ご縁のあった人たち

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2020年5月31日 (日)

「日本教」と「保守」または「革新」の相性

 日本教の特徴は、皆が全体的なイメージを共有して、「道理」に従い納得する点にある。

 このような全体のイメージをもって、社会に対応することは、

「現状を肯定する保守の立場」

と相性が良い。しかし、変革期に関しては、

「現状を否定する革新の立場」

も必要になる。

 しかし、ここで大事なことは、

「理論だけでの革新的提案は日本教に合わない」
「日本教に相性が良いのは、完全な姿を見せる『新規提案』」

である。

 例えば、

「将来のあるべき姿の物語を提案する」

これができれば、現状を破棄しても、次に行く可能性が出る。

 維新の勢力には、このような側面が強みになっていると思う、他の野党にはここまでの総合的な力はない。

2020年5月30日 (土)

就活の予定が変化した学生に対して助言

 今回の自粛ムードで、学生のバイトや部活または留学等の海外経験が、無くなった人もいるだろう。

 そのような人の中には、

「就活の時の売り文句がなくなった!」

と困惑している人もいるだろう。

 しかし、そもそも論から言えば、学生の採用時に見るべきモノは、地頭や学問的知識であり、バイトや部活というのは少し間違っている。確かに留学は少し違うかもしれないが、そのような本筋から考えれば、対応策は見えてくると思う。

 私が考える、現在の状況を踏まえた、就活生の戦法は

「知性をいかにPRするか」

である。例えば

  1. コロナ対応の日本と種外国との比較検討を、文化的なモノなどで加味して検討する
    ->この成果は今後の市場検討に使える
  2. コロナ以降の働き方はどうあるべきか提案する

等のレポートを、一度作ってみる。このようなモノも良いのではないかと思う。

 このために参考になる本は以下の通りである。

 

2020年5月29日 (金)

進化する伝説の力

 昨日書いた、テレワークの成功条件に関して、「伝説」の有効性について、もう少し補足しておく。

 確かに、「伝説のXX」という存在や、逸話は多くの人たちの心を向けるには有効である。しかし、「伝説」の危険性をしっかり認識しておかないと行けない。それは、

「時計が止まった人」

になってしまう危険性である。これは極端な事例では、

  • 儒教の「古代の聖人の政治」
  • ある会社の「創業者の伝説」

等の例がある。そのように過去の事例を美化し、それだけしかないと進化がなくなる。

 もう一つの問題は、

「伝説を作る負荷の問題」

である。物語を描くというのは、結構な負荷が必要になる。それも個人のスキルに依存する。このような配慮も必要である。

 しかし、既に良い事例がある。

「トヨタの進化する官僚主義」

である。彼らは規則を作成するという負荷を、きちんと吸収しながら、規則と現実の乖離をなくすため、毎日修正している。このような発想で、伝説も修正すべきである。

2020年5月28日 (木)

テレワークの成功条件(持続可能性)

 新型コロナウイルスの影響で、テレワークが推進されている。この働き方は、現在のネット環境やIT技術を考えれば、しばらくは効果があると思う。ここで

「しばらくの効果」

と表現したことに注意してほしい。私の会社員生活は既に前世紀期が大部分だが、このテレワークに発生する問題点を、経験している。それは、

「関係部門への配慮不足」

という問題である。これは大きく分けて、パソコン画面やタブレット画面、極単にはスマホ画面の制約という一面と、組織の横などへの配慮不足などから発生するモノである。しかもこのトラブルは、

「世代交代してから発生する」
または
「まれなトラブル時に発生する」

傾向がある。通常上手く流れているときは、限られた範囲の情報伝達で良い。また色々な経験をした人間が、分散しているときには、それなりの配慮をする。現在なら、メールの写しを入れておくし、その写しに目を通すという配慮もあるだろう。

 しかし経験が無くなった世代が働き出すと、このような写しなどには反応しなくなる。

 こうした状況を考えると、テレワークの成功のためには以下の方策が必要ではないかと思う。

  1. 全体を見て交通整理を行う管理者スキルの育成
  2. 全体像を皆で共有する「物語(伝説)」やゲームなどの作成

2020年5月27日 (水)

アメリカからの人工呼吸器購入について

 安倍首相とトランプ大統領の間で、

「アメリカが作りすぎた人工呼吸器を日本画購入する」

という話がまとまったらしい。これについて、色々と批判をしている人がいる。

 しかし、大阪の吉村知事は、

「プレハブでも良いから人工呼吸器を備えたコロナICUセンターを秋までに作る」

と大号令をかけている。ここで、格安の人工呼吸器が手に入れば、これは一つのコロナ中等症対策センターの設備として、立派に使えると思う。

 さて、今回議論したいことは、

「なぜ、安倍首相の話は悪意に捉えられて、吉村知事なら英断と言われるのか?」

という問題である。これには大きく分けて二つの要因がある。一つは国政と、地方自治の首長の違いである。国政においては、与党内においても、トップの足を引っ張る人間は少なくない。ましてや批判ばかりの野党や知識人は多くいる。しかし、地方の首長に対しては、よくやっている限りは批判がしがたい空気が生まれる。実際地域の住民としての直接の意見が飛び交う世界で、大阪モデルの成功を見ている以上、批判すると石が飛んでくる世界になっている。これは地方議会のオール与党体制とも絡んでいる。(なお大阪には、自民党という抵抗勢力が少しいる)

