると思う。 

2020年4月18日 (土)

SNSとゲームが人間の成長に与えるモノ

 昨日書いたように、日本の大変革の時代には、多くの人の考え方の基底が変化していく。そのための手段として,教育は大きな役割を持っている。なお、私たちは昭和の敗戦以降の,『合理的な教育』を受けているから、宗教と教育の分離が当然と思っているが、歴史を見れば、宗教と教育の布教は一体と観るべきだろう。例えば,江戸時代の寺子屋は、文字通り、寺や神社での教育である。平安時代まで遡っても、当時の僧侶は最先端の学問を修得していた。

 もう少し踏み込めば、日本の仏教普及には、当時として最善の技術利用があった。仏像・曼荼羅などの絵画・琵琶などの音曲、これらを駆使し当時としてのマルチメディアでの大衆への布教が行われている。

 さて、昭和の敗戦から75年も過ぎている現在、教育に使われる手段は大きく変化してくると思う。

 私が考えている変化は、SNS等のネット社会での

「情報アクセスの大衆化」
特に
「双方向的な情報アクセス」

が一つ目の変化である。この結果

「多様な価値観の受容」
「マイノリティの居場所ができる」

ことが大きいと思う。

 もう一つは、

「ゲームの普及、特に自分でゲームのキャラクタを造れる」

と言う可能性である。

 仮想空間で、シミュレーションして、色々な人格を生み出し、その働きの効果を自分で観ることができる。しかもその人格や環境を自分で変えることもできるので、色々と試すことができる。

 このような、体験型の学習は、今までの紙の上での教育を変えていくと思う。

2020年4月17日 (金)

社会の変革時には教育が変化する

 先日から書いている、コロナ危機の後に起こる『社会の大変革』に関連して、今までの日本社会の大変革を見直してみた。

 古い順から挙げると

  1. 弥生時代の渡来人による稲作への転換
  2. 聖徳太子などによる天皇制の確立と仏教の普及
  3. 空海等の遣唐使とその廃止に伴う和魂漢才文化
  4. 武家社会の成立(承久の乱まで)
  5. 明治維新
  6. 昭和の敗戦

と言う流れになる。

 私の考えでは、この各段階で、大衆に対する適切な指導が行われて、流れが変わったように思う。つまり、日本の変革時期には、

「従来の特権階級の独占知識が多くの人に広がる」

ことで、大きな力が生まれた。最初は、渡来人達が稲作の方法を教えて、それが広がる。次に、聖徳太子達は、大乗仏教と中国文化を上手く融合しながら導入していく。そして平安時代には、仮名文字文化で漢文の知識人独占を排除していく。

 さて承久の乱では、貴族や皇族の支配権を、武士が奪い、しかも法律まで作ってしまう。しかも貞永式目などは江戸時代まで寺子屋で教えていた。こうして、大衆教育は宗教教育と一体となって、江戸時代までの日本文化を育てていた。

 しかし、明治維新では、

「西洋文明の早期吸収のための学校教育制度」

を実現し、そこでは

「教育からの宗教排除(仏教・古神道)」

が行われている。なお、『国家神道』を宗教と認めることは難しいと思う。

 最後に、昭和の敗戦時のアメリカ支配で、

「民主主義教育の徹底(知識層のエリート的発想の排除)」

と言う流れになっている。

 さて、このように変革時には、『知識の大衆化』が起こることが、今までの流れで見えてきたと思う。

 ここで、令和の時代を考えると次のような予想ができると思う。

SNS等のネットの力と、ゲームの記述力による教育革命

これが、コロナ以降の社会を変えていくと思う。続く

2020年4月16日 (木)

コロナ危機以降の社会について 続き

 昨日書いた、『コロナ革命』について、もう少し考えてみた。

 今回は、かなり過激な内容になるが、全体を読んで判断をしてほしい。

 まず一つ目の論点は、『淘汰』という概念である。ウイルスと共存という生物学者や歴史学者は、ウイルスの機能としての『淘汰』と言うことを明示しない場合がある。しかし極論を言えば

