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2020年4月30日 (木)

日本語をマクルーハンのメディア論で議論する

 日本語を、マクルーハンのメディア論の切り口で考えると、色々と見えてくる。まず日本語の特徴は

「表意文字の漢字と表音文字の仮名の混合」

である。マクルーハンは、

表音文字のアルファベットを使うことで、神職等の特権階級しか使えなかった表意文字から、大衆の文字利用文化の可能性を拓く

と指摘している。中華文明の影響下にある私たちなら、これは

「真名(漢文)を読める知識人の支配=科挙」

と言う実例が頭に浮かぶだろう。表意文字を全て覚えるのは大変な努力が必要である。そこで、

『知識人』と『一般人』の壁

が生じる。これは、中国や韓国では顕著である。

 しかし、日本では

「仮名と漢字の混合で、仮名文字による知識への門戸開放、そして漢字を徐々に覚えていくことで、表意文字のイメージ共有も使う」

という、中華文明の辺境の日本の立ち位置を十分活かし、よいとこ取りを行っている。これには、中国の文明以外に、仏教文明が入ったことの影響もある。日本に入った仏教は、大衆に広げるために、色々な説話を用いた。法華経、維摩経、勝鬘経 や阿弥陀如来の教えは、どれもイメージ豊かな世界を皆に伝えて、その中で『救い』や『慈悲』などの概念を伝え育てている。

 さらに、平安時代には日本独自の物語文化が花を開くが、これも仮名漢字交じりの文章の力である。完全な表意文字の漢文を使いこなすのは、限られた知識人だけであり、一方ある程度のイメージ共有がないと、物語は成立しない。例えば『竹取』と言う二文字でも、多くの人は竹の姿を思い出す。このような共有感覚を持つことが日本の文明の特徴である。

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