 しかし、もっと大事なことは

「安倍首相の人徳のなさ、胡散臭さ」
「吉村知事の明確なる情報公開と説明」

ではないかと思う。なおここで、安倍首相自身の問題と言うより、周辺にいる人罪の問題である。どうも安倍首相の政策には、お友達優遇のうさんくさい匂いがする。このような不明瞭な話は、昔なら文相にできないので表現されなかったが、SNS時代なら色々と反射的に

「うさんくさい」

と意思表示ができるようになったと思う。維新の政策には、このような

「明確な文にならない民意」

を拾い上げる力があるように思う。

2020年5月26日 (火)

何故S新聞社とA新聞社は,麻雀関係者の実名報道ができないのか

 今回の、K前検事長の麻雀事件で、K氏だけが実名報道され、残り3名の名前が出ていない。これに対して、S社は

「ニュースソースの秘匿」

という、一般常識では通用しない言い訳をしている。しかし、この問題をもう少し深掘りすると、子のいいわけには興味深い話がわいてくる。

 まず一つ目は、マスメディアの取材姿勢の問題である。今までも、色々な事件で検察が取調中の情報が、結構色々なメディアに載ってくる。これは、検察との何らかの裏ルートでのリークの可能性を疑っても良いだろう。

 そういう意味では、今回の麻雀関係者は、情報源の第一線かもしれない。

 しかし、もう一歩踏み込んでみよう。

 ここで大事な話は、K氏は政治家のコントロールは上手という特技はあったが、検察人脈の中では、主流派ではなかった。

 こうすると別の見方もできる。

 検察の別の方々に取り入った人間が、今回の麻雀関係者だったら、

「二股膏薬がばれる」

という事態になる。

 これこそ、S社A社が恐れることではないかと思う。

2020年5月25日 (月)

明治以降の体制と敗戦後の変化

 先日、旧制中学の幾何学は、科学的な論理思考の鍛錬として、よくできている、と言う話をした。つまり、具体的な図形の性質を抽象化し、論理的に議論するという総合的な観点での教育であった。

 しかし、現在の数学教育は、あくまで数学の範疇でしか教えていない。

 このような変化はどこで起こったか、これはやはり、昭和の敗戦時のアメリカGHQの支配の結果であろう。そこでは、数学の専門家は、数学だけに閉じこもりがちになる。(これには、一部には軍事協力のすねの傷を隠す面もある。暗号解読などには数学者が動員されていた。)

 ただ、GHQの支配には、内務省解体の動きもある。先日も、NHKの「日本人のお名前」で警察が、病人の状況を把握しているという話があった。これを聞いて驚いた人がいるが、戦前の内務省から警察の駐在所までは、国民の生活を守り、指導するという一本の筋が通っていた。但し、これが悪用されると、軍事国家への転落となってしまう。これを嫌って、GHQは内務省解体を行った。

 しかし、住民を総合的に観るという立場からすれば、何らかの機能が必要では無いか?

 地方自治で少しそのような面も見えているが、コロナ危機の後にはもう一度見直すべきモノがあると思う。

 

天台の摩訶止観の実践記録を小説風に書いてみました

 天台の摩訶止観の内、非行非坐三昧の観音様による瞑想法について一つ書いてみました。

 

 

2020年5月24日 (日)

本を読むと言うこと その6

 先日から書いている、本の読み方に対し、別の切り口での議論があったので、紹介し議論したい。

 この本が主張していることは、

戦前の旧制中学の数学教育においては、幾何の勉強を通じて、
論理的な議論などを学ぶ仕組みができていた。

と言うことで、現在の数学教育が、

「数学としての厳密さ」

だけを求めているが、旧制中学の幾何は、

「具体的な図を描きながら考える科学的思考の訓欄から抽象化していく」

と言う総合的な視点で作られている。

 更に、ヒルベルトの幾何学のような、数学だけの厳密世界の問題に対する指摘がある。p184

生徒の学力を超えて厳密な数学は生徒にとって厳密どころかかえって曖昧模糊とした印象を与えます。このことは中学生に(ヒルベルトの)『幾何学の基礎』を教えることを想像してみれば明らかです。

この問題は、数学の専門家に任せすぎた、教育の総合的な検討欠如にも絡むのではないかと思う。

2020年5月23日 (土)

本を読むと言うことについて その5

 本を読むと言うことに関して、極端なスローリーディングの実例として、灘校の伝説の授業を取り上げるべきだろう。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/橋本武

これは、中学の3年間を費やして、「銀の匙」を読み続ける授業である。

 ここまで深く追求したら、人の心に寄り添ったり、作中人物の体験を追体験したりして、自分の感情についても豊かな感性を育て、他人の心にも共感し、理解するように育てることができると思う。

 また、並行して、論理的にきちんとした議論の展開も育成できたと思う。

 この授業は素晴らしい。

 しかしながら、私は一つの皮肉な見方をしてしまう。それは、

「この授業は灘中学だからできた!」

理由は

「灘中に進学できるほどの家庭環境(裕福)が揃っている」

という条件を考えるからである。

 前にも家庭環境と作文の問題で議論したが、公立の小中学校には、多様な家庭環境の子供がいる。決して

「生まれつき銀の匙を与えられた子」

だけではない。この配慮が国語教育にも大きく影響している。

 ただし、田中角栄の教師優遇政策の後には、教師の側に

「偏差値優等生が主流になる」

傾向が出ている。このような偏差値優等生には、裕福な家庭環境での育ちが多い。

 この理由で、

多様性に対する配慮が弱い

人が増えたのではないかと思う。

2020年5月22日 (金)