「ウイルスとの共存と言うときには、免疫ができるまでの間に死者が出る。」

と言う事実に向き合い、更にその裏にある

「そこで死ぬのは弱者である。」

と言う『淘汰の原理』を含んでいる。この厳しい側面を忘れて、軽々しく

「ウイルスと共存」

と言うべきでは無いと思う。

 さて、次の論点は

「淘汰が、起こるにしても何を淘汰すべきか?」

と言う議論である。私が考えていることは

「淘汰の対象は、不適切な社会システムである」
具体的には
「既得権益にあぐらをかいている、人々やシステム」
加えて
「人間を大事にしないシステム」

を淘汰の対象にすべきと考える。もう少し具体的な施策を言えば

「企業の休業補償は行わない」
しかし
「個人の生存保障はしっかり行う」

と言う考えである。企業に関しては、

「この危機を乗り切る、智慧ある経営者が生き残れば良い」

「働く人の生活はきちんと守る」

と言う考えで、淘汰が行われても良いと思う。このため、具体的には、ベーシックインカムの制度が良いのではと思う。

2020年4月15日 (水)

コロナ以降の社会について

 現在のコロナ危機は、いずれは収束するだろう。しかしその後の社会が、かなり変容を遂げる可能性は大きい。極端なことを言えば

「革命が起こった」

と考えるべきかもしれない。

 ただし、『革命』というならば、何かが倒されるが、それが何か見えているだろうか?私が漠然と考えている可能性は、

「国家の信用に依存した貨幣経済の大変革」

である。現在の日本の財政は、実質赤字国債で支えられている。しかも、今回のコロナ危機には、もっと多くの赤字国債が出るだろう。更に言えば、地方債が出る可能性もある。休業補償等を考えると、多くの財源が必要になるので、これはやむを得ないと思う。

 更にこの動きは、欧米にも波及すると思う。アメリカなども大規模の支援を打ち出しているが、結局赤字国債のような形でしか、財源はないだろう。

 これに対して、MMTと言う怪しげな経済理論が後押しをするかもしれない。

 ただ、これを単に経済だけで考えることは、限界があると思う。

「貨幣の本質は信用である」

この原点に立ち返ると、政治的・社会的な問題、そうして技術的な実現の問題など、総合的に考える必要がある。

 一つのアイデアとして、日本の

「明治維新における貨幣経済の大変革」

は参考になるのではと思う。

 徳川幕府の貨幣制度や、浪速の銀本位制は、どちらも破綻しかかっていた。これを、明治政府という信用創造で見事に切り抜けた。

 今回もこの知見が生きるのではないかと思う。

2020年4月14日 (火)

心に届く言葉とは

 今回のコロナ騒動において、東京の小池知事と比べて、大阪の吉村知事の言葉が、心に届くように思う。この理由を少し考えてみた。

 私の結論は、

「現実への直面ができていて、しかも感情がこもっている。」

ことが、心に届くのではないかと思う。もう少し考えると、そもそも『心』とは何だろう?仏教の智慧でもう少し考えると

  • 心:感情など
  • 意:考えるための場面(舞台か?)に載せたもの
  • 識:意の上で判断する、識別の働き

と3つの働きを分けてみる。これは納得しやすい。

 つまり、根底にある感情がエネルーギーを与えて、意識の働きを動かしている。

 このように考えると、

「感情がこもった言葉が人を動かす」

のは当然だと思う。

 また今回の大阪府の対応は、

「ネットカフェへの自粛を要請するが、そこで宿泊せざるを得ない人の救済措置として、安価な宿泊施設を手配する。」

と言う現実の厳しさへの対応も見える。

 このような現実への目配りも、心に響く条件だと思う。

 なお私の個人意見だが、

「所得保障と生存権保障は分けるべき」

だと思っている。生存のための保証はなんとしても行わないと行けない。しかし、所得の保障は、本当に必要か議論があると思う。よく言う、

「一度座るとXX万円の○地のクラブ」

の高給ホステスの所得保障に税金というと、少し考えるモノがある。しかし『ネットカフェ難民』の生存には、できるだけ応援したい。このような現実感が、心に響くのではないかと思う。

