ご縁のあった人たち

無料ブログはココログ

« 「国家神道」の必然性について | トップページ | 心と意識そして智慧の関係 »

2020年5月 6日 (水)

理想的な『被害者』で考えているのではないか

 ここ二回ほど被害者に関する議論を書いた。

 一回目は被害者のための施策、

 二回目は被害者のためになる対応

しかし、この問題に関して

「理想的な『被害者』で議論していないか?」

と言う観点が出てきた。

 ここで、『理想的』と言う表現をあえて使ったが、これには色々側面がある。まず一つ目の側面は、道徳的価値観の関与である。

「犯罪被害者は、復習などと言うことを考えてはいけない」
「過去のことを忘れて前向きに生きよう」
「慰謝料を受け取ればそれで全て終わり」
「法律に従って裁かれればそれを受け入れる」

と言うような、道徳的な価値観に従い、怨恨などの悪い感情を持たない、『理想的』な『被害者』という議論がある。

 学校教育の場でのいじめの時など、このような論法で押し込められることが多い。

 しかしながら、現在の多様な議論の場では、ここまでの押しつけは成立しなくなっている。いじめ問題などでも、SNS等の場で、被害者感情を受け入れ、拡大していくことで、学校側の押しつけを破ることが可能となってきている。

 さて、上記の価値観がらみの理想という面は、現在は少し和らいでいるが、もう一つ西洋文明特有の『理想的』な発想がある。これは、マックス・ヴェーバーが理念型の議論などで使った『理想的』という表現である。そもそもの発想は

「物理学で使う、大きさがない『理想的気体』などの発想」
「良心の呵責無く犯罪を行う理想的な『犯罪者』等の用例」

である。これは、複雑な人間の心を単純化し、『原因ー結果』のペアに追い込むための手段である。マーケティングなどでも、消費者を単純化し『理想化』して考えることで、キーファクターを見いだすなどの効果が出ている。

 しかしながら、被害者のように、傷ついた人には、それぞれの経緯がある。これを、物理学のように単純化して処理する発想は、一寸待ってほしいと思う。

« 「国家神道」の必然性について | トップページ | 心と意識そして智慧の関係 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 「国家神道」の必然性について | トップページ | 心と意識そして智慧の関係 »