本を読むと言うことについて その4

 昨日書いた、

「生活環境などの違いから、共感できない人に対して、心に寄り添う読みができるか?」

もう少し、議論してみたい。

 まずこの問題に関連して、前に読書感想文の作文教育との関連で書いた記事があるのでもう一度挙げておく。

http://manabizz.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-1e7d.html

ここで議論したことは、作文教育に関して

「子供の生活環境に差があるので、体験したことの作文を書かせることはできない。」
その代わりに
「疑似体験として、本の中の世界に対して作文させる。」

という手段が執られた。

 これを、広げれば、

「友達づきあいができない子も、本の中の世界での交流を見て、人と人との関係を学ぶことができるはず。」

という発想になる。これは確かにある程度の効果が期待できるだろう。

 しかし、教科書的な読み方になれば、どこかで正解の縛りが出てくる。

「感動する場所も決まったところで、決まった形で感動しなさい。復讐などの心は抑えなさい。」

という読み方になってしまう。(鴎外の山椒大夫を読んだときの違和感を思い出した。)

 この問題は

「国語教育と道徳教育の分離問題」

伴絡んでくる。

 明治維新以降の日本の学校教育は、このような

「人の心への関わり方」

まで教える様になって、

「正解のある読み方」

にこだわってきたのではないかと思う。

2020年5月21日 (木)

本を読むということについての議論 その3

 前回までの議論 その1その2

 今回は、正解のない読み方について、もう少し議論していきたい。つまり

「人の心に寄り添う読み方」

について、どのように訓練するべきか、議論していきたい。もう少し突っ込めば、

「人の心に対する接し方を訓練できるか?」
「可能であってもするべきか?」

という問題である。

 この問題は、

「パンがなければお菓子を食べれば良い」
逆に
「貧乏な家には誰も友達が来ない」

という様に、

「生活環境の違いによる、個人の体験の違いが生じる。
これに起因する共感能力の違いを、学校教育で埋めることはできるか?」

と設定し直しても良い。

 ここまでの議論を踏まえて、

「多様な見方がある。正解は一つではない。」

というべきではないかと思う。

 しかし、もう一つ言えば

「多様さにを認めるにも、制限事項はある。他人の生存権等を狂わせてはいけない。」

という規範は必要だと思う。

 このように考えると

「正解のある部分と多様な答えのある部分の線引き」

が本当の課題ではないかと思う。

2020年5月20日 (水)

人を救う形は様々

 またTwitterで考えるべき議論が出てきた。自称、破戒僧のかとうれい師のつぶやきである。

宗教活動は法人獲得の基準満たしではなく人の心の拠り所であり続けることでは無いのだろうか?宗教法人の基準を満たすことだけで本質を見失いがちな教団は多い。そんな話を弟子の一人と話してた。彼は法人作りに頓着しない私に疑問を感じているようだが、こんな時代だからこそこのスタイルを通したい。

この話について、私は両方の意見に賛成してしまう。つまり、かとうれい師の

「あくまでも自分の信念による信仰を貫きたい」

という立場は、宗教人として立派であり、尊敬するしかない。

 しかしながら、弟子の方が

「宗教法人にして安定することで多くの人を救ううことができる。
少なくとも今いる信者の心はもっと安らぐ」

と考えることにも同感するモノがある。特に、かとうれい師は修験道の大先達であるが、修験道が明治以降にたどった弾圧の歴史を考えれば、法人による安定を求める気持ち痛いほど解るような気がする。

 ここまで書いて、この図式どこかで観たことがあると思ったが、浄土真宗にこのような話があった。浄土真宗は親鸞が開祖になっているが、親鸞の教えというか、生き方は、純粋そのものであり、弟子達がついて行くことも難しいモノであった。その当時は、一遍の時宗の方が布教には成功していた。しかし、蓮如が出現してから、浄土真宗の大衆化、組織化は一気に進み、戦国時代の一向宗の力となっていく。

 蓮如がしたことは、親鸞の教えの大衆化であり、原理主義者から見ると、困った所業かもしれない。しかしこれで救われる人もいる。

 ただし、かとうれい師が行っている、

「純粋な信仰による突破」

も現在の宗教状況を観れば必要と思う。

 かとうれい師のすごさの解るYouTubeを参考に挙げておく。

 

2020年5月19日 (火)

本を読むと言うことに関しての議論 その2

 昨日の,本を読むと言うことに関しての議論に関して、今日は別の切り口で考えてみたい。本日のお題は

「国語の勉強というのは、正解を選るだけのためか?」

である。

 この問いに関しては、多くの人たちが

  No!

と叫ぶだろう。しかし私はあえて、

「正解を選る読み方の訓練はある」

と答える。これは、私がへそ曲がりだから言うのではなく、『言語技術』という運動として、多くの人が参加している。もっと言えば、戦後の日本教育に関する論争の中にも、時枝先生の一派が主張したことでもある。

 このような、

「正しく高速に読み取るスキル」

の習得は、色々な分野の学問の基礎になる。私は実はこれの体験者である。私の小学生時代に、5年6年の算数で、大量の文章問題を解いたときがあった。これで、

「問題の出題主旨を速やかに読むスキルが身についた」
結果
「中学入試では一番だった」

という経験がある。確かに五〇〇人程度の中での一番だから、大したことではないが、この様な成果が出ている。

 ただし、正しく読み取った後には、多様な側面を考えて

「人の心に寄り添う読み方」
「正解のない読み方」

への進化も必要である。

 この段階的な指導について、きちんと見通しができていないのが現状の国語教育の問題ではないかと思う。

2020年5月18日 (月)