2020年4月13日 (月)

コロナ対策の影響について

 今回のコロナウイルス対策の影響が、このブログにも出てきた。

 私は毎日アクセス解析を調べているが、一般傾向としてこのブログには、企業からのアクセスが一日一件超えのペースである。しかし、今月の入ってからは、非常に少なくなっている。これは出勤者が減って、在宅ワークなどに切り替えた結果だと思う。

 なお企業関係者からのアクセスが多いのは、

  1. 正社員登用関係
  2. FTAとナゼナゼ分析
  3. 管理職と総合職関係
  4. 研究と開発の関係
  5. 図と絵の違い

と言う感じである。

 また大学からもアクセスがあったがこれも止まってしまった。大学関係のアクセスは、就活関連や企業の内容を知りたいという人たちと、私のアイデアに興味を持って下さった方達の二極に分かれている。

 こうしてみると、このブログには色々な使い方があるらしい。まあ、15年以上書き続けていると、色々な分野に広がってくる。

 これからも、多くの人に考え方のヒントや、会社生活の経験で参考になるモノをお伝えしたい。

2020年4月12日 (日)

大阪のコロナ対応に『日本教』の復権の希望が見える

 今回のコロナ対応に関しては、大阪府の吉村知事の動きが光っている。東京に先立ち、厚労省の危険情報を公開したこと、軽症・無症状の隔離施設としてのホテルなどの確保、医療関係の危機的状況、そして自衛隊への支援要請などが、率直に市民に見える形で行っている。極めつけは、

「東京のように、資金がないので、補助金は出せない。」

と言う主旨を、素直に市民に言いながら協力要請をしている点である。

 この行動は、

「市民の善意と良識を信じる。」

信念に支えられていると思う。

 これは、西洋文明的な

「インセンティブを与えて、下々を動かす。」

発想と根底から異なっている。

 これに答えるように、市民層からの種々の動きも出ている。例えば、多くの医療関係OBの協力申し立てなどである。

 このような、良いサイクルが回り出すと、人々は善意の方に目を向けるようになる。善意に目をむけば、更に良いモノが集まるようになり、悪いモノに対しても救いの手が伸びるようになる。

 このような、良いサイクルが回る様にすることが

令和の日本教

である。

2020年4月11日 (土)

コロナ対策の戦術的な評価

 今回のコロナ対策に関して、日本の対応は

「遅くて生ぬるい」

と海外から批判を浴びている。しかし、現在の状況を見ると、かなり上手に立ち回っているように思う。

 まず、検査数の少ないと言う対応は、

「医療崩壊対策のため、軽症患者殺到を避けるために、あえて検査を絞った。」

と言う戦術としては、あると思う。なぜなら、現在の施策として

「軽症者、無症状者のためのホテル隔離」

の体制が整いつつある。このための時間稼ぎの戦術は成功したと思う。

 もう一つ、昨日大阪の吉村知事がテレビで話していた

「ニューヨークの事例をしっかり調べている。」

と言う作戦である。卑怯と言われるかもしれないが、先行者の失敗から学ぶべきことは多い。こうして

「追従者しながら、先行事例の失敗を果然する。」

ことは、日本のお家芸といえるだろう。

 これは、もう少し踏み込めば、

「中華文明の辺境の地である、日本古来の智慧」
「先行事例の全体像を見て、それを冷静に評価し、よりよいモノとする。」

という『日本教』的な発想ではないかと思う。

2020年4月10日 (金)