本を読むということに関しての議論 その1

 Twitter上でちょっと気になる話があったので、少し突っ込んでみたい。

塾で教えていて、わりと衝撃的だったことの一つが「国語の教科書以外で、まとまった文章を読んだことがない子」の存在を、リアルに目の当たりにしたときのことだ。

この議論は、まだ色々と展開しているが、今回はメディア論の立場で、この問題について考えてみたい。なお、このブログではメディアの議論になるので、『本』という形で議論するが、元のTwitter上の話は、本にこだわっていないことをあらかじめ断っておく。

 一つ目の論点は、本による情報伝達や、教育は絶体的なモノではないという議論である。これは、現在の日本では『教科書』の存在を、当然と考えていることへの批判である。例えば、グーテンベルグ革命以前の西洋では、本は貴重品であり、庶民の手に入るものではなかった。また江戸時代の庶民を考えても、限られた手習い手本を写す、四書五経の素読をするという方法で学んでいた。

 そのような状況では、口頭での伝承の比重が多かった。

 二つ目の論点は、現在のメディア状況を考えると、文章以外での教育や体験ができるのではないかという議論である。明治から、昭和の時代までなら、活字による伝承の力は大きかった。そこでは、本をしっかり読みこむことで、人の考え方の多様性なども学んでいく必要があった。しかし、現在のようなメディアの多様化が実現したとき、本に頼るべきであろうか?それ以外で伝える方法があると思う。

 例えば、人間の考えの多様性、行動の影響で、人がどのように感じるか?これらは、映像・音声の総合的なメディアで伝える方法がある。更にゲームの世界でのシミュレーションもある。このような育成もあるのではないかと思う。

 もっと言えば、本においても、文字情報だけでなく、漫画なども活用すべきだと思う。一人の人物を想像する時、具体的な絵で与えられた場合に、人物としての具体化や、多面性が生きてくると思う。

 これを見て思ったことは、空海が日本に密教の色々な法具や曼荼羅を持ち帰ったとき、多様なメディアによる布教を実現した。今このような変革期ではないかと思う。

2020年5月17日 (日)

53万アクセスの御礼

 このブログのアクセスカウンタが、五三万を超えた。昨年末に五二万を超えたが、そこからの一万が長かった。

 相変わらず、正社員登用関連のアクセスが多いが、他の記事に対するアクセスも増えてきたように思う。私も、昨年と比べても、自分の理解が深まってきたので、もう少し色々なモノが書けるように思っている。

 昨年末から『日本教』によって、色々なモノが整理されてきたが、これに対する実例が『新型コロナウイルス』対応として見えてきた。

 このような面からもう少し書いていきたいと思う。

 最後になりましたが、読者の皆様に厚く御礼申し上げます。

2020年5月16日 (土)

魂のこもる言葉とは

 先日から、橋下徹氏のYouTubeによる検察定年延長についての議論を聞いている。

 そこで大事な話と思ったのが

「官僚達が持ってくる案の中に、抽象的な話しかないものは、彼らが気乗りしていないモノである。」

という指摘である。

 これは、大事な指摘だと思う。これと関連して、山本七平(イザヤ・ベンダサン)が、「日本教について」の中で、「松川裁判と証言」や「広津氏の四原則」という議論で述べている、

情景の記述が明確に脳裏に再現できないモノは、信憑性が疑われる

という発想とも通じる。

 つまり

自分の体験等の具体的なモノがなく、抽象的な概念だけの議論は危ない

である。

 これは、私も自分で文章を書いていて、自分の体験に裏付けられたモノは強い言葉になるが、何となく受け売りの理論は空回りすると言うことで納得してしまう。抽象的な概念でも、それを実行する人物像を生み出せば、納得するようになる。

 このように考えると、『言霊』の概念も、井沢元彦流の空回りではなく、本当に魂を持った言葉の力ではないかと思う。

 『日本教』の皆の智慧を信じる立場なら、

魂のこもった言葉は皆に届く

という信念があるように思う。

2020年5月15日 (金)

物事への関わり方の多様化

 昨日書いた維新の強さの議論をもう少し一般化して考えてみた。私の意見では、維新の強さは

  1. 民衆の「整理されていないが不満」という感情を拾い上げ
  2. 専門家としては原理原則できちんと議論する
  3. または謙虚に専門家に聞く

という、専門家の厳密な議論と、大衆のもやっとした感覚の両面を生かしている点が大きい。

 従来の発想では、

  1. きちんと議論できる専門家だけが発言する
  2. 大衆はそれに従え

型か

  1. 皆が平等誰でも発言できる

という両極端であった。

 これを両面で生かすようになり、

「大衆の感情も大事にしながら、全体を観て政治を行う。」

これが維新の強みだと思う。

 さてこの問題は他でも応用ができる。

 前にこのブログで書いた、クリエイターと読者の関係もこの議論が当てはまる。

 このようにSNS社会では、大衆の関わり方が、変化してきている。これを先取りした人が勝者になると思う。

2020年5月14日 (木)

維新が何故強いか解った気がする

 昨日、橋下徹元大阪市長がYouTubeに公開した、検事の定年の議論を聞いた。

 これは色々な情報があるが今回議論したいのは、以下の観点である。

  1. 政治に関して専門家は、『あるべき姿』に関して、きちんと議論すべき
  2. 大衆は、厳密な議論をしなくても『何か気持ちが悪い』と意思表示する権利がある

これは貴重な見方だと思う。現在マスメディナなども、この二つを混ぜていることで、議論が不明確になっていることが多い。

 例えば、今回の検察定年延長問題についても、理論的に言えば

  1. 定年延長は色々な分野でも行われている
    六五歳定年は時代の流れ
  2. 官僚の人事権は、政府にあるべきであり、官僚達だけで決めることはおかしい
    聖域になれば、戦前の軍部の統帥権問題のような暴走が起こる
  3. 政権のが人事を握ることの危険性は、選挙で民衆が直すことができる