戦争か平和か? 両極端しか考えられない弊害

 「戦争か平和か」このような、二者択一の話を聞くことが多い。確かに、二者択一なら選びやすい。しかし現実問題では、そのような単純な選択ができるのだろうか?ここで仏教の十界の発想を考えてみた。

 シリアなどの戦闘中の世界は、確かに地獄だろう。しかしこれ以外にも、多くの国が飢餓に苦しんでいる。一日かけて水くみに行く世界もある。これは餓鬼道だろう。また、学ぶ機会もなく、乏しい資源の中で、暴力的な支配が行われる。これは、畜生道だろう。さらに、知的水準が上がったと言っても、自分の正義を押しつけて、他人を全て否定し戦いを挑む。これは阿修羅の世界ではないか?

 一方、自分たちの幸せに酔うのは、天人の世界だろう。更に、良い教えを聞いて、従うのは声聞の世界で、自分で考えて方針を決める縁覚の世界、さらに観あを救うための活動を行う菩薩の世界がある。

 さて、このような世界を、自分のあるべき姿を描き、構築するのは仏の力ではないかと思う。複雑なシステムを全て観て、その中でのバランスを考える。このような力があるのが仏の力ではないかと思う。

 そうした世界全てが、人間界で生きている私たちの心の中にある。これが、天台の『一念三千』の教えである。

 全てを観ろと言うのは難しいが、単純な二者択一だけで世の中を見る危険性について、もう少し考えていくべきではないかと思う。

 現在の学校教育の単純化した物の見方は、基礎であっても完成品ではない。自分を磨き充実させるためにも、多様な世界に向き合うことが大事だと思う。

2020年4月 9日 (木)

解っていないという評価 学会報告の事例

 昔、学会の研究会で報告するとき、

「自分の報告は、だめではないか?」

と悩んだことを思い出した。この悩みには、大きく分けて二つの要素がある。

 一つは、研究の論理展開の弱さなどである。議論の飛躍があったり、証拠不足だったりして、研究者としての手法の問題がある場合である。これは、自分の未熟と言うことで、自己責任という面が大きい。

 さて、もう一つがやっかいな問題で、

「この研究は,報告に値するか?」

と言う悩みである。極端な事例は、発表内容に対して座長などから

「XXが既に報告している。」
「教科書のXXに書いてある。」

と一蹴される場合である。

 これは、研究分野の全体的な見通しと、最先端研究への見識がないと、

「自信を持って,大事な研究である。」

と言えないからである。更に踏み込めば、

「科学哲学の立場で、研究の新規性や価値を評価できるか?」

まで考えないといけない。

 ただし、ここで指導者の役割が出てくる。

「研究の価値を決めるのは指導者の責任」

と言う割り切りも有る。多くの研究者は、若い間は指導教官や先輩の指示に従って、分担した研究を行う。この立場では、研究の価値の責任はない。

 ただし、この立場なら、「先輩には服従」という縦社会になってしまう。そこで、研究者としてのスキルが身につくまでは,先輩の指示通りの研究が必要だろう。しかし、ある程度手法が身につけば、自力評価を行える力も必要になる。そのために学会の各種資料を広く読んで、見識を広げていくことも大切だと思う。 

2020年4月 8日 (水)

本当に民主主義を実現するなら人への信頼が必要ではないか?