という風に、政府側の意見が正しいという結果になる。

 しかしながら、民衆が釈然としないモノがあるのも事実である。これは

  1. 安倍首相のお気に入りだけの人事では
  2. 家計学園等と同じような図式では

という、胡散臭さが感じられているからだと思う。

 この問題に対して、橋下徹大阪市長(当時)が、聖域に切り込んだ事例を比較したら、もう少し見えてくる。

大阪市の教育委員会に対して
「教育の独立性は重要である。しかしながら、犯罪に値するような重大事項を処理できない教育委員会には、行政側が人事介入を行う。もしこれが不満なら、市長選挙などで民意を示したほしい。」

このように筋を通し、しかも民意を味方に付けて聖域に切り込む。これが維新の強さだと思う。

 一方、安倍首相も、獣医学科の独占問題や、検察人事の内部決定という、聖域に切り込んでいる。しかしながら、

   「お友達を優遇するための配慮」

という風に世の中から見られてしまう面がある。

 これは逆に言えば

   「首相のお気に入り」

というぐらいの「権力」を使わないと突破できない、従来の利権の聖域があるのかもしれない。(自民党が取り込まれているという面も含めて!)

2020年5月13日 (水)

大阪のコロナ対策の力

 #吉村知事 率いる、大阪のコロナ対策は、突出して優れていると思う。この力を私は、『日本教』を忠実に実行しているからだと思う。つまり、『日本教』の教え通り

「指導者はきちんと全体像を持って皆を導いている」
「指導者は大衆を信頼している」

ので、

「市民に素早く情報公開し、参加させている」

ことが

「本当の意味の自粛=自発的な協力行動」

につながっている。例えば

「医療従事者のための雨合羽の提供」
に関しては
「寄付された雨合羽が医療従事者に渡るところを報道」

という形で、全員参加のサイクルを上手に回している。

 また、専門家の扱いも上手い。

「医療崩壊を防ぐことが第一優先」

と専門分野毎で異なる見解を、相互的な判断で整理している。これが本当の政治の働きだと思う。

 大衆も参加した、『日本教』的な対応は、ドイツなどの『規則主義』対応に勝ることを結果として示せるようしたい。 

2020年5月12日 (火)

情報不足の昔と情報過剰の現在

 先日、Twitterで

新井白石さん、6歳くらいから家庭学習で父親から指示されて毎日「書き取り4000字」をやってるんだけど、白石さんのパパはどうやって子供の集中力をコントロール&持続させたのだろうか

当時のメディア状況を考えると、学問と言えば、論語等の古典を素読し暗記する。紙があれば筆写する。これしかないから集中しやすいですね。現在にある諸々は、集中力の邪魔になります。

https://twitter.com/artartn/status/1259592709234241537?s=20

https://twitter.com/suzyoshi1/status/1259628261333774342?s=20

という議論をした。

 この話を考えていると、仏教の教えでは、一二因縁等の教えが、

「その人の視野を時間軸と世の中の関わりという風に広げる」

役割があると思いついた。こうして広い視野を持つと、

「絶対にこれ!」「XXが必然」「XXは存在する」
から
「全ては移り変わる・・・空である」

という風に

「こだわりや恐怖からの自由」

を得る。これが、紀元前の仏が教えを説いた時代に、人々を救う手段だったのではと思う。

 しかし、現在では、皆の視野が広がりすぎて、

「コロナウイルスは、XXの失敗でばらまかれた」

というような情報が、私たちまで伝わってくる。

 確かに

「疫病の原因がウイルスの作用」
とか
「手洗いや消毒でかなり防げる」

等の知識は昔と比べれば不安を少なくしてくれる。

 しかし、逆の情報過剰の現在は、その選択評価をしないことで、新たな不安を引き起こしている。

 情報過剰の現在の不安解消は、情報の追加ではなく、自力評価で対応すべきだと思う。

2020年5月11日 (月)

「日本教」と持続可能性について

 「日本教」について、色々と書いているが、今回は

持続可能性は、一所懸命の発想から出る

という観点で議論する。これは逆に言えば、

侵略国家やフロンティア探しの流動性は、持続可能性に合わない

ということで、具体的には

欧米文明と持続可能性は相性が悪い

という議論である。単純に言えば

「だめだったらリセットする」
「上手くいかないなら余所に行く」

という発想に、持続可能性が求めることができるのだろうか。これの一例として

「日本には数百年持続の老舗が多くある」
「欧米に企業の寿命は数十年体ぐらいしかない」

という事例が、

「一所懸命」

で頑張った結果だと思う。

 さて、ここでお隣の四千年の歴史を持つ大国を見てみよう。この国は、内部で革命を何度も起こしているので、そこでリセットが入っている。しかも、儒教の精神は、

「過去の聖人を理想とする」

ことで、現状への適応力が無い。日本の老舗は

「秘伝のXX」
を守りながら
「新しい試み」

「九敗一勝」
の割り切りで行う

という、守るべきモノと、新陳代謝を上手く組み合わせている。これが、一つの場所で必死に生きる智慧ではないかと思う。

 一所で生きる、これこそ持続可能性だと思う。

2020年5月10日 (日)

小さな声を拾い育てる仕組み

 昨日書いた、発達途上のクリエイターと不安な読者の話に関連して、もう少し広げて考えてみた。昨日の話を一般化すると、

「小さな声を拾い上げて、良いモノを育てる力とする」

と言う議論になる。現在の有利な点はSNS等の力で、

「情報発信のハードルが下がった」

である。ただし、このハードルの下がり具合については、もう少し議論が必要である。確かに、ツールとしてのSNS環境は備わっている。しかし、それを使う人の心が向いているだろうか。この問題について、もう少し議論が必要と思う。

 まず、著者に対して、

「買ったよ!」「良かったよ!」「XX好きだよ!」

等の声をあげることの大切さを伝えることができているか?これに関しては、昨日も引用したように

作り手にとって、作品の購入報告ってね、最高にうれしいです

と作者側からの発信もある。

 しかし、もう一歩踏み込んで

「読者の反応が、クリエイターを育てる道筋を見せる」

方法で、もう少しこのような声を引き出せないだろうか?