 昨日の『日本教』に関する議論をもう少し踏み込んでみた。私が考えている、日本教の教義は

「人に対する信頼と能力への楽観視」

である。これは、私たちは当たり前と思うかもしれないが、西洋文明にはこれに対する大きな壁がある。その土台は、プラトンの洞窟の比喩である。つまり、

「人間の分際では、神のみぞ知る『真実の世界』には到達できない」

と言う諦めである。このため

「真実に少しでも近づく哲学者の支配が望ましい」

と、プラトンが「国家」で主張した。この「哲学者の支配」と言う発想は、形を変えて、現在でも

「高能力エリートの支配」

と言う形で、西洋文明に生きている。

 さて、私が提案する『令和日本教』では、

「人間の力でも、皆をよくするビジョンを持つことは可能である。」
「そのビジョンを作るのは、有能な限られた人かもしれないが、それを理解する人は多くいる」

であり、さらに全体的なビジョンを作る力は

「全体像を悟る力が私たちあるという信仰を持って、全体像を観ようと修行する」

ことで身につく。これは天台宗の円頓止観の修行そのものであり、更に有能なクリエイター達が行っていることである。

 一方、大衆の理解に関しては、現在のネット社会が、これを支えている。山本七平が『日本教』について書いた昭和の時代は、まだ本など紙での情報交換が主であった。そこでは限られた人の理解しか得られなかったであろう。

 しかし現在の情報発信と入手の大衆化は、大衆の理解という

『本当の民主主義』

を実現させるのではないかと思う。

2020年4月 7日 (火)

『日本教』的な緊急事態宣言

 本日中に首相が緊急事態宣言を出すらしい。しかし、この宣言は中国のような独裁国や、欧米の自由主義国と比べても、『生ぬるい』と評価されるだろう。危険地域の封鎖などもできないし、買い物もできる。このような生ぬるい対応で良いのだろうか?

 一年前の私なら、これは

「軍事的な危機管理体制の弱さ」

と批判したと思う。つまり、欧米でも軍事に関して心得のある国なら

「戒厳令の発令」

として、危険地区封鎖などは実行する。我が国はできないのは

「平和ぼけ日本」

が原因と思っていた。

 しかしながら、『日本教』の発想でもう少し見直すと別の解釈も出てくる。私は前に日本教の教義を

「お上に対する無邪気なまでの信頼」

と書いた。しかしまではもう少し広げて

「人への信頼」

が根底にあると思う。つまり、

「『自粛』を言うのは、皆の良識に信頼があるから」

と言う発想である。もう少し言えば、今回の宣言は

「地方の自治に任せる」

形であり、ここにも

「責任転嫁の面もあるが、地方の力を信頼する面もある」

という『日本教』の発想がある。強烈なリーダーシップは見えないが、のらりくらりと医療崩壊をさせずに、この危機を乗り切る。これができれば、

「令和の日本教復権」

ができそうな気がする。

2020年4月 6日 (月)

いわゆる『悟り』について

 昨日は、大乗仏教の『即』について書いた。しかし、禅宗などでは

『悟り』

を大事にしている。

 そこで、私なりに

悟りとは何か

について、書いておきたい。

 私の考える悟りは

「知識や体験が全て有機的につながって結晶化し、自分の心の中で自然に動き出す瞬間」

だと思う。

 まず知識は、断片的でなく、相互のネットワークがきちんとしたものになる。これに、体験したことが色々と絡んで厚みができ、体験師とことも知識で説明することで一般化していく。このような知識と体験が混ざり、あるとききちんとしたモノになってくる。それが自分の中か、別人格かどちらかで自然に動き出す。このような体験が、『悟り』ではないかと思う。このように考えると、クリエイター達は、多くの悟り体験を持っているように思う。 

2020年4月 5日 (日)

西洋文明の論理的思考と大乗仏教の『即』の発想

 西洋文明と『日本教』の発想の違いについて、『論理的』という切り口で議論したい。

 西洋文明は、ユークリッドの幾何学、ギリシャの哲学そしてローマ法を経由して、現在の自然科学の体系に至る、論理的思考の成果である。このような論理的思考は現実の複雑な世界を抽象化し

原因->結果

の単純な関係に帰着させることで、一般的な法則を見いだし、これで多くの自然現象などを説明、予測することで現在の文明社会を生み出している。

 一方、『日本教』を含む東洋文明の思考法は、このような西洋文明の単純化を取らず、

比喩の積み上げ

で思考し、教えている。

 さて、ここで以下の疑問が出る。

「比喩や、体験の積み上げから、一般的なモノを得ることができるか?」

この問題に対して、西洋文明的な発想ならば

「実例から、基本的要素を見いだし、帰納的に法則性を見いだすことができる。」

と言う答えがある。

 しかし、大乗仏教の教えは、これとは別の答えがある。

『即』

の教えである。これは

「そのものになりきる。その世界を生み出したものになる。」

と言う発想である。例えば

「『慈悲』を体感するには、慈悲を行う観世音菩薩に即なる」

と言う発想である。それを色々な場面で実行できる、菩薩の立場に、即座に至る。

 理論的な規則性でなく、色々な状況で実行できる力を、自分の中に見いだす。これが大乗の教えだと思う。

2020年4月 4日 (土)

新規の仕事について お茶くみ の意味づけ

 新年度に入って、新しい仕事についたり、仕事が変わる人も多いと思う。

 さて、ここで新人が「お茶くみ」等の、いわゆる「雑用」と思う仕事をさせられることは少なくない。しかしながら、

「お茶を出す」

ことの価値をどれほど考えているだろう。

 お客様にお茶を出す、これは

「お客様に対する歓迎の意思表示」
であり
「お客様に好意を持ってもらう最前線の仕事」

である。このような気持ちが第一である。一方、もう一つの意味がある。それは、

「お茶を出す機会にお客様に触れる」

ことである。これは良い人財に触れる機会でもあるし,自分が人を見る目を磨く機会でもある。

 こうして人を見る芽が出てくると

「お茶を出すプロ」

としての仕事が出てくる。私の経験で参考にしてほしい。

 私は、対人スキルにおいて、自信が無い面がある。そこで、他人の評価を大事にしている。だから,会社勤めの時は、来客時には一番信用のおける部下に,「お茶出し」をお願いすることが多い。彼女も心得ているので,私が接客しているとき、適当なタイミングでお茶を出してくれる。

 その後、何か気になることがあれば、二人きりの時率直に意見を言ってくれる。通常は何も言わないことで、

「あの人は大丈夫」
「今の対応で良いと思います」

と言うメッセージが送られてくる。

 特に私が迷っている時には

「私もあの人は難しい」

と正直に言ってくれることで、自分の気持ちが晴れることもある。

 このようなお互いを大事にしている環境では、一つ一つの仕事に深い意味が出てくるだろう。

2020年4月 3日 (金)

コロナ感染対策に見る『日本教』的な発想

 今回のコロナ感染対策において、日本政府の対応は、世界の大勢からは外れている。しかしながら、

「死者数の造化は、タの国と比べてよく抑えている」

と言う面では、

「失敗とは言い切れない」

レベルである。今回の政府の対応は、

「検査数を抑えて、感染者数を少なく見せることで、問題を先送りした」
その間に
「国民の間に自粛ムードや、手洗いうがいの励行で、感染を抑える行動を定着させ」
さらに
「医療体制の立て直しを図った」

と言う風に見える。この対応は

「国民に協力してもらえるという確信があった」

からできたのだと思う。ここで

「問題先送りは悪いのか?」

と言う観点でもういちど議論すると

「時間稼ぎをすれば体制が整う」

ならば、

「先送りは立派な戦術である」

ただし、

「解決策がない場合の先送りはじり貧となる」
(先の大戦の日本)

と言う危険性がある。

 ただし、今回の対応に関しては

「多くの国民の協力と、地方自治体など各部門の努力ができる」

と言うある程度の勝算があったと思う。この一面として『日本教』の

『皆の良識を信じる。話せば解る。」

と言う根本的な信念が大きく働いたと思う。

2020年4月 2日 (木)

『許す』をいう資格があるか?