 このような関係の

「クリエイターが育っていく状況のライトノベル」

「クリエイターを育てていくゲーム」

等で、

「小さな声が生み出す効果を実感させる」

という方法も無いだろうか?

2020年5月 9日 (土)

発達途上のクリエイターと不安な読者の交流について

 Twitterで著作の購入に関して少し議論をした。ここで話題になったことは、

作り手にとって、作品の購入報告ってね、最高にうれしいです

買ったよー!の一言にはね
「あなたの商品を吟味した結果、金銭を支払うに値すると判断したため、頑張って稼いだお金を使いました」っていう、途方もない量の情報が入ってるからね

と言うことで、クリエイターに対する評価の重要性である。

 このような購入報告は、SNSの利用で、従来と比べれば、比較的簡単にできるようになった。著者が発行したとつぶやけば、それにリプライで、「買ったよー」とでも返せばよい。このような著者に対するつながりが、容易になったのがSNS時代の特徴だと思う。

 さて、この話を読者側から少し見てみよう。昔の紙の本、そしてファンレターという、紙の文化の時代には、

「読者側の発信に大きなハードル」
つまり
「ある程度まとまった感想でないと書くのは恥ずかしい」

があった。これをもう少し言えば

「良い作品です」「素晴らしいです」

ときちんといえるほど、ある程度の自信が無いとお手紙を書くのは難しかった。しかしSNSの時代の気軽さなら

(どこが良いとはいえないが何となく)「好きです」

と言う言葉が、気軽に出せるように思う。また、メジャーな意見でなくても

「XXが好きです」

と言う言葉も気軽に出せると思う。

 逆に、このような気軽な

「~~が好きです」

と言う言葉が、発達途上のクリエイターの届くと、これが進歩のきっかけになると思う。

 そう考えると、クリエイターと読者が、気軽にふれあえるSNS社会を上手く使うことで、クリエイターの力、そして読者の力が増えていくのではと思う。

2020年5月 8日 (金)

読書の方法

 外出自粛の影響で、自宅にこもる人も多いと思う。特に学生の場合は、自分で本を読む機会も多くなるだろう。そこで、今回は

『読書の方法』

について少し議論しておく。

 私の考えでは、読書には以下の3段階がある。

  1. 本に書いている世界で考える
  2. 本の登場人物の心に寄り添って理解する
  3. 著者の立場を思いやり、『何故この本が書かれたか』を理解する

なお、これは3段階と言ったが、優劣を付けるつもりではない。ただこの違いを意識することが大事である。

 1.の『書いてある世界で考える』の極端な例は、数学である。本の中で書いている、定義に従って議論する。それ以外の直観的要素などを持ち込んではいけない。例えば、群論では『積』と言う表現を使うが、これを

  「今までの数学で使った整数などのかけ算」

のイメージで考えると失敗する。あくまで

  「二つの項の間の演算で制約条件を満たすモノ」

と言うルールで考えないと失敗する。大学数学の初心者の失敗は、このような

  「抽象的なルールできちんと考える」

訓練ができず

  「直観的な思考に縛られてしまう」

弊害が残った場合がある。

 一方、2.の『人の心に寄り添う』読み方は、文学作品などに対して必要である。このときには、自分の想像力や直観的な感覚も大いに生かすべきである。

  「人の悲しみ、喜びについて、自分も共感していく」

一方、

  「そのような共感している自分を客観的に観る」

このような経験が、文学的な読書には必要だろう。

 さて、最後に『著者の立場を思いやる』読み方であるが、これは考え方によれば『上から目線』という危険性もある。しかし、

  「著者の生きた時代背景を考え、何故このように書いたか」

を想像することは、著作を理解するために大事な作業だと思う。これは自然科学の論文でも、社会科学の本でも、文学作品でも大切なことである。例えば、物理学の基礎として

  「マックスウエルが電磁気の基礎方程式に関する論文は、当時の機械の発想が入っている」

と言うことを読み解けば、どうして『場の概念』という創造ができたか解るだろう。

 また、私は天台の『摩訶止観』を読むときには、6世紀の環境をできるだけ意識して読んでいる。紙が貴重な時代、これを意識するだけでも得るものがある。

 このような本の読み方を考えるのも良いのではと思う。

2020年5月 7日 (木)

心と意識そして智慧の関係

 被害者の話について、何回か書いたが、この問題は『心の傷』に関わってくる。そこでもう一歩踏み込んで

「心とは何か?」

と言う問題を考えてみた。

 天台の摩訶止観には、「心・意・識」を、三者は別のモノではあるが、バラバラでなく一体で動くとしている。仏教の大まかなまとめ方では

  • 心:広い意味では精神の作用全て、狭い意味では感情など、意識よりも基本的
  • 意:考える舞台
  • 識:意の上での判断など、識別の働き

という感じで捉えている。

 確かに、私たちは「意識」して考えるが、その結果に対して、満足や不満は別の感覚として起こることがある。これを、

「感情の働き」

と捉えると、そのようなモノかと思う。ここで、

「感情を生み出すモノは何か?」

ともう少し踏み込んでみよう。一つは、直接的な感覚による、快・不快感である。これをもう少し広げれば、今までに経験が生み出す『快・不快感』である。こうした今までの積み重ねが、