 今まで書いている、『反省』の話に関連して、過去に他人から受けた諸々の被害について

「許すことができるか?」

と言う問題が出てくる。

 過去のトラブルは、自分の原因だけでなく、他人の原因が絡むことは少なくない。更にその場面場面で、悪意ある対応をされることも少なくない。そのような

「心の傷を与えた相手のことをもいだした」

場合に、それを『許す』ことができるだろうか?

 単に、記憶の外に押しやる。これは、色々な体験を積めば、その問題は矮小化されるので、どうでも良いことになるかもしれない。しかし、無理矢理記憶の底の追いやることは、後で爆発する可能性がある。

 更に言えば

「強制された許し」
「こだわるななどの強制」

で、心の持つエネルギーを押さえ込むことは良いことだろうか?

 確かに

「復讐心を暴走させる危険性」

はある。しかしながら押さえ込みすぎることも行けない。

 この問題に関して、私の経験で思うことがある。

 30年ほど前だが、私は会社、グーループリーダーという立場であった。上司のN課長とは上手くいっていない。グループの業務計画などは、私の責任だが、N課長の色々な介入があり、しかも新技術開発という『華のあるの仕事』は、後輩のSが担当していた。なお若手の、M子が私のグループにいた。私はグループ内の負荷計画はきちんと行っていたが、Sの開発関係は、口出しができなかった。

 さて、ここでM子が結婚することになった。しかし、私はそのことを最後まで知らされなかった。私の計画は、1年程度の含みと6ヶ月の見通しを土台にしているので、結婚休暇なども6ヶ月前には教えてほしかったが、N課長とM子の意見で最後まで知らされなかった。なお、M子の結婚式には、N課長と、Sは呼ばれたが、私にはお呼びがかからなかった。

 この話で

「私を馬鹿にしたN課長、M子に対しての怒り」

は、当時は業務多忙で生まれなかった。当時の私は色々あり、感情が死んでいたのだろう。

 しかし、その後この怒りの心は、時々再発し、私を苦しめることになる。もう少し社内事情を言うと、M子の結婚相手は社内の人間であり、彼は私より出世している。(大手電機メーカーの幹部)

 このような、会社尺度では、私は

「部長にも成れない負け犬」

であり、会社序列では

「許す」

等という資格はない。しかし会社の中では

「出世された方に不満を言ってはいけない」

と言う風も吹いてくる。このような強制された『許し』が本物であるわけはない。

 ただし、

「会社の出世などは人生の一部」

と心から思えるようになった時には、このような問題も矮小化していった。

 しかし、

「現在は強制されて『許す』」

と言わされている人が多いように思う。

2020年4月 1日 (水)

反省で得るものは何か?

 ここしばらく『反省』について議論しているが、今回は『反省で得るモノ』を考えてみた。反省に限らず

「過去を正しく振り返る」

ことは、

「自分の力を客観的に評価する」

良い手法である。

「その時なぜ失敗したか、なぜ成功したのか?」
「自分のどの力がたりなかったか?何が効果的だったのか?」
「周りの人との関係は?助けてくれた人、敵に回った人?」

このような切り口で、時間をおいたことで冷静に評価できれば、自らの強みも見えてくる。また、

「昔(特に失敗したとき)と比べて、自分の成長も解る」

ことも大きい。更に成長した自分が昔を見ると

「当時は他人の責任と思っていたが、自分の問題点も見えてきた」

と言う経験を積むと、人間として一回り大きくなる。

 なお、反省を行うと、

「自分の心に正直に向き合う」

ことができる。私の経験でも

「当時は無意識的に押さえていた、怒りの感情」

を客観的に見ることで、

「無理に周囲の目に合わせることで出る心の歪み」

等が解るようになった。このように、心の中にある諸々を意識するためにも、上手な反省は大切だと思う。感情などを抑えつけることは、気力を押さえることになり、自分の力が十分発揮できなくなる。これを克服するためにも、正しい反省は大切だと思う。

「自分の感情を抑えつけているモノを外せば、大きな力が出ることがある」

これを上手に使っていくべきだろう。

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