「言葉で言い表せず積もっている」 

モノを西洋文明では無意識といい、仏教の唯識では、マナ識、アラヤ識という。

 さて、このような『心』の傷をどのように治したら良いのだろう。仏教の教えには、『識』と『智慧』を分けている、ここにヒントがあるように思う。私たちは、学校の勉強に過剰適応していて、『知識』があると『智慧』があると勘違いしている。

「先生の指示する、正解を識別する」

力は、『智慧』とはいえない。本当の智慧は、

自分の体験や知識を広く見て、深く考え、偏見なしに必要なモノを見いだす力

ではないかと思う。

2020年5月 6日 (水)

理想的な『被害者』で考えているのではないか

 ここ二回ほど被害者に関する議論を書いた。

 一回目は被害者のための施策、

 二回目は被害者のためになる対応

しかし、この問題に関して

「理想的な『被害者』で議論していないか?」

と言う観点が出てきた。

 ここで、『理想的』と言う表現をあえて使ったが、これには色々側面がある。まず一つ目の側面は、道徳的価値観の関与である。

「犯罪被害者は、復習などと言うことを考えてはいけない」
「過去のことを忘れて前向きに生きよう」
「慰謝料を受け取ればそれで全て終わり」
「法律に従って裁かれればそれを受け入れる」

と言うような、道徳的な価値観に従い、怨恨などの悪い感情を持たない、『理想的』な『被害者』という議論がある。

 学校教育の場でのいじめの時など、このような論法で押し込められることが多い。

 しかしながら、現在の多様な議論の場では、ここまでの押しつけは成立しなくなっている。いじめ問題などでも、SNS等の場で、被害者感情を受け入れ、拡大していくことで、学校側の押しつけを破ることが可能となってきている。

 さて、上記の価値観がらみの理想という面は、現在は少し和らいでいるが、もう一つ西洋文明特有の『理想的』な発想がある。これは、マックス・ヴェーバーが理念型の議論などで使った『理想的』という表現である。そもそもの発想は

「物理学で使う、大きさがない『理想的気体』などの発想」
「良心の呵責無く犯罪を行う理想的な『犯罪者』等の用例」

である。これは、複雑な人間の心を単純化し、『原因ー結果』のペアに追い込むための手段である。マーケティングなどでも、消費者を単純化し『理想化』して考えることで、キーファクターを見いだすなどの効果が出ている。

 しかしながら、被害者のように、傷ついた人には、それぞれの経緯がある。これを、物理学のように単純化して処理する発想は、一寸待ってほしいと思う。

2020年5月 5日 (火)

「国家神道」の必然性について

 明治維新の後に、第二次大戦の敗戦までの間、日本の国を支配した『国家神道』については、あまり良い評価をする人は少ない。

  左翼系ー>「戦争に国を導く仕組み」

  宗教家->「国家権力による宗教の冒涜」

  古神道->「本来の神事を汚す神道もどき」(修行法等の大事なモノが壊された)

と様々な方角から攻撃を受けている。

 しかし、幕末から明治初期の日本の国内情勢を考えると、

国家神道にはそれなりの功績があった!

と言う見方ができるのではないかと思う。

 まず一つ目の論点は、幕末の社会情勢である。特に桜田門外の変以降は、「天誅!」という

暴力による正義の押しつけ、反対者の抹殺

が横行していた。この様なとき

話せば解る!

と言う解決は、『自分たちの正義』を信じている者には通用しない。

 このような者に対しては、絶対的な権力の裁きが、暴力沙汰を収めるためには必要である。徳川幕府にその力が無いなら、

天皇陛下のお心

と言う絶対的な力を持ち込む必要があった。

 さて、二つ目の論点は、明治の文明開花時に

宗教戦争を起こさないための解決

としての、『国家神道』である。これは、逆説的に見えるかもしれないが、廃仏毀釈などの動きからも解るように、神道と仏教各派の争いが起こる可能性は、当時かなり大きかった。更に、キリスト教の布教が解禁になれば、キリスト教の排他的教えがまたもや、宗教対立を激しくなる。宗教対立は、お互いが『信じている』というモノだから、『神秘体験などでの回心』を除けば、説得などは通用しないことが多い。

 このような対立を避けるために

宗教を超える日本国民としての国家神道

と言う仕組みは、明治の混乱を避けるためには有効に働いたと思う。 

2020年5月 4日 (月)

被害者のためになる対応とは?

 昨日書いた「被害者のための施策」に関して、もう少しミクロの観点で議論する。当然のことであるが、被害者の状況は一様ではない。従って個別の状況に対していくことが大切である。しかも、同じ人でも時間の経過と伴に変化していく。このよう多様な状況に対して,均一な教科書的な対応は、

「方向付けを示す」・・・これは大切だが!
「解決のヒントになる」

程度の効果しか無い。ただし、昨日も書いたように、

被害者の幸せが大切

と言う基本的な原理が、専門化が進むと忘れられそうになる。特に西洋文明的な『弁護士の活動』においては、

「依頼人のために全力を尽くす」つまり「一方的な主張をする」

形の議論になる。西洋文明の発想では、

「お互いが断片的なモノしか知らない」

のだから、一方的な主張をぶつけるのが正しい。

 しかし、『日本教』的な発想では

真実そのものを皆が知る

と言う共通感覚がある。ここで加害者側の一方的な主張で、傷つく被害者が少なくない。

 この段階での対処は、とりあえず弁護士に任せるなどの、代理人での闘争にするのも一つの手段である。

 このように被害者のことを考えると

  1. これ以上の被害を避ける(二次被害を避ける)
    1. そのための逃避もある
  2. 自分の権利などを見直す
  3. 自分はどうすれば良くなるかを考える
  4. 良くなるための一歩を踏み出す

と言うような手順が必要ではないかと思う。

2020年5月 3日 (日)

被害者のための施策が大切

 色々なトラブルの時に、加害者側の弁護をきちんと行うが、被害者の幸せの再構築を支援する手立てについて、何か弱いように思うことがある。

 例えば、学校などでの『いじめ問題』の時にも、教師などから

(被害者に対して)「お前にも悪いところがなかったか?」

と追求されることが少なくない。そのような体制で、被害者の心の傷の復旧への支援などが、できないことが多い。

 また、パワハラやDVにおいても、

(被害者が)「逃げるべきだった」
(逃げなかったお前が悪い・・・だから我々は助けなかった)

と言う形で追い込む周囲の人がいる。

 また、不倫された夫に対して、不倫した妻側の親や友人が

「あなたが魅力が無いから不倫された!」
「お前がしっかりしていないからだ!」

と追求される場面も少なくない。

 こうした追求などの結果

被害者が鬱病になったり、最悪自殺したりする

場合がある。

 この問題を考えたとき、

被害者が幸せになるためにはどうすべきか?

と言う議論が不十分だと思う。もっと言えば、民事訴訟の

慰謝料を払えば終わり

と言うレベルしか制度的にはできていない。確かに慰謝料で、療養やカウンセリングを受けろという発想はある。しかしそれだけで良いのだろうか?もう少し言えば、慰謝料という金の話になれば、金額に関する争いが生じる。その場で、またもや被害者が傷つくこともある。

 この問題をもう少し深く掘り下げてみたい。

2020年5月 2日 (土)

医療崩壊を防ぐためにできること

 今回のコロナ危機においては、まずは医療現場を崩壊させない、これが第一優先だろう。さて、このような危機管理においては、人材の枯渇を防ぐ必要がある。特に今回のような長期戦なら、交代要員の確保も重要である。前にこのブログでも書いたが、学生などの動員や、訳あり有資格者の復帰支援などは、行政的にも考えるべきであろう。

 さて、この問題に関して、

ある病院が、防護服の不足の危機に対して、簡易の防護服の作り方を紹介

と言う記事を見た。

 この記事に対して、多くの支援が寄せられたことは良い。しかし、

多忙な医療従事者にこのような作業をさせて良いのか?

という問題提起がなかった。この問題に関しては、大阪では

知事や市長が声を出し、簡易の防護服としての雨合羽提供!

を呼びかけている。つまり大阪では現場をよく知っている首長が

「医療従事者でなくてもできることはできるだけ支援する」

ことをきちんと行っている。

 このような、人材不足になりそうなときには、

「資格保有者でなくてもできる支援作業者を手当てする」

と言う対策は、管理の基本であり、現在の医療機器に対しては考慮すべきモノである。

 例えば、事務作業や、色々なサポート業務の見直しを行い、資格保有者でなくても対応できる部分は、できるだけ支援を行う。特に、現在多くの分野で仕事の負荷が減少している。この状況を考えて、

「ベストの力でなくても何らかの支援のできる人材」

をかき集めることも考える価値があると思う。

 また、後方支援も考えるべきだろう。医療従事者の家族のサポートなどは、平常時とは異なる手厚いサービスが必要となる場合もある。例えば、シングルマザーの看護師にも、超過勤務をお願いするなら、子供に対するサポート要員の手配なども効果がある。これを、飛行機が飛ばないで待機しているCA等、対人力の長けた人材にお願いするのも一つの手だろう。

 こうした管理手法を用いて、行政のトップから支援を行うのが良いのか、一般のボランティアに依存する日本的解決が良いのか、両面が必要だと思う。

2020年5月 1日 (金)

『日本教』を儒教との関係で考える

 日本の文明を考える時には、千年以上の中華文明との関わりと向き合う必要がある。中華文明は、やはり儒教の影響が大きい。しかし、日本人の思っている儒教と、中国および韓国での儒教には大きな隔たりが亜あると思う。私たちが儒教というと

「孔子・孟子の教え」つまり「論語の一節を読む」

である。しかしながら、中国の儒教は、科挙を用いた政治体制に組み込まれている。つまり、

「支配者の正当化手段としての儒教」
「徳のある皇帝の支配の正当性」
「儒教に従っての法等の統治制度を作る」

と言う一貫したシステムである。しかも、孔孟の時代から、千数百年の時間をかけて、朱子などが作り上げた大家だった教えである。

 それを日本の人たちは、

「和魂漢才」

と言うことで、自分たちに必要な

『孔子の話の断片』
だけを切りとって
『儒教の素晴らしい教え』

と言う風に教えている。

 この姿勢は、

「ソクラテスがどのように考えたか」
を無視して
「プラトンが筆記した哲人政治と言う概念だけ学ぶ」

西洋文明の吸収法と同じである。

 ただし、儒教に関しては色々な弊害があるので、日本的なつまみ食いは正しいと思う。儒教の一番の弊害は

「昔の聖人の統治を理想とする」

発想であり、これでは進歩が期待できなくなる。

 なお、日本教は、大乗仏教の教えを上手く使い

「お釈迦様は今でも霊山で法を説いている」
従って
「現在の状況に応じた教えがある」

と現実的な対応を肯定していることに注意してほしい。 

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